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卑弥呼の日食が古代史の謎を解くカギ?(^_-)-☆

2020-08-05 09:00:32 | 古代史
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このところ卑弥呼の日食の話題で、古代史ファンはもちきりのようです( ^)o(^ )
いつも参考にさせていただいている宮崎先生のメルマガに日食の話題があったので、以下のとおり投稿いたしました。
掲載していただき感謝いたします。


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)8月5日(水曜日)
       通巻第6610号  
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(読者の声2)貴第6609号「長浜浩明『最終結論 邪馬台国はここにある』(展転社)」の書評の中で紹介された論文「相馬充,上田暁俊,谷川清隆,安本美典『247  年 3 月 24 日の日食について』国立天文台報 第14巻,15-34(2012)」ですが、その中で「北九州市周辺は皆既になるが、福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ、いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる。日食の間中、あたりは暗くならないことを指摘しておく。
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり、天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する、との見解がある。卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に、北九州で、皆既または皆既に近い日食があったことは、注目に値する」
とあります。
 つまり皆既日食が見られた北九州市付近を除き、北部九州一帯は真っ暗にはなりませんが、かなり深い日食が観測されましたので、宇佐市安心院町の山城に居た卑弥呼は、この日食を見た糸島市の伊都国男王によって殺されたと推理しています。



 魏志倭人伝に、卑弥呼の死後、改めて男王が立つが、皆それに服さずに千人以上が殺される内戦が起こったと記されています。卑弥呼の死の直前、正始八年(247年)、帯方郡に新しい太守が着任し、卑弥呼は使者を遣わし、狗奴国と戦争状態だと報告し、援軍を要請した模様です。しかし太守は国境守備隊の役人張政に黄幢(魏の正規軍の旗)と詔書だけ持たせて派遣し、張政は大夫難升米に軍旗を直接渡して「頑張れよ」と告げています。従って、難升米が倭国の軍事を掌握する人物であることが分かり、卑弥呼の政治を補佐する男弟であり、刺史のような役割の一大率であって、伊都国男王のことだと分かります(孫栄健「決定版 邪馬台国全解決」(言視舎)2018,pp.300-302)。

 卑弥呼の死後、王に立った人物が伊都国男王(倭国王難升米)だとすると改めて王に立つまでもありませんから、別の人間のはずです。そうすると、この王に立った人物は、狗奴国から北部九州に押し寄せて倭国を滅ぼした人物だと推理できます。(注)
 ということで、卑弥呼の死の直前には、狗奴国が倭国に攻め寄せる動きを見せていたということです。丁度このタイミングで北部九州で日食が起こったので、これも魏志倭人伝にある持衰(じさい)が殺される理由と同じように、卑弥呼が不謹慎で、霊力が衰えたためと伊都国男王が判断し、不吉な予兆を回避したいために生贄として殺したと推理しています。

 卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の墓も発見しました。そして卑弥呼が殺された場所も数々の状況証拠から推理しています。つい最近、滋賀県近江八幡市にある日牟禮(ひむれ)八幡宮で、日食で殺された卑弥呼を宗像女神(イチキシマヒメ)として祀っていたのが分かりました。詳細は拙ブログに掲載していますので、よろしければお越しください。どうも失礼しました。

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 (注)魏志倭人伝に倭国王難升米が殺されたとは書いていませんので、さっさと帯方郡に逃げたのだと思います。そして、倭国追討軍の主将が狗奴国王ならば、内戦にはなりませんので、狗奴国王卑弥弓呼を裏切った人物だと推理できます。

 その人物が内戦で死んだ後に卑弥呼の宗女台与が13歳で女王を継承するとあります。つまり、張政が内戦の勝者に、狗奴国王を裏切り、台与を女王卑弥呼の後釜にして魏の後ろ盾によって狗奴国と対立するように進言したと推理できます。狗奴国王の命を受けた倭国征討軍の主将を殺してしまったので、張政の言葉に従ったと推理できます。

 この新しい倭国王が卑弥呼の倭国に加えて、元々の支配地(山陰・北陸地方)を版図とし、列島の広い領域を支配したので、後世「大国主」と呼ばれた人物だと突き止めました。魏志倭人伝では狗奴国王よりも先に紹介された狗奴国の有力者狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社の祭神、奴(ナーガ=龍蛇神)国大王スサノヲの直系の子孫大国主命)と突き止めました。

 また狗古智卑狗が当初従った倭国追討軍の主将は、纏向遺跡の外来土器の約半数を占めるのが東海の土器ですから、尾張王と推理しました。狗奴国王と同じ天照大神尊ニギハヤヒを祖とする一族の有力者だと推理しています。

 張政は魏から晋に帝位が禅譲された翌年(266年)、女王台与の遣使と共に帯方郡に帰還しています。墓から「帯方郡太守張撫夷」の塼(せん)が発見されていますので、約20年間大国主・台与の倭国に滞在して、東夷を手なずけた功績で太守に出世して死んだものと思われます。

ですから、難升米はもしも郡にたどり着いたとしても、張政から連絡を受けた太守によって、すでに邪魔者として密かに始末された可能性が高ので、難升米の墓も見つからないでしょう。恐らく親魏倭王の金印も持って逃げたはずですので、鋳つぶされていなければ帯方郡址か洛陽付近で見つかるかもしれません。


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