森かずとしのワイワイ談話室

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福島を未来のために心に刻む 福島訪問記(佐藤栄佐久さん、富岡町との交流編追記) 

2012-11-07 15:37:41 | 反原発・脱原発
 10月27日夕刻、飯舘村から私たちは郡山市に戻ってきた。前知事佐藤栄佐久さんは、前日まで9.11に絡むニューヨークからの訪問団の表敬を受け、さらにこの日は午後東京品川での活動を終えて自宅に戻って来られた。私たちの訪問に合わせて、無理をなさってのことだ。
 佐藤さんから、自宅に立ち寄って欲しいとのお誘いがあって、私たち11人は、ご厚意に甘えてご自宅の応接間に上がらせて頂いた。お疲れの様子も見せず、満面の笑みでご夫人共々、短時間だがもてなして下さった。応接間には、知事時代を中心に、出会った人士との交流の写真や物品が所狭しと並んでいた。出会いを大切にし、心を配った施策に思い入れを残しておられることが伺われるひとときだった。庭には表土を剥いだ土盛にブルーシートがかけられていた。これで多少線量が下がったと被災地での暮らしについて言及された。

 私たちは、ご自宅を辞し、佐藤さんに先導され、夕食交流会場のホテルに到着した。ここでは、佐藤さんの依頼に応えて、富岡町企画課長の横須賀さんも同席され、富岡町の被災、避難状況、復興計画などについて、説明質疑の時間を過ごすことが出来た。横須賀課長の説明は以下の概要だ。

◆富岡町の被災
 富岡町は、震度6強の揺れだった。4そして、津波は最大波高が21.1Mと県内最大だった。原発事故による避難中の関連死を含めて143人もの尊い命、財産とともに、駅や線路、下水道処理施設、漁港、完成したばかりの「海の道」など、都市機能のインフラに大きな被害が出た。そして、そこに世界でも類を見ない福島第一原発事故が発生した。震災発生後の初期対応の遅れが、大災害になったものであり、その影響の大きさは計り知れない。首相から半径20キロ圏内に避難指示が出され、富岡町はバスの調達に追われた。バスがないので、スクールバスをかき集め、住民を乗せた。自家用車が一本しかない道路で渋滞し、川内村には10時間もかかった。衛星電話とテレビしか情報源がない状態だった。川内村には、食料で随分お世話になった。それでも、3月15日には、再度避難指示が出され、川内村と共に郡山市のビッグパレットふくしまに再避難することになった。当初県は受け入れを渋ったが、所長に直談判して受け入れてもらった。
 原発事故の収束宣言が昨年12月16日にあったが、帰還に向けた除染作業や数十年に亘る廃炉・解体作業など困難な問題が多数存在している。

◆避難状況
 


◆復興計画

  
ーまとまった時間がなかなか取れない・・・・これから会派東京視察に出るので、ひとまずここまで 11月8日朝ー

 

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