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卑弥呼の日食は珍しい日没帯食だったのか!(^◇^)

2020-08-08 05:40:23 | 古代史
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前回のブログに掲載したコメントがメルマガに掲載されましたが、早速反応がありました。以下に高柴昭様のコメントを紹介させていただきますが、「240年年代後半に我が国付近で起こった日食を、天照大神や卑弥呼と結びつけるのは大胆さを通り越した無謀な論」だというご意見ですので、その内容に沿ってひとつひとつ見て行きましょう。少し専門的な話もありますが、お付き合いください(*^▽^*)

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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)8月5日(水曜日)
       通巻第6610号  
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(読者の声1)「天照大神と日食」
 この場にしばしば邪馬台国論が登場し、その中で紀元240年代後半に連続して起こった日食と天照大神や卑弥呼が結び付けられることが多いようです。
それらの論は、安本美典氏や井沢元彦氏の論が下敷きとなっているようです。もしそうであれば、その論拠は甚だ危うく、再検討されるのが妥当だと考えますので、一言述べさせて頂きます。


 ご承知のように、古代日食については「日食月食宝典」渡辺敏夫、雄山閣として出版されており、その中に247年と248年に日本付近で起こった日食についての記載があることは事実です。
 然し乍ら、よく見れば、247年の日食は中国大陸で始まり日没直前に朝鮮半島の南部で終了しています。また、248年の日食は朝鮮半島東部で夜明け頃に始まり日本の北部(北陸地方北部から東北地方南部)を経て太平洋上に抜けています。


前回話題になった論文「相馬充,上田暁俊,谷川清隆,安本美典『247  年 3 月 24 日の日食について』国立天文台報 第14巻,15-34(2012)」の中で「北九州市周辺は皆既になるが、福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ、いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる。日食の間中、あたりは暗くならないことを指摘しておく。
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり、天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する、との見解がある。卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に、北九州で、皆既または皆既に近い日食があったことは、注目に値する」
とあることを紹介しました。

ご指摘の渡辺敏夫先生の著書はこの論文よりも30年以上前の1979年に出版されたものです。手元にそれがないのですが、「247年の日食は中国大陸で始まり日没直前に朝鮮半島の南部で終了」との記述から皆既日食が観測される地球自転時計の遅れΔT=7,300秒を採用して計算した結果ではないかと思います(注)。

ご存知のように地球は完全な球体ではないので、ΔTは地球の1回転が24時間でどのくらい遅れるかを表す数値です。19世紀に時計合わせして、古文献に見られる日食の記録から、古い時代になるほど遅れることが知られています。

このΔTは相当変動幅があるようなので、この論文では200年から300年代の中国史書の日食の記録も見直して、247年の日食を、非皆既の条件で再計算するとΔT>7,750秒という結果が得られ、北九州で皆既日食が見られる条件はΔT>8,500秒となっています。

その前後の部分食・非皆既の条件を計算すると 221年8月5日がΔT<10,480秒、273年5月4日はー200秒 <ΔT<10,900秒となり、その間の247年でΔT>8,500秒として北九州付近で皆既日食が観測される可能性は十分あると判断しています。宇佐市安心院町の卑弥呼も ΔT=8,700秒なら、日没方向の山によって直ぐに隠れても、部分日食を見ることは出来たと思います。詳細はこの論文をご覧ください。

