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古代史ランキング
以下の興味深い動画にコメントして「魏志倭人伝の真実?(^_-)-☆ 」(2022-03-30 21:52:19)に記事にしましたが、わたしの別のコメントに対して、多くの日本人に共通するいいお返事をいただきましたので、またブログ記事にさせていただきます。刮目天の読者には、何度も同じような話でちょっとくどいかなと思いますが、古代史解明の重要なポイントですので、どうぞお付き合いください( ^)o(^ )
【魏志倭人伝】女王 卑弥呼の使者は 魏の国に 着くと我は 呉の 太伯 の 末なり 位は 大夫なり!と 名乗った! 21,793 回視聴2021/10/27 歴史マニア@YouTube
日常と非日常さん
3 か月前
卑弥呼も邪馬台国も陳寿の創作。
それなのに、その幻を追いかける日本人はなんて幸せなんだろう。
歴史マニアさん
3 か月前
そうなんですか?そう言われてみれば可能性ありますね。これだけ皆さんが研究されても確かな根拠が出ないのは、無い国かも?そして居ない人かも?凄い発想ですね❗
K Mさん
2 か月前
1.言葉が全く異なるんですがそれは
2.400年も時代にずれがあるんですがそれは
3.なんで文字残してないの?文字資料無いのになんでそんなこと知ってるの?エスパーなの?w
これ宿題な笑 ちゃんとやれよ笑笑
刮目天一
4 週間前
日常と非日常さん いい目の付け所です。しかし、陳寿はすでにあった史書や魏使の報告書から文章を抜き出して三国志を撰したので、勝手に創作しないと考えていいと思います。ですからその報告書が政治的な理由で書かれたものだったので、万人が納得する場所にたどり着けなかった訳です。詳しくは拙ブログ「魏志倭人伝の真実?」などをご覧ください(*^▽^*)
ジャパン・ファーストさん
8 時間前
陳寿の創作かどうかわかりませんが、
日本書紀を読むと土蜘蛛という九州勢力が度々登場します。そして女性首長のケースも多数あります。
日本書紀はその当時の描写を的確に記されたのかと思いますよ。
そう考えると九州には女性首長の政治文化があった可能性は捨てきれません。
卑弥呼はあくまで魏志倭人伝や新羅本記で確認出来るだけで他国から見た倭の統治者という位置付けですので、日本から見た統治者という位置付けと同義とは限らない可能性もあります。
邪馬台国に振り回されて歴史認識を誤るより、日本書紀に沿って歴史認識を深めた方が近道かと思います。
私は邪馬台国は九州のどこかで女性首長の国だった魏志は正しいと思ってます。
そもそも魏志を否定しても真実解明できませんからね
刮目天一
ジャパン・ファーストさん
いいご意見をありがとうございます。事情が込み入っていて、ちょっと長くなりますので、拙ブログにてお返事いたします。分かりにくい箇所があれば、またコメントをくださいね。よろしくお願いいたします。( ^)o(^ )
西晋の史官だった陳寿は既に存在する史料から文章を撰する作業をする役目ですから、基本的に創作はしないと考えています。でも偏向はありますよ。歴史家以前に宮仕えですからね。そして歴史家のプライドから春秋の筆法を使って、陳寿自身が気づいた真相にそれとなく誘導していることはあると考えています(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎 2018,p.49「微言大義の原理」) 。しかし陳寿の目的は、意外なことにあまり知られていないのですが、西晋の基礎を作った魏の実力者司馬懿の功績を称えるのが目的だったことは、いろいろなことから分かります(「魏志倭人伝の真実?」など参照)。
そうすると、創作ではなかったのであれば、魏志倭人伝の元ネタは宮廷の書庫に眠っていた、二度倭国を訪れた魏使の報告書がメインだったと分かります。政治的な背景について、岡田英弘先生の「日本史の誕生」(筑摩文庫)に詳しくありました。でも、多くの研究者は、この政治的背景を無視していたと分かったので、そこから邪馬台国問題にハマってしまいました。わたしは理系分野で研究開発を長年やってきましたので、事実に基づいて科学的に探求することが染みついていますから、三世紀ころの日本建国時代の考古学の成果を調べることから始めました。特に鉄について調べて、鉄鏃や銅鏃の出土状況を調べて、二世紀末の倭国大乱がどこであったのか?またその後の邪馬台国の滅亡から日本建国時代の戦乱の痕跡を調べました(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。
