ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

書くことの方法

2006年01月24日 16時59分30秒 | Weblog
取材主義と文献主義。どちらも実は共通している。取材で相手の話を聞くことと、文献をじっくり読み込むこと。前者では何時間にも及ぶし、真偽のほどをその粘り腰で判断しなくてはならない。後者は文献批判ということにある。批判すべき文献に依拠すれば、恥の上塗りになる。文献の弱さ、あるいはウソを見破れなかったということと、その文献による論理構築の虚妄さということで。 . .

どちらも足で稼がねばならない。
体力がいる。めんどくさがってサボルとどうなるか。
取材では朝日新聞の長野支局の偽造記事になるし、文献では裏のとれない資料を載せてしまう。代表的なものが剽窃である。さらに孫引きというのもサボりの一つ。孫引きをしてその孫引きが間違っていることもある。

取材主義も文献主義も調べたものの多くがムダになることを恐れてはならない。
8割、9割ムダになることもある。そのムダがいいという人がおればすごい。昨日佐野眞一さんの講演を聴いたが、ズバリそのことを言われた。「ムダが楽しい」と。
取材の厚みを増し、文献に依拠した論文がより大きいテーマに向かえる可能性をもつ。

取材主義も文献主義も時間をかけることだ。拙速では鉱脈に出会えない。またどちらもイデオロギー支配から脱することだ。イデオロギー支配はどこか公式主義的で色あせている。また権力に媚びないことだ。

書き手たるもの、この両方、取材主義も文献主義と兼ね備えたものを書き手は目指さねばならない。

ただもう一つ重要なものがある。想像力だ。それは直感なりカンなり、イメージなりが横溢することだが、担い手は統括的な位置を見つけないといけない。ものごとを一つの高みから、またはものごとを少し離れた目線から見れる大きさなのだ。

なかなか出来ない。しかし想像力のあるなしは決定的なのだ。

作品の魅力も最終的なカギを握ると同時に魅力的な構想力を持った作品は想像力に裏づけられているからいいのだ。


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