つまり、高柴昭様ご指摘の渡辺先生の著書にある計算結果が現在では修正され、

247年3月24日に、北九州で皆既日食、北部九州一帯で深い食が見られたとしてよいと思います。



 皆既日食が天照大神の伝承と結びつくためには文字通り皆既日食でなければならず、部分日食では暗くなり方がそれほどでもないため、神話の伝承に見られるような劇的な現象は起こりません。因みに、太陽は月に比べて46万5千倍明るいため 99%欠けてもその明るさは満月の4万6千500倍も明るく、日の出前や日没直後程度の明るさはあります。
 皆既日食では皆既の直前に急速に暗くなり、数分の文字通り真っ暗の時間の後、太陽が月の陰から出る直前に月の山の切れ目から僅かに覘く瞬間によく知られたダイヤモンドリングが見られます。この現象は、真っ暗闇の中で日神がほんの少しだけ顔を出す、神話の伝承とよく合いますが、それは皆既日食でなければならず、部分日食ではそのような感激とは程遠いものです。
 247年と48年の日食は日本列島ではいずれも部分日食で、しかも日没直前または日の出直後であり、曇りの日の日没や夜明けと大して違わない程度の暗さであり、古代の人が日食に気がついたかどうかはっきりしない程度の日食なので、これを神話の伝承と結びつけるのはまず無理なのです。
<一部省略>
 安本氏の研究姿勢はこの場では置くとしても、240年年代後半に我が国付近で起こった日食を、天照大神や卑弥呼と結びつけるのは大胆さを通り越した無謀な論だと申し上げたいと思います。(高柴昭)

卑弥呼も見たと考えられる247年3月24日の日食は、日没の約1時間前ごろから欠け始まり、かなり深く欠けたまま山に隠れたと思います(最大98%)。糸島市の伊都国男王らは海に沈む部分食の異様な夕日を見たかも知れません。とても不吉な現象だと感じたと思います。

日中の皆既日食はいったん暗くなっても徐々に明るさを取り戻すので、恐怖は一時的かもしれませんが、太陽が徐々に欠けながら日没になる方が、古代人は太陽が二度と昇らないのではないかと、一晩中、心配したと思います。

伊都国では最大食99%ですから、水平線にかかる時には下の写真よりももっと食が進んでいたのかも知れません。古代人にとってはこのような日没帯食は相当インパクトがあったと想像しています。


そして、前回述べたように倭国に敵対する狗奴国の軍勢が押し寄せてくるという情報が加われば、伊都国男王(倭国王難升米)に卑弥呼が殺される条件が満たされていると考えています。男王は直ぐに暗殺を部下に命じたでしょう。

以上述べましたように、皆既日食でなくても深い部分日食が日没時に見られたことで、卑弥呼は殺されたのだと推理しています。そして、日食が原因で卑弥呼(比売大神=宗像女神)が殺された事実を示唆するものが幾つか見つかっているので、その伝承が720年に完成した日本書紀に女神アマテラス(天照大御神)の岩戸隠れの神話のネタにされ、歴史が改ざんされたのだと推理しています。

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日本神話の正体は?(その1) (その2) (その3)




(注)上の論文の二名の著者谷川清隆氏,相馬充氏がその2年前に発表した「『天の磐戸』日食候補について」国立天文台報 第13巻, 85-99(2010)において、「筆者らの地球自転遅れの研究6, 12, 13)によると,紀元120年ごろは,∆T=8,100秒前後,紀元333年ごろは,∆T=6,800秒前後」となるので(「それぞれ数百秒の誤差を持つ見積りであると理解してほしい」「247年,248年ごろは,直線内挿で ∆T=7,300秒あたり.図3からわかるように,247年日食は日本では皆既にならない。食分は北九州で0.7ないし大きくても0.8,近畿では0.3ないし0.4だから,あたりはまったく暗くならない。また248年日食は,もともと皆既にならない.」とある。しかし、2年後の論文でこの点が見直されて改訂されている。


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卑弥呼の日食が古代史の謎を解くカギ?(^_-)-☆

2020-08-05 09:00:32 | 古代史
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このところ卑弥呼の日食の話題で、古代史ファンはもちきりのようです( ^)o(^ )
いつも参考にさせていただいている宮崎先生のメルマガに日食の話題があったので、以下のとおり投稿いたしました。
掲載していただき感謝いたします。


