山風景とデジタルコラボ+α                                   

コンテンツ作製のため、山風景等を素材にして様々な試みを綴ってみます。

曽我兄弟(その3)

2010年09月04日 | 歴史ネタ
さて、次に訪れたのは、滝から1kmほど離れた場所にある曽我八幡宮です。
無料駐車場も完備されていますよ。
まあ、全くヒトケもありませんが。


鳥居を見上げます。


説明うんちくによりますと、ここが十郎が討たれた場所だとか。


長々と書かれた説明板も、となりにあります。


個人的には、色彩を施した社殿より白木無垢の社殿の方が趣があって好みなのですが。


社殿むかって右方向へ進んだ地点にある、曽我兄弟霊地へも寄って行きましょう。


緩やかな階段を、標高差10mばかり登るだけですし。


あららー 備えられたシキビ?が散乱しているではありませんか!


となれば、見過ごすわけにはまいりませんよね。


見習い女史は、せかせかと動き回って修復してゆきます。
感心、感心!


でもって、元通りになりました。ちゃんと水だって補給したんですよ。

まあ、ここの石造物は、かなり新しいものに思えるのがいまひとつではありますがね。


そんなこんなで、半日、お疲れ様でした。ってオイオイ。馴れない社会見学に疲れて、どうせ寝ちまってるんだろうが。
やはり、トンデモナイ見習い女史に違いないようだな。


さあ、仮眠した後は富士山へ登頂しなくてはなりません。
その前に、明るいうちに前祝と参りましょうか。

もちろん祝うことなど、ありゃしませんけどね・・・

しいて申せば、オメデタイヤツラの所業をってか。

曽我兄弟(その2)

2010年09月04日 | 歴史ネタ
さて、ゆかりの地探訪は、仇をとったとされる富士宮へ一気に飛びます。

建久四年五月二十八日は、朝から雨が降ったり止んだりしていました。工藤祐経を討つべく曽我兄弟が密談をかわしたとされるのが、ここ「曽我の隠れ岩」です。


あいにく我々は盛夏に訪れたため、雑草に覆われていて、隠れた大岩が判然としません。


上部へ廻れますが、ご覧のとおりの有様なんです。


音止の滝へ行くためには、曽我橋を渡らなければなりません。
なぜ曽我橋と命名されたのかは、もはや女史にだって理解できています。


音止の滝へ到着です。


が、音止の滝の由来は書かれてありません。


伝説はこうです。先ほどの大岩で曽我兄弟は密談をしょうとするが滝音にかき消されてしまい、お互いの話を聞き取ることができません。そこで兄弟は、「南無川津八幡」を一心に祈ったところ、兄弟の心情を哀れんだ滝が暫し音を止めてくれたと伝えられているのです。
もうお分かりですね。それで 「 音止の滝 」なわけです。

当日も爆音を轟かせていましたよ。

行かれる方のために、大雑把な位置関係を示した案内板もアップしておきましょう。
付近には、工藤祐経の墓などもあるのです。

そりゃ、もちろん行きましたよ。

まあ、見方を変えると、そもそも工藤祐経が統治すべき領土を伊東祐親に取られたことに端を発するわけですから、曽我兄弟のあだ討ちはお門違いと捉えられなくもありませんが。

まあ、昔のことですから 今更何を言ってもはじまりませんけど。

比較的新しく感じられたこの場所ですが、お墓というより供養のために建立されたもののな気がしてなりません。


うんちく案内板も掲示しておきましょう。
あだ討ちこそ、武士道の美徳なわけですね!?

そうだ!
武士道に限らず、初期のカンフー映画もしかりだと思うのは気のせいだろうか。

その3へ続く


曽我兄弟(その1)

2010年09月04日 | 歴史ネタ
郷土史に興味をもち始めた歴女見習いAK女史と富士山登頂へ出かける際に、曽我兄弟ゆかりの地を探訪しようか ということになりました。
(ヤ○セ○さんに言わせると、若い娘をダマシテということになるらしい w)

曽我兄弟のあだ討ちが日本三大に数えられるほど有名な話だったのは昔のこと。今の若者がそんなことを知るはずもありません。
曽我物語は、平安時代末期から頼朝が将軍となった鎌倉時代初期にかけての時期の話となります。
曽我兄弟(五郎と十郎)の父親は、相撲の決まり手”カワヅがけ”の考案者河津三郎祐泰です。伊東祐親が河津三郎の父ですから、曽我兄弟からすると伊東祐親は祖父にあたります。
余談ですが、頼朝が政子と出合う前に恋中に落ちた八重姫も伊東祐親の娘でしたから、河津三郎の腹違いの兄弟ということになるのかもしれませんね。
曽我兄弟の苗字が父親姓と異なるのは、父河津三郎が討たれた後、幼い兄弟を連れて妻満江の方が曽我祐信と再婚したためです。

さて コトの発端は、伊東祐親が本来嫡流筋である工藤家の領地まで統治するようになったため、祐親のハトコである工藤祐経が祐親の暗殺を企て、巻狩(軍事演習)の帰りに赤沢で待ち伏せし、伊東祐親を狙った矢がそれて、息子の河津三郎が討たれてしまうことからだとされています。

成長した曽我兄弟は頼朝が行った富士宮での巻狩へ忍び込み、頼朝の家来となった敵である工藤祐経を見事討ちとったものの、兄弟も捕らえられ処刑されてしまうというのが大まかなストーリーです。

さらに詳細な物語の内容はご自分で調べていただくこととして、先ず立ち寄ったのは、河津三郎が領地、五郎・十郎兄弟もここで生まれたと伝えられる河津八幡神社からです。河津三郎の館がこの付近にあったようです。


十郎・五郎の像は元々河津駅前にあったものを、5年前の2005年に八幡神社へ移設したのです。


神社本殿の扁額には、大正天皇即位の礼(大正4年11月10日)の日付が刻まれています。


手玉石 河津三郎が鍛錬に使用した重さ300kgもある大石です。
いくらなんでも、人間の力でこんな大石を持ち上げられるはずもないことは明らかです。

まっ!あくまでも伝説ですし。


続いて訪れたのが、工藤祐経の腹心が伊東祐親・河津三郎を狙った、三本のしいの木があったとされる場所。


”曽我物語はじまりの地”などと書かれてありますが、遺恨の源はさらに深いところにあったのではないでしょうか?。


もちろん、現在はしいの木は枯れてありません。楽に800年以上経過しているわけですから。


となれば、次に立ち寄るうべき史跡は、河津三郎が絶命した場所でしょう。


最近整備がされた「東浦路」の傍らに、河津三郎の血塚はあります。


血塚には、三郎を供養するための石塔(宝篋印塔)が建てられてあります。



玉垣に刻まれた年号から、昭和10年にも整備が行われたことがうかがい知れますね。

晴れた昼間でも薄暗く、一人で散策するのはお勧めできません。



その2へつづく