宇摩に残る伝承--6--で書いた斉明天皇の続きを、やっと、日本書紀の下巻の一冊が出てきたので、書こうと思う。
ただ、出てきたのは、宇治谷孟先生の、全現代語訳「日本書紀」なので、原文の考察は出来ない。要点を書いてみよう。
斉明天皇元年、春一月三日。飛鳥の板葺(蓋)宮で、即位された。
夏、五月一日。大空に竜に乗った者が現れた。顔かたちは唐の人に似ていた。
油を塗った青い絹で作られた笠を付け、葛城山の方から、生駒山の方角に、空を馳せて、隠れた。正午頃に、住吉の松嶺(地名か)の上から、西に向かって馳せ去った。
この通り、即位の後は、SFになっている。国の正史としては、異常な始まりだと、私は思う。この記録が、太鼓台(神輿太鼓)の記録だと判ったのは、住吉神社の周囲にある松並木を見た時だった。
松ノ木は約、五メーターだ。これを見た時に、そう言えば、子供の頃に、庭木の一番高い松の上を、太鼓台の上に乗る人や、トンボが移動するのを見た。これを思い出した。五メーターの空中を移動すれば、空を馳せると、表現してもおかしくない。
朝廷には「太鼓台(神輿太鼓)」は不都合だ。高天原から分家した天皇家だから、本家の地上存在はまずい。そこで、ある部分を抜いて、本家の遺物と判らぬ様に、SFにしたのだ。見た目の不思議さで、隠した。
ここで、断っておくことが二つある。私は本居宣長が、天皇を尊崇する思想で、古事記を解いた。これを例えば、富士山を尊崇の念で、ディフォルメして、数段高い富士山にした。これを、学者が継承している。私は、富士は富士のままで美しい。と、そのままの富士に戻したいと思っている。
もう一つは、様々な、歴史隠しが行われている。これを書く時に、私は「朝廷」と書いている。朝廷の命令と、天皇陛下の心が同じとは限らないからだ。第二次世界大戦でも、陛下は平和を願った。しかし、時の政府(古くは朝廷)が押し切った。
宣長の余分な持ち上げを、不必要だと思うこと。このために、日本の古代史が謎のままになって、社会が混乱している。この弊害は、正しい史実が示されることで、改善される。宇摩説(伊予王朝説)は、原寸大で、史実を求めるものだ。
また、 陛下と、周囲の人は違うのだ。このことは、間違えないように読んで欲しい。この二点は、間違わないように、区別して欲しい。私はどちらかといえば、右翼に近い。国を憂い、国の発展を心から願っている。
話を戻そう。天皇家を分家と書いた事に驚く人が多いだろう。しかし、古事記も日本書紀も、神武天皇の先祖が、「天降りした」とハッキリ書いている。だから、天皇家の本家は「高天原」であり、分家なのだ。
今日はこの辺で終わる。
三島 明
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