ブログ「かわやん」

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「ヒバクシャとボクの旅」を撮った映画監督国本隆史さんに聞く ③

2010年10月29日 13時50分12秒 | Weblog

「ヒバクシャとボクの旅」を撮った映画監督国本隆史さんに聞く は今回で3回目になりますが、ネット画面が修復されましたので前2回分とあわせて本日の3回分を掲載します。



8月の釜が崎の夏祭りでの上映会で国本隆史監督の「ヒバクシャとボクの旅」というビデオ作品を見た。被爆体験をどう継承するのかという問題を見据えた秀作だ。今年29歳の若手の映画監督に話を聞いた。



―映像とのかかわりはいつからでしょうか。

国本 東京の大学時代からです。専攻は社会調査論でして、ビデオを持って、フィールドワークへよく出かけていました。指導教官が、長崎の被爆者の生活史調査を30年以上続けている方で、長崎に行って、被爆された方のお話を伺う機会もありました。卒業論文では、ビデオ作品をつけて提出しました。そのとき作ったのは、2002年のワールドカップの日韓のサポーターの比較研究で、新宿区大久保や韓国へ行き、応援に参加する日本人、在日コリアン、韓国人のサポーターにインタビューをし、30分の映像にまとめたものです。僕が通っていた大学では、映像作品での卒論は初めてでしたが、指導教授が「映像で提出してもいいのでは」といってくださりました。



―大学卒業後はどうなるのでしょうか。

国本 大学卒業後はサラリーマンをしていました。しかし映画づくりに興味をもち続け、働きながら、映像を使って日中交流をすすめる「東京視点」というグループに参加し、映像制作の勉強をしておりました。それから、2008年9月から2009年1月までの4か月間、広島、長崎の被爆者の方々ら103人が地球一周する船に乗りながら、世界に証言を届けるプロジェクトがあると聞きました。このプロジェクトは、国際交流NGOピースボートが企画したものですが、この話を聞いたときに、「参加しなければならない」と思いました。そのときは「地球一周できる」という思いと、「長崎で被爆者の話を聞いたのに、自分は何も応答していない」という思いがあったんだと思います。そしてプロジェクトに同行しながら、「ヒバクシャとボクの旅」をつくりました。完成したのは2010年4月になります。長崎、広島、山口、兵庫、大阪、京都、横浜、東京、オーストラリアなどの各地で上映会を企画していただき、これまで15回以上実施しております。



―その「ヒバクシャとボクの旅」はどれくらいビデオを回されたのですか。

国本 250時間です。100名近くのヒバクシャの方々や、20カ国の訪問先で出会った人々、若者たちにインタビューをして、それを64分にまとめました。「被爆者の表現をどう継承するか」というテーマを追求し、ピースボートの船の中での証言、アジアから回ってヨーロッパにぬけて、中南米、南米、オセアニアなどの20か国で交流など記録しました。タヒチでのフランスの核実験のため被爆した人の証言も撮影しましたが、作品には収録されていません。いろいろな交流や証言があり、何を軸にして映像を構成するか、迷いまして、編集作業は1年近くかかりました。最終的には、被爆証言を聞いた自分たちはどうしたらいいのか、という問いを軸にまとめました。ですから、この映画はヒバクシャのストーリーではなく、被爆証言を受け取る者たちのストーリーにしたかった訳です。





―証言が率直で見ている側には証言者の本音がよく出ていたと思います。若者の証言もストレートでいい。本音を語っているから、その次の展開が映像で出ることになると思いました。

