ブログ「かわやん」

森羅万象気の向くままに。

震度2

2009年03月08日 23時24分33秒 | Weblog
朝、仕事をしていたら、ドーンときた。地震である。

 震度2というのはこの揺れなのか。朝6時すぎのことだ。

 大きな地震に遭った人が「ドーンといったと思うと」という表現をよくされるが、なるほど「ドーン」というのが震度2でも感じた。

 床に座り込み茶箪笥もたれていたところだったから、よけいに響いた。寝ていても起きただろう。

 京北町に行ったが、例年なら雪が多いのに今年はほとんど降らなかったという。暖冬と地震の関係はないだろうが、しかし異常気象は続く。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜新聞読書欄簡単レビュー

2009年03月08日 11時01分34秒 | Weblog
 日曜日恒例の日曜新聞読書欄簡単レビューです。毎日、朝日、日経から。今年は著名作家の生誕100年にあたる。その中で大岡昇平にスポットがあたったことはなかったが、毎日で丸谷才一が大岡を戦後最高の日本文学者と評している。続く朝日のテクノロジーと文学を論じた文学評論紹介から現代文学の位相を占ってみよう。

 丸谷の評価をまず数値的にあげていることから紹介しよう。自身が架空の文学全集を編集したことをあげて(『文学全集を立ち上げる』)、漱石三巻、谷崎三巻、鴎外二巻、大岡二巻と、戦後の文学者で唯一大岡だけが二巻だと高い評価が確立していることをあげる。もちろん文学上の検討からも分析しているが、作品の中で選ばれたのは「野火」。この作品のすばらしさを丸谷は、一つに、クリスチャンの結核を病んだ若い知識人という設定をあげ、「余分な線が邪魔をしていないし、要るだけのものはしっかりと揃っている」と書いている。二つ目には、敗残兵による人肉食という題材が鮮烈であり、信仰薄い日本人に神を意識させる力をもつうえ、「緩急自在な時間処理がすばらしい」と分析する。三つ目に文体が主題に適切とする。「しかも美しい」。難点は「末尾のキリスト教的信仰への復帰が狂人によりなされるせいで意味が曖昧」としながら、これも欠点とだけ断じることなく、「近代知識人の精神風俗を写すのに向いていた」と書くから、もう完璧な作品に思えてくる。丸谷は「その偉容さに打たれた」と評する。すごいほめ言葉だ。長編小説では『花影』をあげている。「女の流転の姿を描いた名篇で、女主人公への愛情にみちている」として、大岡の宗教的なものへの思慕をみている。さらに『ハムレット日記』をあげる。志賀直哉、小林秀雄、太宰治に「ハムレット」に題材をとった作品があるが、大岡は最も知的だという。丸谷があげる戦争文学で第二次世界大戦を扱った作品で推奨するのは、ノーマン・メイラー『裸者と死者』、J・G・バラード『太陽の帝国』、そして『野火』だ。第一次世界大戦はハシェク『勇敢なる兵士シュヴェイク』を名作としてあげる。湯川豊は同じく毎日の特集の中で『レイテ戦記』をあげている。その手法はスタンダールの研究者でもあった大岡の精神に求めている。それは「常に目醒めていること」だった。この精神を背負い大岡は生きた、と。『レイテ戦記』は「軍部上層部の動きを逐一とらえながら、かんたんに責任をあげつらわない。そういう姿勢がこの戦記をいっそう重いものにしている」と書く。大岡が鎮魂の意味を込めて書いた文学は「野火」の宗教性とどこか共鳴する。

こうした巨匠の文学的背景を考えながら朝日がとりあげたヒュー・ケナー『機械という名の詩神』(上智大学出版、1700円)の書評を読むと、テクノロジーが人間の機能を補填するものではなく生活までまるごと呑み込むことをあげる。情報理論のパスカルというプログラム言語にほぼ変換できるのが、ベケットの『ワット』というわけだ。「プログラムは、何も行わず、何も表示せず、何もアウトプットしない」。これがまさにベケットの文学ではないか、と評者の鴻巣友季子は書く。「前世紀転換期、芸術はその題材、文体、アポローチなどにおいて本質的な変化を遂げていた」として、バルザックの膨大な作品群が、ジョイス作品ではダブリンのわずか一日を書くことで『ユリシーズ』一冊を仕上げた。評者は「ジョイスは、現代人がもの言わぬ「無言語性」の印刷物に支配されていることを洞察し、旧来的な語り手を作品から排した」として、そこから無限の読みを可能にする『フィネガンズ・ウェイク』が生まれたのだ、その文学はテクノロジーとごく密接に結びついていた」。詩人エリオットもそうだというのだ。さて大岡の宗教的、あるいは鎮魂との差異はここで明白だろう。どこが違うのか。そう。神の存在である。つまりテクノロジーの支配を受ける文学は、あるいは表現はどこか神を否定することで成り立っているのであり、それはウェブの世界も同様だろう。すると来る文学が何を求めるのか。神なき時代を神を求める必然性はおのずと鮮明になってくろのではないか。二つの書評を読み比べて対極にある文学論に逆に現代の位相が浮かび上がる。

 日経ではキアラン・カーソン『シャムロック・ティー』(東京創元社、3200円)を掲載している。101の短編が時空が入り乱れながら、1つの像をとり結ぶのだ。「どこか中心があるのではなく、画面のすべてを総合したところに意図がある」(評者蜂飼耳)。ストーリーは15世紀にフランドルの画家ファン・エイクの絵に込められた秘密をめぐるものがたりだが、101の短編が交差して全体像を描くという全体小説の手法ともいえる作品だ。評者は現代においてこのような手法がある作品があるのか、と驚きをみせている。(文中敬称略)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする