照る日曇る日 第916回
本巻には一高の「校友会雑誌」をはじめとする若き日の著者の小説や随想、あれやこれやの談話筆記、「春琴抄」や「細雪」などの創作ノート、最後は生涯にわたる「歌稿」が雑然と掲載されている。
初期作品の冒頭は著者の高等小学時代の回覧雑誌「学生倶楽部」に掲載された「学生の夢」であるが、そのしょっぱなの「虎狩」などは加藤清正の故事を下敷きに日清戦争の時代を反映した露骨な嫌中国イデオロギー丸出しのショートショートだが、教養のないネトウヨが読んだら「チャンチャン」の意味が分からないだろうな。
談話には「細雪」の回想が出てくるが、連載二回目にして官憲が圧力を掛けてきたので、本当はもっと悪い芦屋婦人を登場させたかったのだが、善人だけのあんな甘い話で終わってしまったと悔しがっている。まことに残念だった。
創作ノートでは小説の創作の源泉となったメモや断片を拾い読みすることができるが、面白かったのは、登場人物の名前の候補のリストアップである。「お」で始まる名前だけでなんと一〇〇以上も列挙しており、作家の周到な準備が窺い知れる。
また人名だけではなくここで取りあげられている地名や動植物の名辞群を眺めていると、谷崎によって書かれた、あるいは書かれなかった小説のヴィジョンがおのずと浮かびあがってくるようだ。
最後は小説家谷崎の短歌。いや和歌集であるが、いわゆる月並み調でどうということはないが、次の二首などはどうだろうか。(現代語表記に書き換え)
妻の手が酸素吸入のゴム管を支へながらもふるへつつあり
我といふ人の心はただひとりわれより外に知る人はなし

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