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「宮崎正弘の国際情勢解題」 
令和2年(2020)8月5日(水曜日)
       通巻第6610号  
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(読者の声2)貴第6609号「長浜浩明『最終結論 邪馬台国はここにある』(展転社)」の書評の中で紹介された論文「相馬充,上田暁俊,谷川清隆,安本美典『247  年 3 月 24 日の日食について』国立天文台報 第14巻,15-34(2012)」ですが、その中で「北九州市周辺は皆既になるが、福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ、いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる。日食の間中、あたりは暗くならないことを指摘しておく。
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり、天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する、との見解がある。卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に、北九州で、皆既または皆既に近い日食があったことは、注目に値する」
とあります。
 つまり皆既日食が見られた北九州市付近を除き、北部九州一帯は真っ暗にはなりませんが、かなり深い日食が観測されましたので、宇佐市安心院町の山城に居た卑弥呼は、この日食を見た糸島市の伊都国男王によって殺されたと推理しています。



 魏志倭人伝に、卑弥呼の死後、改めて男王が立つが、皆それに服さずに千人以上が殺される内戦が起こったと記されています。卑弥呼の死の直前、正始八年(247年)、帯方郡に新しい太守が着任し、卑弥呼は使者を遣わし、狗奴国と戦争状態だと報告し、援軍を要請した模様です。しかし太守は国境守備隊の役人張政に黄幢(魏の正規軍の旗)と詔書だけ持たせて派遣し、張政は大夫難升米に軍旗を直接渡して「頑張れよ」と告げています。従って、難升米が倭国の軍事を掌握する人物であることが分かり、卑弥呼の政治を補佐する男弟であり、刺史のような役割の一大率であって、伊都国男王のことだと分かります(孫栄健「決定版 邪馬台国全解決」(言視舎)2018,pp.300-302)。

 卑弥呼の死後、王に立った人物が伊都国男王(倭国王難升米)だとすると改めて王に立つまでもありませんから、別の人間のはずです。そうすると、この王に立った人物は、狗奴国から北部九州に押し寄せて倭国を滅ぼした人物だと推理できます。(注)
 ということで、卑弥呼の死の直前には、狗奴国が倭国に攻め寄せる動きを見せていたということです。丁度このタイミングで北部九州で日食が起こったので、これも魏志倭人伝にある持衰(じさい)が殺される理由と同じように、卑弥呼が不謹慎で、霊力が衰えたためと伊都国男王が判断し、不吉な予兆を回避したいために生贄として殺したと推理しています。

 卑弥呼の径百余歩(直径約150m)の墓も発見しました。そして卑弥呼が殺された場所も数々の状況証拠から推理しています。つい最近、滋賀県近江八幡市にある日牟禮(ひむれ)八幡宮で、日食で殺された卑弥呼を宗像女神(イチキシマヒメ)として祀っていたのが分かりました。詳細は拙ブログに掲載していますので、よろしければお越しください。どうも失礼しました。

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 (注)魏志倭人伝に倭国王難升米が殺されたとは書いていませんので、さっさと帯方郡に逃げたのだと思います。そして、倭国追討軍の主将が狗奴国王ならば、内戦にはなりませんので、狗奴国王卑弥弓呼を裏切った人物だと推理できます。

 その人物が内戦で死んだ後に卑弥呼の宗女台与が13歳で女王を継承するとあります。つまり、張政が内戦の勝者に、狗奴国王を裏切り、台与を女王卑弥呼の後釜にして魏の後ろ盾によって狗奴国と対立するように進言したと推理できます。狗奴国王の命を受けた倭国征討軍の主将を殺してしまったので、張政の言葉に従ったと推理できます。

 この新しい倭国王が卑弥呼の倭国に加えて、元々の支配地(山陰・北陸地方)を版図とし、列島の広い領域を支配したので、後世「大国主」と呼ばれた人物だと突き止めました。魏志倭人伝では狗奴国王よりも先に紹介された狗奴国の有力者狗古智卑狗(久々遅彦、豊岡市久々比神社の祭神、奴(ナーガ=龍蛇神)国大王スサノヲの直系の子孫大国主命)と突き止めました。

