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"卑弥呼"と"株"。株は49年,古事記は30余年で、邪馬台国=北四国の独自見解です。

日本人が知るべき事(34) 日本のルールと卑弥呼時代<15>大元神社の怪3

2007-08-20 00:08:47 | 古代史・古事記講座(宇摩説)

 大元神社で、まだ、抜けていることがある。宇摩郡の大元神社である。宇摩郡では、天照大神を祭神とする神社と、天御中主神を祭神にするところなど、幾つかあるが、天照大神が祭神なのは、宇摩の中峰の「大元神社」だけしかない。

 宇摩郡の中峰にある、大元神社は、明治の統廃合令によって、今は小さな祠が別の場所に移されている。

 この話は、『別冊歴史読本・謎の巨石文明と古代日本』(新人物往来社、1996年8月22日発行。第21巻33号、158p~176P、@1700円)に掲載されている。なお、140P~156P,までは、宇摩説の概要を書いている。

 この神社を参拝した時に、案内してくれた地元の老婦が、自分の父が此処に移したと話した。後で、元の場所も教えてもらったが、山中なのに、川原石を積み上げて、円形になっている。しかも、今は、墓石なども据えられている。

 中峰は、四国の背骨と呼ばれる、東西の四国山脈中央部の麓にあって、銅山川(地元では、ヤスの川)から20Mほど上がった地域である。四国山脈から張り出した山を100M余りi削って、平地を作っている。今は畑だ。

 最初に案内された、大元神社は、この畑の北東の斜面を3Mほど降りた所にある大きな石の上に載っていた。斜面だから降りるのにも不便だし、お参りも、磐の上だから、不安定だ。第一、祠らが転げ落ちそうである。

 この祠は、隠して祭祀したようだ。案内されないと上からは小さな祠があるとは判らないし、大元神社とも判らない。老婦の父は、統廃合令で大元神社を廃する事が、忍びなかったのであろう。個人で祭祀したようだ。

 この話は、『歴史読本』特集に書いたが、実は、この磐が不思議な状態だったのだ。磐の横に降ると、大きな石が斜めにあって、倒れず、先の磐に20センチほどの隙間で斜めに立っている。

 だから、二つの磐の間は、斜石の下に、2M四方ほどの部屋になっている。斜めの石は、相当な細工が無いと、普通は倒れて大きな磐に寄りかかる形になろう。その斜め石の上に老婦と共に上ったが、崩れる気配が無い。

 下の空間は、磐の上の祠を置くには充分な広さがある。しかし、不安定な磐の上に安置している。これも不思議な処置である。私は、老婦の父には、何らかの内密の伝承があったものと、推測した。

 老大木の洞に、小さな神社を置くのは、幾つも見てきたが、岩の大きな洞があるのに、横の磐上に祭るのは、珍しいと思った。

 周囲には、いすを並べた待合所のようなところがある。座席と背もたれのようで、4つの椅子に見える。また、各地でよく見られる二つの巨石が並んだ物も有る。どうも、自然に出来たものには思えない。

 下の空洞には、さまざまな石が割れている。通常は、石の形が様々になるが、どうも、形が同じものや、似たものが多い。石器工場化と思わせる。5センチほど、彫ってみると、人骨らしい骨も出てきた。

 それまでに出た類似品を見ると、様々な石が使われて、同形にされている。中には、木の化石らしい物も有る。石英が1~2ミリで筋状に2~3入った石は、幅1センチ強で、これも、類似の形になっている。

 その後の話だが、火を付けると、燃えることが判った。何だろう?

 とにかく、人骨らしいものも含めて持ち帰る。後日、教育委員会に提出しておいたが、どうなったことか?

 先に、大元神社の調査報告をした後、出土品を渡して学術調査を依頼した。が、最初の調査に同行して、教育長を此処に案内した人物、この二人が1年以内に、謎の死を遂げた話を先に書いている。

 大元神社の2個の磐や周辺の巨石は、2度目の訪問の時に、動いていた。これは、先の別冊に書いている。この時は、阪神淡路地震によるのかと思ったが、その後の二人の相次ぐ死亡から、別の思考が出てきた。

 つまり、私に内緒で行った二人は、遺跡の破壊を行ったのではないか、何度目かの訪問に、不思議なブルトーザーを、見かけた。この地域に不要な重機が不思議だったが、破壊に使った可能性がある。

 とにかく、案内した人と、教育長はその年に急死したが、私とO氏は元気である。こうなると、重機を操っていた人はどうなったか知りたいと思う。

 一枚、写真を入れておこう。

 写真の左中央に、白い雲が写っている。これは、向こうの巨石の手前に浮かんでいる。足は無いが龍にも見える形だ。この遺跡の守り神ではないかと、私は思っている。



 O氏は、恐れるが、私は守り神は破壊者に祟るものだと云って置いた。写真の人物は、現在も私同様に元気なO氏である。現に二人は元気である。害をなさなければ、祟る事は無いと言えるようだ。

 O氏が触る磐が、最初の訪問時より、1メートル近く、下がっていると、私は思う。確かな記録をしなかったのが残念だ。教育長の単独行動か、中央の歴史隠しの一貫か、謎である。

 実は、4つの椅子も壊されて、バラバラになっている。気付いたのは、一つの背もたれが、特徴のある形をしていたので、記憶したのだが、これが、斜面に多くの石戸共に、倒れていた。

 とにかく、この大元神社の跡地にには普通ではない状況が起こっている。
なお、内部の写真もあるが、今回は載せない。発掘した人骨や、土器、石器らしきものは、今は写真しかない。椅子のようになくなる可能性がある。


 もう一枚は、豊受山の南側の写真である。先に北側から見ると、変化する山として、数枚載せている。北側からの姿とまったく違って、凹凸の激しい山が、豊受山である。「大きな磐が絶壁を作る神々しい山」とダム工事の所長が表現した。




 中央部の山で、顔にも見える。豊受山は、北側も南側もまったく違って見えるが、共に謎の山といえるだろう。なお、この写真は、中峰から写している。

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