
照る日曇る日第993回
幕末に来日した外国人の視線や膨大な証言を通じて、徳川末期、江戸末期の「文明」の特色を浮き彫りにしようとする試みは興味深く、ある程度成功しているが、著者はそれは維新の到来によって完全に滅び去ったと主張する。
また著者は、文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びない。それは変容するだけだが、歴史的個性としての生活総体のありよう、つまり文明だけが滅びる、と説くのだが、はたしてそうだろうか。
文明に比べて文化の定義がなされていないのでよく分からないが、そういう言い方をするならば、文明も、文化も、民族の特性も同じように絶えず変容し、崩壊し、また再構築され続けているのではないだろうか。
というような話をしたい、のではなかった。
本書で自由自在に引用されているチエンバレン、ヒュースケン、カッテンディーケ、モース、レガメ、ハーン、バード、スミス、オズボーン、アーノルド、オールコックなど当時の来日外国人たちの日本人についての証言は抜群に面白く、ただそれだけでも読み物としての値打ちがある。
巻末の「心の垣根」のおいて、鋭敏な著者は「東海道中膝栗毛」のユーモアに不気味なもの、明かるいニヒリズムを感じ取っている。弥次さん喜多さんが安住するのは、生垣が低い、確立された個がない、言い換えればヒューマニズムという思想も実体もない世界である。
その生垣が低い世界に、黒船とともに「武装した近代」が来襲してきたとき、平和で安気で牧歌的な江戸の巷は、私たちがいまを生きている超資本主義の時空へと激烈に転換せざるを得なかった。
けれども日本会議の連中が勝手にそう思い込んでいるように、著者はその処方箋を本書に何ひとつ書いたわけではない。
安倍蚤糞になんちゃらかんちゃら言いながら結局自公に入れる人 蝶人