まず初期前方後円墳の存在するヤマト王権発祥地である纏向遺跡の外来土器を見て驚きました。その時代の九州の土器がほとんどないのです。畿内説を唱えている多くの歴史家は何を考えているのか?驚きました。北部九州の伊都国は倭国の玄関口です。魏志倭人伝に、一大率を置いて女王への貢物を間違いなく届ける役目だったとあるので、纏向遺跡に女王が居なかったとすぐに気づくはずです。また、纏向遺跡の初期前方後円墳で行われた祭祀に東海・山陰・北陸・吉備・河内・四国・関東などの勢力、しかも纏向遺跡に多数見られる掘建て柱建物に居住するような、各地の王や高官が集まってきているにもかかわらず、九州の勢力は参加していないのです。水田跡もないので、単なる集落ではない宗教・政治都市なのです。この事実から、邪馬台国は纏向遺跡にはなく、九州にあったはずで、中心部が北部九州にあった倭国の勢力とは敵対関係にあったということにも容易に気づきます。
ついでに申し上げると、狗奴国の官の狗古智卑狗に因む地名「菊池」が熊本県にあるので、多くの研究者は狗奴国は熊本だと考えていますが、それでは、どういう経緯でヤマト王権が成立したのか疑問が起こります。古くから、九州にあった邪馬台国が東遷したという説もありましたが、この時期の九州の土器は纏向遺跡にないのですから、邪馬台国東遷説も成り立ちません。神武天皇が初代天皇ですから、日向からヤマトに東征したはずだと多くの方は信じておられるようですが、ヤマト王権が成立した三世紀に九州の勢力が纏向遺跡に来ていないのですから、神武東征も虚構だとすぐに分かるはずです。
そうなると、纏向遺跡の地に狗奴国があって、九州の邪馬台国を滅ぼして日本を統一してヤマト王権が成立したのだと考えることができます(注1)。
しかし、そこで問題となるのが、神武東征が虚構であることからもわかるように、日本の古代史の拠り所といている記紀の記述の信ぴょう性です。
これを考える以前は、そのことにはあまり気に留めておらず、記紀神話は太古の人々の史実を元にした伝承に基づき作られたものだから荒唐無稽は当然だろうと好意的に考えていました。そうすると、卑弥呼に対するイメージも、多くの方と同様に神功皇后紀などで土蜘蛛とされた九州の女性シャーマンで、倭国の騒乱を収める能力のある女性首長のことかなと思っていました。
しかし、人気古代史作家の関裕二さんの著書を手にしてから、記紀に対する見方が百八十度変わってしまいました。現存する最古の正史「日本書紀」も魏志倭人伝と同様で、権力者が権力を維持するために編纂させた歴史書だったということなのです。
多くの日本人は天武天皇が史書の編纂を命じたので、記紀は天皇の歴史書だと思っていますが、大きな間違いだったのです。
日本書紀が完成したのは崩御から三十年以上たった後の720年です。時の権力者は、天武天皇の遺志を継いだとされている皇后鵜野讃良(持統天皇)を後ろ盾にして、天皇家の外戚となり大宝律令を制定して、権力を振るった藤原不比等だったのです。
不比等は権力を維持する上で不都合な日本の建国時代に活躍した祖先をもつ豪族の伝承を奪い取り、藤原氏に都合の良い神話を創作したということが考古学や民俗学の成果から分かりました。義兄の中臣意美麻呂を神祇伯に据えて、宮中祭祀と神社行政を掌握し、徹底的に豪族を中央から排除しました。普通の方は思いもよらないはずですが、豪族たちの祀っている祭神名や社名も強権で変えさせたことも分かりました(拙ブログ「見ようとすれば「正史」のウソを見抜ける!」、「卑弥呼は何故隠された?」などを参照)。
現存する最古の歴史書とされる「古事記」は、九世紀になって当時朝廷で日本書紀を講義していた学者多人長が突然言い出して登場した歴史書ですが、序文は人長が書いたものだということは知られています。内容も基本的には日本書紀に沿ったものですが、日本書紀にない話があるので、歴史の真相を暴露するものなのです(「日本神話の正体は?(その1)」参照)。
