ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

日曜日新聞読書欄簡単レビュー第2弾

2009年03月28日 21時49分28秒 | Weblog
 日曜日新聞読書欄を5紙を読み1日で紹介する力技は相当しんどいことだ。22日の同コーナーを2部にわけ、今回は第2次入力になる。富山太佳夫評者の2冊の本の紹介からはじめたい。(文中敬称略)

 毎日の掲載だが、カルロ・ギンズブルグ『糸と痕跡』(みすず書房、3675円)を富山が論じている。導入はアウエルバッハの『ミメーシス』の感想から。20世紀文学批評の名著として知られる本を「あなたはどう評価するか」と迫る。ギリシャ文学から現代文学までの現実描写の方法を分析した本で、団塊の世代にはなつかしい本だ。あまりに厚い本で途中で投げ出したのがかくいう私だが、富山はこの『ミメーシス』の中のヴォールテル論を精密に読み直したのがカルロ・ギンズブルグ『糸と痕跡』というわけだ。『ミメーシス』をなぜ富山が引用した理由はカルロ・ギンズブルグがこの書を自分のテキストの読み方に似たものを見出したことに由来する。アウエルバッハが「偶発的な出来事、平凡な生活などの文章の断片を通じて深い全体の把握に到達しうる」という伝統的な文学史と無縁おn観念を引き出したというわけだ。そういうことを念頭においてカルロ・ギンズブルグの読み方を富山が説明している。その文脈が少し複雑だから原文のまま紹介する。「哲学者ヴォールテルーを論じる批評家である。要するに、哲学者、批評家、歴史家の競演ということだ。哲学者の言葉を読みとる批評家の言葉を読み取る歴史家の言葉が、私の眼の前にあるということだ。なんともリッチな気分になる」。つまりカルロ・ギンズブルグがヴォールテルーの言葉を読み解くことで現代の大衆社会を予見する言葉を探り出すのだ。それは文化的等質な大衆社会到来をアウエルバッハは市場の合理的法則に規制されることをヴォールテルーが抽出したのだが、カルロ・ギンズブルグが歴史家として論理の抽出していう。さらにジャンバッティスタ・ヴィーコ『新しい学』全3巻を富山は論じる。しかしこのイタリアの思想家にして歴史家のヴィーコの『新しい学』はあまり紹介していない。ただ本の一説を引用して本を読むことの楽しさをあげるのだ。「薄汚くよごれ、切断され、本来の場所から外れたところに横たわっていたため、これまで知識にとって役に立たなかった古代のもろもろの偉大な断片が、磨きあげられ、合成され、本来の場所に置かれて、偉大な光明をもたらしてくれるということ。…わたしたちに確実な歴史を語ってくれるすべての現象が、これらすべてのことがらをみずからの必然的な原因としているということ」

カルロ・ギンズブルグの本が出たところで、彼の『チーズとうじ虫』という歴史書に匹敵すると絶賛されているのがグリニス・リドリー『サイのクララの大旅行』(東洋書林、1800円)―日経―だ。内容は1741年7月、オランダ人船長がインドから幼いクララというサイを国に連れて帰り見世物として連れ歩いたというもの。イギリス小説にも影響し、見物人にはカサノヴァの名もある。18世紀のクララから見た歴史書なのだ。ただ、面白おかしい本だけではない。歴史学会の賞までもらっている。これだけ面白い歴史書を歴史学者が書けるかというわけだ。
金融危機について野口痴悠紀雄が『金融危機の本質は何か』(東洋経済新報社、1800円)―日経―を書いている。金融危機の主犯は金融工学でもファイナンス理論でもないと説く。使い方を誤ったという。適切な金融商品を提供していない政府の姿勢も批判するこの書は実にラディカルだ。
コメント
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