 また狗古智卑狗が当初従った倭国追討軍の主将は、纏向遺跡の外来土器の約半数を占めるのが東海の土器ですから、尾張王と推理しました。狗奴国王と同じ天照大神尊ニギハヤヒを祖とする一族の有力者だと推理しています。

 張政は魏から晋に帝位が禅譲された翌年(266年)、女王台与の遣使と共に帯方郡に帰還しています。墓から「帯方郡太守張撫夷」の塼(せん)が発見されていますので、約20年間大国主・台与の倭国に滞在して、東夷を手なずけた功績で太守に出世して死んだものと思われます。

ですから、難升米はもしも郡にたどり着いたとしても、張政から連絡を受けた太守によって、すでに邪魔者として密かに始末された可能性が高ので、難升米の墓も見つからないでしょう。恐らく親魏倭王の金印も持って逃げたはずですので、鋳つぶされていなければ帯方郡址か洛陽付近で見つかるかもしれません。


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卑弥呼を不比等から護った人物?(;一_一)

2020-08-01 16:54:15 | 古代史
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前回の話卑弥呼はどのように隠された?で、原八幡神比売神卑弥呼がいつの間にか八幡大神応神天皇とされて宇佐八幡宮で祀られる話をしましたが、後の時代に紹介される伝承は、原八幡神の正体を隠すために作られたのではないかと思われます。何のために、そのような罰当たりで、面倒なことを誰がしたのかは、すでに説明したとおり、大和朝廷を牛耳る藤原不比等とその子孫だと分かります(卑弥呼は何故隠された?)。

祭神名や神社名を変えたりするやり方が余りにも大胆で、神をも畏れぬ所業ですから、祖神として、あるいは国家鎮護のために比売神卑弥呼を祀っている人々はたまったものではないでしょう。前回述べたように三世紀末に物部の大王から安心院町三柱山の社(三女神社)で丁重に祀るように指示された水沼と同様に、応神天皇即位の後に中央復帰を許されたと思われる卑弥呼ゆかりの宗像君に指示して、沖ノ島などで卑弥呼祭祀を始めたのだと考えています。(2021.8.23 赤字訂正)

しかし、いきなり比売神卑弥呼を祀っている場所に別の神を持って来るなどしたら、いくらなんでも辛嶋氏や有力氏族の物部氏などから強い反発を受けるので、大国主・応神天皇にゆかりの大神氏を抱き込んだと推理しています。原八幡神卑弥呼を比売大神(宗像女神)と呼ぶことにして、新たな八幡大神として大国主を主神として宇佐地方で祀らせて主位の座を奪わせ、さらに大国主から子の応神天皇にすり変えて、卑弥呼の記憶を徐々に葬ることを構想したのだと考えられます。応神天皇の伝承は後で作ったもので、元々宇佐にゆかりがあったわけではないので分かります。

後に比売大神を祀る妻垣神社の奥宮一柱騰宮で大国主と台与が卑弥呼を祀っていたので、三世紀末に半島南部から香春岳周辺に秦氏と伴に移って来た辛嶋氏が宇佐郡辛嶋郷で原八幡神の比売神卑弥呼を祀るようになったのでしょう。八幡神が最初に天降りした宇佐郡辛国宇豆高島が稲積山です。その山上にあった稲積六神社の祭神は現在は八幡比売神ではないですが、稲積山は秀麗な形をした典型的な神奈備山ですから、当初は辛嶋氏の祭祀場だったと思います。半島東部のムナカタ海人族が使う数多くの旗を比売神卑弥呼の依り代にしたので八幡神(やはたのかみ)と呼ばれたようです。

先述のとおり、不比等は大国主ゆかりの宇佐の地に大神氏を派遣して、辛嶋氏の比売神卑弥呼に加えて大国主の祭祀も合わせて行うように命じたのでしょう。辛嶋氏は後に伝承も書き換えさせられた模様です。その強引なやり方に不満の辛嶋氏と中央から派遣された大神氏との間の調整役が突然現れた謎の修行僧法蓮上人と考えられます。