記紀神話も、史実とされた日本書紀の内容も、歴史を相当歪曲し、捏造したものだということが考古学や民俗学の成果から分かります。
記紀が登場しても江戸時代まで多くの日本人はその存在すら知らなかったようですが、日本の建国時代の戦乱で不慮の死を遂げた高貴な人々が、天変地異や疫病などの祟りをなすと信じられており、奈良時代から山岳信仰の修験道や仏教でも神仏習合の形で神様の正体が分からないようにして祈祷が行われていました。しかし、平安時代の朝廷は異変があるたびに神々のゆかりの神社に勅使を立てて、神階を上げ、食封などを加増して丁重に祈祷していることから、神様の正体が分かります(「古代史のカギを握る神々の正体?」、「本当は怖い七福神の謎(;一_一)」など参照)。
幕末に西洋列強の脅威に対して尊王攘夷運動が起こり、明治時代を迎えると国民の団結のために記紀神話に基づく国家神道が創設されて、国史を学校教育するようになりました。戦前は記紀の研究も自由に行われませんでしたので、戦後はその反動から記紀を無視して、唯物史観で歴史を捉えるようになりましたが、「考古学は歴史学の代用にならない」と岡田先生が主張されたとおり、とても古代史とは呼べないレベルです。最近ではその反動もあり、記紀の内容が史実に基づくものだとして、記紀を事実に合うように解釈して解決する方向や、記紀の研究もかなり進んできました。しかし、最初に述べたとおり、多くの方の頭に染み付いた天皇の歴史書という間違った刷り込みから脱することができないので、古代史がいまだに十分に解明されていないのです。
記紀は古代から受け継がれた宗教的な概念が満載されているので、それをヒントとして、藤原不比等の政治目的を読むことにより、史実と思われるいくつかの事象を経時的に並べて、考古学や民俗学などの成果からこれらを矛盾なく説明する仮説を構築できます。それをさらに、様々な事象で検証して、仮説を詳細化・修正・拡張して科学的に解明することができました。従来一つ一つの事象に様々な解釈が存在するので、何が正解なのかが皆目わからなかったのですが、ここで提案した科学的問題解決の手法を使うと、古代史の真相を表す可能性の高い仮説が一つ見つかります。よろしければ拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください(^_-)-☆
(注1)だから、邪馬台国は九州にあったはずですし、狗奴国は纏向遺跡にあったと考えるのが自然だと思いますが、九州説の学者はいますが、狗奴国が纏向遺跡にあったと主張する学者は、私が知る限り誰もいませんから不思議ですね(#^.^#)。
そうであるにもかかわらず、マスメディアはしきりと邪馬台国畿内説を持ち上げ、九州説との対立という形で視聴者を取ろうとしているばかばかしさは、普通の頭の人間にはとても考えられない世界です(*´Д`)。NHKの番組「クローズアップ現代 【卑弥呼の宮殿】」ではほとんど出土していない、あっても1%以下の九州の土器までが来ているような印象操作までやっていましたから、番組を視た方は畿内説で決まりと思ったようです(「卑弥呼の宮殿?」のコメント参照)。
ざっくりな世界史
頭の中に邪馬台国はヤマト王権が始まった畿内だということが先に刷り込まれていて、後は巨大な前方後円墳の箸墓は卑弥呼の墓に違いない!とか、中国で出土しない三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏からもらった鏡のはずだ!と決めつけているからとか、夥しい数の桃の種の出土に化かされているのでしょうか?そもそも権威のある学者が言い出したので、それを否定はできないというのは権威主義そのものです。おそらく、ほとんどの学者は気づいているのだと思いますが、今さら畿内説を否定しても自身のメリットにならないということなのでしょうか?でもそれは学問を追求する学者の姿勢ではないと思いますね。纏向遺跡を掘った関川先生が畿内説を否定して少しいい風が吹くのかと思いきや、九州説を徹底して論じる方向にもなっていないのが残念です(;´Д`)
