前にも言ったが、この時代は私の研究対象外なので、せっかくの展示品を写してないものが多い。特に土器を移さなかった。
写した土器は、ある神社の横にある山で見つけた土器の破片に似ている形態の土器が有って、同じものに見えたので、写したものだ。
その手持ちの土器は、蓋らしい。内側に上薬が塗られて、外は素地のままだったと記憶していている。書き掛で探したが、引越しで行方不明だ、そのうち出てくるだろう。
上薬があると言うことは、もっと後のものだろう。神社で使用していて、割れたので、捨てられたと思われる。しかし、皿の内にもう一つの輪かあると、内側に上薬を塗っても、酒などには使えない。盛り合わせ小皿?
出てくれば、載せることにしよう。
下の写真の手前にある4つの土器の下側だと思われる。今にして思うと、高杯など、奥に見える土器もあちこちに在ったのだが、残念ながら写してない。
上下、これらの土器も、判らないので、説明書きを読んでいただきたい。
これは、最初に載せた写真だが、後ろに幾つか時が写っているので、再登場させた。
また、首飾りなどの下に、斧と見られる鉄器が写っている。鉄器は大変な量が出てきたようだ。
先に何度か行った様に、2キロ前後の地域にある、3つの古墳から出たもので、この範囲で、相当の権威を持った人物が居たことは、単にこの地方の地主的な長でないことになろう。
これらの古墳の一つが、覆いをつけて展示場になってる。次回はそれを紹介して、三島地区を終わることにする。
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それで、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命だろうと言われている。
神話の高天原はどこにあったのでしょう?
私の宇摩説を読めば、この答えは簡単ですよ。