法蓮上人が宇佐八幡宮の謎を解くためのキーパーソンということです。

法蓮は、宇佐神宮年表に703年、「医術により僧法蓮に田40町を賜う。」とありますが、田ではなく野とあります(中野幡能「八幡信仰と修験道」吉川弘文館 平成10年、p.90)。英彦山で修験道の修行を積み、医術を身に着けて、豊前地方の民を救ったことによるのだと思います。法蓮を慕う人々が未墾の原野を田にしたのでしょう。「日本書紀」にも豊国の奇巫が雄略天皇の病気で、豊国法師が用明天皇の病で内裏に参内したとありますから、豊前地方を拠点とする医術を得意とする巫覡集団があって、法蓮もそこに所属して修行を積んだのだと考えられます(大和で仏教を学んだという説もあるようですが、大和での記録はほとんど残っていないようです)。

さらに、不比等が死んだ翌年721年に、三親等以内の親族に宇佐君の姓(かばね)が与えられています。中野先生は豊前の未墾地の開拓と大隅の隼人反乱鎮圧に祈祷で貢献したからだろうとしていますが(中野前掲書pp.98-99)、藤原氏にとって功労者という評価ですから、本当は日本建国の真相を隠す悪党の一味ではないかと考えられます。

しかし、それも見方を変えれば、卑弥呼という人物名は隠されていますが(多分ヒメゴの意味ですから固有名詞ではない)、元々地方神と見なされた比売大神(宗像三女神)が733年、宇佐神宮の二之御殿で祀られるようになり、749年には神階として八幡大神一品に併せて二品が贈られ、二柱とも国家神とされています(注1)。卑弥呼も祀る宇佐神宮が現代まで皇室の篤い崇敬を受けて、全国に約四万四千社あると言われる八幡宮の総本社として高い地位が与えられたのは、法蓮上人がその基礎を築いたことによるものでしょう。当初は大宮司を大神氏、少宮司を宇佐氏、禰宜を辛嶋氏という体制だったようですが、大神氏と辛嶋氏が没落した後に、宇佐氏が仕切ることになります。しかし、不思議なことに、現存する宇佐氏系図に法蓮は記載されていないのです(中野前掲書、p.90)。

法蓮の生没年も出自も不詳という謎の人物ですが、後の平安時代になると法蓮と関わりのある「人(仁)聞菩薩」という、これまた謎の僧侶が伝承の中に出てきます。「人聞菩薩朝記」に記載された「五人の同行」のひとりに法蓮の名がありますが、「八幡神が仏教宣伝、登場のため「人聞菩薩」と現れ、御許山で修業し、六郷山を開いたとしている。」Wiki「仁聞」にあります。養老2年(718年)頃に、国東半島の各地に山岳宗教の学問・修行・布教のための多数の寺院を開基し、六万九千体の仏像を造ったいう伝承です。

Wiki「六郷満山」によれば「八幡信仰と天台修験が融合し発達した国東半島独自の宗教文化[3]。国東半島の大部分が宇佐八幡の荘園だった奈良・平安時代に八幡宮や神仏習合の六郷満山寺院が多数建造されて特異な宗教文化が生まれ、平安末期には国東半島だけで約1000の伽藍があったという[2]。その後時代が下るにつれ、鎌倉仏教系、禅宗系、浄土真宗系寺院への転向や建立がなされ、独特の伝統行事や習俗文化が育まれ、今に引き継がれている[2]。国宝の富貴寺大堂に代表される平安建築や、熊野磨崖仏をはじめ、六郷満山文化が最盛期だった平安時代の古仏や石窟など石造美術も多く遺る。」とあります。