【参考記事】邪馬台国の場所も卑弥呼の正体も判明していますよ(*^。^*)
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)
最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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【魏志倭人伝】女王 卑弥呼の使者は 魏の国に 着くと我は 呉の 太伯 の 末なり 位は 大夫なり!と 名乗った! 21,793 回視聴2021/10/27 歴史マニア@YouTube
日常と非日常さん
3 か月前
卑弥呼も邪馬台国も陳寿の創作。
それなのに、その幻を追いかける日本人はなんて幸せなんだろう。
歴史マニアさん
3 か月前
そうなんですか?そう言われてみれば可能性ありますね。これだけ皆さんが研究されても確かな根拠が出ないのは、無い国かも?そして居ない人かも?凄い発想ですね❗
K Mさん
2 か月前
1.言葉が全く異なるんですがそれは
2.400年も時代にずれがあるんですがそれは
3.なんで文字残してないの?文字資料無いのになんでそんなこと知ってるの?エスパーなの?w
これ宿題な笑 ちゃんとやれよ笑笑
刮目天一
4 週間前
日常と非日常さん いい目の付け所です。しかし、陳寿はすでにあった史書や魏使の報告書から文章を抜き出して三国志を撰したので、勝手に創作しないと考えていいと思います。ですからその報告書が政治的な理由で書かれたものだったので、万人が納得する場所にたどり着けなかった訳です。詳しくは拙ブログ「魏志倭人伝の真実?」などをご覧ください(*^▽^*)
ジャパン・ファーストさん
8 時間前
陳寿の創作かどうかわかりませんが、
日本書紀を読むと土蜘蛛という九州勢力が度々登場します。そして女性首長のケースも多数あります。
日本書紀はその当時の描写を的確に記されたのかと思いますよ。
そう考えると九州には女性首長の政治文化があった可能性は捨てきれません。
卑弥呼はあくまで魏志倭人伝や新羅本記で確認出来るだけで他国から見た倭の統治者という位置付けですので、日本から見た統治者という位置付けと同義とは限らない可能性もあります。
邪馬台国に振り回されて歴史認識を誤るより、日本書紀に沿って歴史認識を深めた方が近道かと思います。
私は邪馬台国は九州のどこかで女性首長の国だった魏志は正しいと思ってます。
そもそも魏志を否定しても真実解明できませんからね
刮目天一
ジャパン・ファーストさん
いいご意見をありがとうございます。事情が込み入っていて、ちょっと長くなりますので、拙ブログにてお返事いたします。分かりにくい箇所があれば、またコメントをくださいね。よろしくお願いいたします。( ^)o(^ )
西晋の史官だった陳寿は既に存在する史料から文章を撰する作業をする役目ですから、基本的に創作はしないと考えています。でも偏向はありますよ。歴史家以前に宮仕えですからね。そして歴史家のプライドから春秋の筆法を使って、陳寿自身が気づいた真相にそれとなく誘導していることはあると考えています(孫栄健「決定版 邪馬台国の全解決」言視舎 2018,p.49「微言大義の原理」) 。しかし陳寿の目的は、意外なことにあまり知られていないのですが、西晋の基礎を作った魏の実力者司馬懿の功績を称えるのが目的だったことは、いろいろなことから分かります(「魏志倭人伝の真実?」など参照)。
そうすると、創作ではなかったのであれば、魏志倭人伝の元ネタは宮廷の書庫に眠っていた、二度倭国を訪れた魏使の報告書がメインだったと分かります。政治的な背景について、岡田英弘先生の「日本史の誕生」(筑摩文庫)に詳しくありました。でも、多くの研究者は、この政治的背景を無視していたと分かったので、そこから邪馬台国問題にハマってしまいました。わたしは理系分野で研究開発を長年やってきましたので、事実に基づいて科学的に探求することが染みついていますから、三世紀ころの日本建国時代の考古学の成果を調べることから始めました。特に鉄について調べて、鉄鏃や銅鏃の出土状況を調べて、二世紀末の倭国大乱がどこであったのか?またその後の邪馬台国の滅亡から日本建国時代の戦乱の痕跡を調べました(「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。