国本 乗船した若者の中には、初めて被爆者と出会う若者が多かったです。ある若者は、原子爆弾が通常兵器のように他の戦争で使われていると思っていて、戦争で原子爆弾が落とされたのは「広島と長崎だけなんだ」と衝撃を受ける場面がありますし、何回も証言を聞いて「証言に慣れちゃった」という若者もいます。その若者は、「(証言を聞いて)全然面白くなかった。何キロの地点で被爆して、その時自分は何歳で、という感じの話しを聞いて、何人かまで聞いていくとまたその話かと」いう感想を述べる若者もいました。もちろん証言を聞いて、「原爆は悲惨」「核廃絶しないといけない」という感想もありますが、これは当たり前になりすぎていて、ある意味ステレオタイプで、あらかじめ定められたような感想なんですね。僕は、「証言を聞いて慣れてしまった」という感想に正直さを感じましたし、そういう感覚も含めて、被爆証言をとらえていくことが、自分たちにとってのスタート地点のような気がしました。そういった証言に対する感覚も大事にしながら、自分たちなりに、どう被爆証言に向き合っていくか考えていきたいと思いました。



―若者の証言で注目したのは1人の女性の感想です。その証言はこうです。「不思議なんですけど、悲しまなきゃいけない、泣かなきゃいけないとか、変にそこで悲しんで、だからそこで戦争はいけないといわなければいけないんだって。たぶん、そういう流れがあったと思うんですが、もっとかみくだいたら何が悲しいのか、何で悲しいのかいま1つ説明できない」

正直な感想ですし、その正直な思いが実に自分に向かっていて極めて動的なものを感じました。先ほど、正直に「証言に慣れちゃった」、「(証言を聞いて)全然面白くなかった」という感想がありましたが、その限界を超える視点をこの若者は示したと感じました。

国本 僕も彼女の証言が引っかかっています。被爆証言を聞いているときは、悲しくて仕方がないのに、ふと次の日になってみると何が悲しかったのか思い出せない。じゃあ何が悲しかったんだろう。被爆証言って何なんだろう。そういう感覚をさらに深めて、被爆問題にかかわる作品制作は僕の今後の課題になっています。「悲しまなければいけない」と感じて、悲しんでしまっては、それは思考停止に陥っていることになります。






--映画の中では、被爆者が変化していく姿も描かれています。

国本 乗船した若者だけでなく、被爆者の方々も、世界各地の戦争被害者と交流する中で、変化していく姿が印象的でした。それまで僕の中での被爆者の印象は、大きい岩のような、固くて、なかなか変わらないイメージだったのですが、各地を訪れる中で、被爆者の方もどんどん変わっていくんですね。例えば枯葉剤が落とされたベトナムで、障がいを持って生まれた子どもたちに出会い、ある被爆者の方は「自分たちも、あのばからしい戦争の被害者なのに、他の戦争被害者のことを何も知らかった」と語ります。そして、「もしかしたら世界の人々も原爆のことを何にも知らないのでは」と、自分たちの証言の必要性に気がついていきます。



―そのことを映像ではきっちりと記録されていますね。彼女の証言は、枯葉剤被害者との出会いで、戦争被害の共通性、そして伝えていく覚悟、そういう気付きが収録されていて、作品の大事な場面だと思いました。そして幼少や胎内で被爆を経験したために、原爆投下時の記憶を持たない被爆者が登場してきます。

国本 今回103名の被爆者が乗船していた訳ですが、その方たちは被爆者手帳を持っていることを条件に選ばれました。その中には、おっしゃられたように幼年期に被爆したために、当時の記憶がない被爆者の方もいらっしゃいました。その方たちは、航海の最初のころは、「私たちは記憶がないから被爆証言ができない」ということで、遠慮がちなように見えました。ところが、各地で戦争被害者の状況を目の当たりにする中で、自分たちにできることはないのかと、模索を始めます。絵本の読み聞かせをしたり、紙芝居や劇をしたり、「自分には記憶はないけど、こういうことを勉強した」と若者に話したりなど、少しずつ活動を始めていきます。その「記憶がないけど、伝えたい」という気持ちが、僕にとって、これまでの被爆証言では得られなかったもので、印象的でした。








2010年10月29日 13:36


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