森かずとしのワイワイ談話室

平和・人権・地球・子育て・教育・くらし・そしてまちを語る

テオ・アダム(Theo Adam)のこと 本題

2007-09-17 19:18:00 | Weblog
 さて、本題のテオ・アダム(Theo Adam)です。私が敬愛してやまない旧東ドイツ出身のこの歌手は、特にリヒャルト・ヴァ-グナーの楽劇で、ヘルデンバリトン役を一手にこなして世界のオペラハウスの歴史に刻まれています。1926年8月1日生まれですから、年齢81才。昨年満80才を期に、12月の引退公演をもって現役を退きました。
 テオ・アダムの歌唱にはじめて触れたのは、1988年の来日公演シューベルトの歌曲集「冬の旅」が、サントリーホールからのライブ録音としてNHKーFMで放映されたときでした。「冬の旅」は、それまで叙情派バリトンのヘルマン・プライを中心に聞いていたお気に入りでしたが、スピーカーから流れるテオ・アダムの声は、深く、低く、それでいて輝かしく、歌唱は楷書であってドラマティック。それまで聞いたことがない「冬の旅」に耳が釘付けになったのを鮮明に憶えています。バス・バリトンという声域は、私自身の声域ともぴたりとして、一瞬にして動かぬひいき歌手となったのです。それからというものは、テオ・アダムの名があるCDを探し回り、国内版では飽きたらず、旧東独からの直輸入盤に目を光らせ、ヤマチク詣でとなりました。91年にベルリンの壁崩壊直後の旧東独を訪問したときも、レコード店を探しました。なつかしい思いでです。Ich worte verkaufen Aufname Theo Aamと片言のドイツ語でまちをさまよいました。
 彼テオ・アダムの実演には三度、もう追っかけでした。1990年12月11日大阪国際交流会館。まさにはじめて「冬の旅」実演に触れる機会をつかんで、チケットを握りしめて列車に飛び乗りました。ステージやや右手で前列確か3列目。そこへ、ロマンスグレーのテオ・アダムが颯爽として姿を現しました。その時すでに年齢は64才。どちらかといえば小柄な部類のアダムは、ステージに立つと古武士の風格が漂い、直立不動で歌います。一曲一曲で顔の表情が変わり、曲を体現する様子が目の前で展開されるのでした。凛として、奥行きが深く、言葉が明瞭、低音は輪郭がくっきりとして、格調に満ちてました。
 アダムのもうひとつの持ち味は、低声歌手には珍しい高音域の輝かしさと、頭声と胸声が溶け合った実に朗々たる響きにもあるのです。「冬の旅」は、若者の失恋の歌ですが、アダムの歌唱は、墨絵のごとく、人生に深く分け入った求道者の物語と化しました。第20曲「道しるべ」がこんな傑作であったとは、アダムのこの実演で知ったことです。夜行列車の私の頭には、凛としたアダムの立ち姿とこれぞドイツ語という発声が消えることはありませんでした。
 以来、ますますファンになった私は、2年後の1992年11月24日高崎文化会館での「冬の旅」、翌週11月19日大阪いずみホールでのドイツリートリサイタルをはしごしました。高崎のアダムは、風邪をひいていたらしく、途中途中に鼻をかむ光景がありながら、キャンセルせずに歌い通してくれました。いずみホールは、木調の素晴らしい響きの新しい小ホールでしたが、ベートーヴェンの歌曲「自然における神の栄光」は、朗々と響き渡り、今日まで私の愛唱歌となりました。
 ヴァーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」での親方歌手ハンス・ザックス、「ニーベルンクの指輪」での主神ヴォータンは、威厳と慈愛、苦悩と達観を込めた歌唱と演技の両面で第一人者です。12年間、あのバイロイトヴァーグナー音楽祭でヴォータンを歌い続けた歌手です。直輸入中古レコード盤に刻まれたアダムの歌唱は、私の中では、今もって古びることはありません。ヴァーグナーのオペラを聴いてみたかった。それが引退した今心残りです。
 あれから17年、何か私の知らない掘り出し物の録音や映像が見つからないか、日々アンテナを高くしている次第です。
 趣味の話はこれだけにしまして・・。明日は、都市整備常任委員会です。 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。