まず初期前方後円墳の存在するヤマト王権発祥地である纏向遺跡の外来土器を見て驚きました。その時代の九州の土器がほとんどないのです。畿内説を唱えている多くの歴史家は何を考えているのか?驚きました。北部九州の伊都国は倭国の玄関口です。魏志倭人伝に、一大率を置いて女王への貢物を間違いなく届ける役目だったとあるので、纏向遺跡に女王が居なかったとすぐに気づくはずです。また、纏向遺跡の初期前方後円墳で行われた祭祀に東海・山陰・北陸・吉備・河内・四国・関東などの勢力、しかも纏向遺跡に多数見られる掘建て柱建物に居住するような、各地の王や高官が集まってきているにもかかわらず、九州の勢力は参加していないのです。水田跡もないので、単なる集落ではない宗教・政治都市なのです。この事実から、邪馬台国は纏向遺跡にはなく、九州にあったはずで、中心部が北部九州にあった倭国の勢力とは敵対関係にあったということにも容易に気づきます。
ついでに申し上げると、狗奴国の官の狗古智卑狗に因む地名「菊池」が熊本県にあるので、多くの研究者は狗奴国は熊本だと考えていますが、それでは、どういう経緯でヤマト王権が成立したのか疑問が起こります。古くから、九州にあった邪馬台国が東遷したという説もありましたが、この時期の九州の土器は纏向遺跡にないのですから、邪馬台国東遷説も成り立ちません。神武天皇が初代天皇ですから、日向からヤマトに東征したはずだと多くの方は信じておられるようですが、ヤマト王権が成立した三世紀に九州の勢力が纏向遺跡に来ていないのですから、神武東征も虚構だとすぐに分かるはずです。
そうなると、纏向遺跡の地に狗奴国があって、九州の邪馬台国を滅ぼして日本を統一してヤマト王権が成立したのだと考えることができます(注1)。
しかし、そこで問題となるのが、神武東征が虚構であることからもわかるように、日本の古代史の拠り所といている記紀の記述の信ぴょう性です。
これを考える以前は、そのことにはあまり気に留めておらず、記紀神話は太古の人々の史実を元にした伝承に基づき作られたものだから荒唐無稽は当然だろうと好意的に考えていました。そうすると、卑弥呼に対するイメージも、多くの方と同様に神功皇后紀などで土蜘蛛とされた九州の女性シャーマンで、倭国の騒乱を収める能力のある女性首長のことかなと思っていました。
しかし、人気古代史作家の関裕二さんの著書を手にしてから、記紀に対する見方が百八十度変わってしまいました。現存する最古の正史「日本書紀」も魏志倭人伝と同様で、権力者が権力を維持するために編纂させた歴史書だったということなのです。
多くの日本人は天武天皇が史書の編纂を命じたので、記紀は天皇の歴史書だと思っていますが、大きな間違いだったのです。
日本書紀が完成したのは崩御から三十年以上たった後の720年です。時の権力者は、天武天皇の遺志を継いだとされている皇后鵜野讃良(持統天皇)を後ろ盾にして、天皇家の外戚となり大宝律令を制定して、権力を振るった藤原不比等だったのです。
不比等は権力を維持する上で不都合な日本の建国時代に活躍した祖先をもつ豪族の伝承を奪い取り、藤原氏に都合の良い神話を創作したということが考古学や民俗学の成果から分かりました。義兄の中臣意美麻呂を神祇伯に据えて、宮中祭祀と神社行政を掌握し、徹底的に豪族を中央から排除しました。普通の方は思いもよらないはずですが、豪族たちの祀っている祭神名や社名も強権で変えさせたことも分かりました(拙ブログ「見ようとすれば「正史」のウソを見抜ける!」、「卑弥呼は何故隠された?」などを参照)。
現存する最古の歴史書とされる「古事記」は、九世紀になって当時朝廷で日本書紀を講義していた学者多人長が突然言い出して登場した歴史書ですが、序文は人長が書いたものだということは知られています。内容も基本的には日本書紀に沿ったものですが、日本書紀にない話があるので、歴史の真相を暴露するものなのです(「日本神話の正体は?(その1)」参照)。
記紀神話も、史実とされた日本書紀の内容も、歴史を相当歪曲し、捏造したものだということが考古学や民俗学の成果から分かります。
