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日本人はもともと「和の精神」だった!(その2)

2023-02-10 00:00:01 | 古代史
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それでは、「和の精神」はどこから来たのかという話ですが、日本人の思想の基層は、すでに一万六千年前に始まり、約三千年までの圧倒的に長い縄文時代であったことはよく知られており、「和の精神」を記紀に求める必要はないのです。日本書紀に基づく神道の祝詞には、神代に八百万の神々が居て、山川草木に神が宿るとされ、アニミズムによる多神教だったように考えられていますが、縄文時代の人々はこのようなアニミズムでは説明できない宗教観を持っていたことが分かってきました。佐藤弘夫「日本人と神」(講談社現代新書)の中で、「人類がカミと感じるのは人々に畏怖の念を抱かせる自然現象(イナズマ・台風・太陽・月の天体運行など)や超人的な能力の動物(クマ・鳥・マムシなど)や、巨木・巨石などの奇観のスポットという具体的なモノであり、これらが始原的なカミの姿だった」と説明されています。日本人の信仰がアニミズムというのは記紀の創作なのです。

七千三百年前の鬼界カルデラの超巨大噴火の影響で、それまでの九州南部の縄文人は絶滅し、その他の場所も壊滅的な被害を受けた模様です。その後の縄文時代中期ころから蛇を象った土器などが見られるようになっています。蛇の文化はそれまで列島に見られなかったので、列島にやって来た人々がもたらした文化ではないかと考えられます。



すでに縄文時代前期中頃(約5900年前)の青森県三内丸山遺跡遼河人によって造られてたと考えられています。龍を発明したといわれる遼河人の影響を受けた日本人の先祖の縄文人は蛇神を信仰するようになったと考えられます。ヘビ信仰の内容は吉野裕子「蛇」(講談社学術文庫 1999年)に詳細に述べられています。

wiki「縄文時代」によれば、縄文人と一口に言ってもその生活は列島の地域ごとに異なり、9つの文化圏に分かれていたとあります。これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。

縄文後期に入ると、これら9つの文化圏のうち、「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少する。


三内丸山遺跡では栗やクルミなどを育てて、マメやエゴマなどを栽培して、ウサギなどの小動物を食料にしていました。他の縄文人が好むシカやイノシシは食べていなかったようです。大型建物がありましたので、かなりの大人数が共同生活していたと考えられます。

出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われる。土器、石器が中心であるが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土している。この他にも日本各地域を中心とした交易で得たと推測される黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土している。翡翠は糸魚川が主産地であるため、翡翠の出土は上越地域との交易が証明される。また平底の円筒土器や玦(けつ)状耳飾りなどは、中国大陸の遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されている[9]。

三内丸山遺跡の遼河人系縄文人は園耕民で、舟の民でもあったので、男性は交易のために集落から列島各地へ出稼ぎして、集落では他の縄文人と同様の母系社会を作っていたと考えられます。三内丸山の人たちが他の地域の縄文人と交流し、舟の技術や考え方を伝えたと考えています。女性社会の人々は、暴力や争いごとを好まず、穏やかな気持ちで仲間意識を持って共同作業を得意とする人々と考えられますから、「和の精神」は縄文時代に始まったと考えていいのではないかと思います。

また長江河口・下流域(江南)で水田稲作を行い、舟で移動する技術を持つ人々が、紀元前十一世紀ころの周の成王に海南島の北の広西チワン地区で採れる薬草(ウコン)を献じたという記事が「論衡」(一世紀の王充による)に見られ、「倭人」と書かれています。この頃には半島南部でも生活するようになり、前九世紀後半には北部九州玄界灘沿岸へ水田稲作技術を伝えました。すでに半島南部では列島から来ていた縄文人と交流していたと考えられます。西暦五七年後漢光武帝から倭の奴国王に金印が与えられていますので、倭の奴国は倭人が建てた国という意味で使われるようになっていたと考えられます。一〇七年後漢安帝に朝貢した倭の回土国(ウィトコク、伊都国)王師升の回土国も倭人の国ということですので、そういう国の集合体が倭国ということです。(2023.3.18 赤字訂正)

日本列島に住む人々が「倭人」と呼ばれる由来は、様々な説がありますが、「倭」という漢字が「従順な」という意味があるからだと考えられます。つまり、争いごとを好まない、リーダーや為政者に素直に従う人々という意味です。

また、長江河口の良渚文化の担い手だった人々がインド洋やマダガスカル島まで移動する舟の民だったと分かっています(「日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!」参照)。紀元前二千年頃に長江が氾濫し、一夜にしてこの遺跡が壊滅したと分かっており、この人々の多くは台湾やフィリピンやインドネシアなどに移住しています。


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