この仁(人)聞はWikiによれば、「今日では、仁聞は実在の人物ではなかったとする説が有力である。六郷満山の寺院は、実際には、古来から国東半島にあった山岳信仰の場が、奈良時代末期から平安時代にかけて天台宗の寺院の形態を取るようになったもので、近隣の宇佐神宮を中心とする八幡信仰と融合した結果、神仏習合の独特な山岳仏教文化が形成されたと考えられている。各寺院を開基した人物としては、仁聞の弟子として共に修行を行い、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の別当などを務めたと伝えられる法蓮、華厳、躰能、覚満といった僧侶を挙げる説もある。」この4人は上の「五人の同行」の人聞を除く僧です。738年法蓮上人が別当となった宇佐宮弥勒寺は元来一院十坊の構成だったのが、六郷山に二坊が別れ、八坊となり、人聞を除く4人が末坊開祖となっているとあります(中野前掲書p.271)。

以前にも述べましたが、弥勒寺で大国主久々遅彦をご本尊弥勒菩薩として祀っています。新羅仏教の影響を受けた法蓮が大国主を祀るために弥勒信仰を持ち込んだとみています。宇佐氏である法蓮は大国主ゆかりの氏族ではなく、宇佐国造の流れと思われるので、大国主を祀る理由は、比売神卑弥呼を護る方便だったのではないかと推理しました。勿論大国主はヤマト朝廷が最も重視する日本建国時の実在人物でしたから、最初から国家神です。

神仏習合のひとつの表れである神宮寺の創建時期ですが、「霊亀元年(715年)には境内に神宮寺(気比神宮寺)が設けられたというが、これは文献上で全国最古の神宮寺成立になる[3]。」Wiki「気比神宮」にあります。ところが、「日本の伝統的な神祇信仰と大陸伝来の仏教が接触混淆した結果,生み出された宗教現象。最も古くは宇佐八幡宮が朝鮮の土俗的な仏教の影響を受け,巫僧集団を形成し,6世紀終りころすでに神宮寺をつくった。」とあります(世界大百科事典 第2版の解説)。宇佐八幡宮は、その前身の鷹居社が712年創建ですから、6世紀末はまだ八幡神は比売神卑弥呼でした。宇佐で最古級の寺院は虚空蔵寺と法鏡寺ですが創建は7世紀末ですからさらに古い寺院があったということです。「法鏡寺廃寺は古代の辛島郷の中心部に位置していることから、辛嶋氏が造営したものと考えられている[2]。」とあり、もっと古く、仏教伝(538年)のに卑弥呼を宝鏡寺の前身の寺院で祀ったのが神仏習合の最初かも知れません(注2)(2020.8.2 赤字訂正)

Wiki「本地垂迹」によれば、「日本では、仏教公伝により、古墳時代の物部氏と蘇我氏が対立するなど、仏教と日本古来の神々への信仰との間には隔たりがあった。だが徐々にそれはなくなり、仏教側の解釈では、神は迷える衆生の一種で天部の神々と同じとし、神を仏の境涯に引き上げようと納経や度僧が行われたり、仏法の功徳を廻向されて神の身を離脱することが神託に謳われたりした。」とあります。

卑弥呼の霊を比売神として祀っているだけでは有効に怨霊が亡くならず、崇りとして天変地異が起こるので、卑弥呼を成仏させたいという願いから、日本の神仏混淆が始まったのではないでしょうか。

辛嶋氏の稲積六神社の鳥居と石造りの祠を見て驚きました。



卑弥呼の径百余歩の円墳を遥拝する位置に建てられたヒカケの三女神社の西側にある摂社と同じ様式になっていました。稲積六神社の由来書から706年、稲積山山上に三柱の御祭神(伊弉册尊 速玉男命 事解男命)が鎮座し、834年に三柱(国常立命 火産霊命 彦火々出見命)が鎮座したと分かります。ヒカケの三女神社は現地に行って見ていないので詳細が分かりません。由来書もGoogleMapの写真の中にはありませんでしたが、多分同じ時期に法蓮の教団の人たちによって建てられたのではないでしょうか?卑弥呼の怨霊を摂社の祭神に抑えてもらう目的ではないかと考えています。どなたかご存知ならばお教えください。早めに行ってみてじっくりと観察したいと思っています。