記紀が登場しても江戸時代まで多くの日本人はその存在すら知らなかったようですが、日本の建国時代の戦乱で不慮の死を遂げた高貴な人々が、天変地異や疫病などの祟りをなすと信じられており、奈良時代から山岳信仰の修験道や仏教でも神仏習合の形で神様の正体が分からないようにして祈祷が行われていました。しかし、平安時代の朝廷は異変があるたびに神々のゆかりの神社に勅使を立てて、神階を上げ、食封などを加増して丁重に祈祷していることから、神様の正体が分かります(「古代史のカギを握る神々の正体?」、「本当は怖い七福神の謎(;一_一)」など参照)。
幕末に西洋列強の脅威に対して尊王攘夷運動が起こり、明治時代を迎えると国民の団結のために記紀神話に基づく国家神道が創設されて、国史を学校教育するようになりました。戦前は記紀の研究も自由に行われませんでしたので、戦後はその反動から記紀を無視して、唯物史観で歴史を捉えるようになりましたが、「考古学は歴史学の代用にならない」と岡田先生が主張されたとおり、とても古代史とは呼べないレベルです。最近ではその反動もあり、記紀の内容が史実に基づくものだとして、記紀を事実に合うように解釈して解決する方向や、記紀の研究もかなり進んできました。しかし、最初に述べたとおり、多くの方の頭に染み付いた天皇の歴史書という間違った刷り込みから脱することができないので、古代史がいまだに十分に解明されていないのです。
記紀は古代から受け継がれた宗教的な概念が満載されているので、それをヒントとして、藤原不比等の政治目的を読むことにより、史実と思われるいくつかの事象を経時的に並べて、考古学や民俗学などの成果からこれらを矛盾なく説明する仮説を構築できます。それをさらに、様々な事象で検証して、仮説を詳細化・修正・拡張して科学的に解明することができました。従来一つ一つの事象に様々な解釈が存在するので、何が正解なのかが皆目わからなかったのですが、ここで提案した科学的問題解決の手法を使うと、古代史の真相を表す可能性の高い仮説が一つ見つかります。よろしければ拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください(^_-)-☆
(注1)だから、邪馬台国は九州にあったはずですし、狗奴国は纏向遺跡にあったと考えるのが自然だと思いますが、九州説の学者はいますが、狗奴国が纏向遺跡にあったと主張する学者は、私が知る限り誰もいませんから不思議ですね(#^.^#)。
そうであるにもかかわらず、マスメディアはしきりと邪馬台国畿内説を持ち上げ、九州説との対立という形で視聴者を取ろうとしているばかばかしさは、普通の頭の人間にはとても考えられない世界です(*´Д`)。NHKの番組「クローズアップ現代 【卑弥呼の宮殿】」ではほとんど出土していない、あっても1%以下の九州の土器までが来ているような印象操作までやっていましたから、番組を視た方は畿内説で決まりと思ったようです(「卑弥呼の宮殿?」のコメント参照)。
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頭の中に邪馬台国はヤマト王権が始まった畿内だということが先に刷り込まれていて、後は巨大な前方後円墳の箸墓は卑弥呼の墓に違いない!とか、中国で出土しない三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏からもらった鏡のはずだ!と決めつけているからとか、夥しい数の桃の種の出土に化かされているのでしょうか?そもそも権威のある学者が言い出したので、それを否定はできないというのは権威主義そのものです。おそらく、ほとんどの学者は気づいているのだと思いますが、今さら畿内説を否定しても自身のメリットにならないということなのでしょうか?でもそれは学問を追求する学者の姿勢ではないと思いますね。纏向遺跡を掘った関川先生が畿内説を否定して少しいい風が吹くのかと思いきや、九州説を徹底して論じる方向にもなっていないのが残念です(;´Д`)
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