「ヒカケ」(宇佐市安心院町下毛字ヒカケ)というのは、「日欠け(日食)」に因む地名だと思います(注3)。つまり、日蝕のために卑弥呼が殺された場所を示唆する地名ですから、この場所が卑弥呼の殺害現場だと推理しました。そのためにこの三女神社の遥拝殿の横には石塔が三つ置かれていますが(下の写真の鳥居の奥)、中央の少し大きなものが卑弥呼(イチキシマヒメ)の墓石ということでしょう。その東側の、今はすっぽんセンターのある処から温泉が出ているようですので、卑弥呼は毎晩、ここの露天風呂に入っていたところを、伊都国男王の命令で、いつも卑弥呼の世話をする男子に引き出されて殺されたのではないかと考えています。その場所に、人聞菩薩が作ったと伝わる磨崖仏があり、地元では乳不動と呼んでいます。室町時代に作られた模様です。(2020.8.3 赤字修正)

さらに、そこから北側の道路に石段で登れるようになっていますが、卑弥呼の墓石と円墳の間に土が盛り上げてあり、そこに横穴が掘られています。ヒカケ横穴群(下市横穴群)です。それが造られたために卑弥呼の円墳を三女神社から直接遥拝できなくなっているようです。やはり、誰かが意図的に隠したということでしょう。法蓮に繋がる僧侶がアマテラス女神の岩戸隠れをイメージして掘ったもので、同時に遥拝できなくする効果がありますから、卑弥呼の死の真相を隠そうとしているようです。先述のとおり、現存する宇佐氏の系図に法蓮の名がないことと関係があるのかも知れませんね。人聞が開基した六郷満山のひとつに最古級の岩戸寺があります。ここにも何か隠されているのかも知れません。どなたか、現地調査をお願いします(*^▽^*)

【参考記事】卑弥呼の墓は見つかってるよ!(改訂版)



(注1)神階のうち、皇族だけに贈られる位階と同じ品位(ほんい)が四柱だけなのです。淡路伊弉諾神宮伊弉諾尊、宇佐神宮八幡大神がそれぞれ一品(いっぽん)で、八幡比咩神(比咩大神、宗像三女神)が最初は二品でしたが最終的に一品、備中吉備津神社吉備津彦が二品を贈られています。伊弉諾尊は皇祖神ですから分かります。八幡大神は応神天皇となっていますが、何故十五代天皇だけ一品なのか、他の二柱も全く謎でしょう。

八幡大神は本当は応神天皇の父大国主のことだと考えています。首長霊信仰から大国主と応神天皇は一体なのです。八幡比咩神は宗像女神イチキシマヒメ卑弥呼であり、台与も含まれると考えられます。台与は大国主との神婚伝承のある宗像三女神(タギツヒメ、タギリヒメ)、豊受大神、正一位稲荷神(宇迦之御魂神、うかのみたま)、白山比咩命、豊岡姫、淀姫などとして全国で祀られ、尊崇されています。そして吉備津彦の正体が天照大神尊ニギハヤヒでした(【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?)

(注2)「高句麗では372年に、百済は384年に公式に伝えられたとされています。また、新羅も同じころに仏教が伝わって」いたとありますから、日本に伝わったのは6世紀末ではなく、もっと早い4世紀ころではないでしょうか(第16回 朝鮮仏教史 より)(2020.8.2 追加)

(注3)全国に「樋掛(ひかけ、農業用水を導くトイを掛けた場所の意味か)」という地名や人名もあるようですが、安心院町下毛字ヒカケは日食のことだと思います。卑弥呼の事件を知る後世の人が殺害現場を「ヒカケ」と呼んだのだと推理しました。(2020.8.3 追加)

最後までややこしい話にお付き合い、ありがとうございます。今回は中々まとめるのが難しかったので、大事なことを書き漏らしていないか心配です。お気づきの点をコメントください。
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