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前回のブログに掲載したコメントがメルマガに掲載されましたが、早速反応がありました。以下に高柴昭様のコメントを紹介させていただきますが、「240年年代後半に我が国付近で起こった日食を、天照大神や卑弥呼と結びつけるのは大胆さを通り越した無謀な論」だというご意見ですので、その内容に沿ってひとつひとつ見て行きましょう。少し専門的な話もありますが、お付き合いください(*^▽^*)
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)8月5日(水曜日)
通巻第6610号
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(読者の声1)「天照大神と日食」
この場にしばしば邪馬台国論が登場し、その中で紀元240年代後半に連続して起こった日食と天照大神や卑弥呼が結び付けられることが多いようです。
それらの論は、安本美典氏や井沢元彦氏の論が下敷きとなっているようです。もしそうであれば、その論拠は甚だ危うく、再検討されるのが妥当だと考えますので、一言述べさせて頂きます。
ご承知のように、古代日食については「日食月食宝典」渡辺敏夫、雄山閣として出版されており、その中に247年と248年に日本付近で起こった日食についての記載があることは事実です。
然し乍ら、よく見れば、247年の日食は中国大陸で始まり日没直前に朝鮮半島の南部で終了しています。また、248年の日食は朝鮮半島東部で夜明け頃に始まり日本の北部(北陸地方北部から東北地方南部)を経て太平洋上に抜けています。
前回話題になった論文「相馬充,上田暁俊,谷川清隆,安本美典『247 年 3 月 24 日の日食について』国立天文台報 第14巻,15-34(2012)」の中で「北九州市周辺は皆既になるが、福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ、いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる。日食の間中、あたりは暗くならないことを指摘しておく。
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり、天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する、との見解がある。卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に、北九州で、皆既または皆既に近い日食があったことは、注目に値する」とあることを紹介しました。
ご指摘の渡辺敏夫先生の著書はこの論文よりも30年以上前の1979年に出版されたものです。手元にそれがないのですが、「247年の日食は中国大陸で始まり日没直前に朝鮮半島の南部で終了」との記述から皆既日食が観測される地球自転時計の遅れΔT=7,300秒を採用して計算した結果ではないかと思います(注)。
ご存知のように地球は完全な球体ではないので、ΔTは地球の1回転が24時間でどのくらい遅れるかを表す数値です。19世紀に時計合わせして、古文献に見られる日食の記録から、古い時代になるほど遅れることが知られています。
このΔTは相当変動幅があるようなので、この論文では200年から300年代の中国史書の日食の記録も見直して、247年の日食を、非皆既の条件で再計算するとΔT>7,750秒という結果が得られ、北九州で皆既日食が見られる条件はΔT>8,500秒となっています。
その前後の部分食・非皆既の条件を計算すると 221年8月5日がΔT<10,480秒、273年5月4日はー200秒 <ΔT<10,900秒となり、その間の247年でΔT>8,500秒として北九州付近で皆既日食が観測される可能性は十分あると判断しています。宇佐市安心院町の卑弥呼も ΔT=8,700秒なら、日没方向の山によって直ぐに隠れても、部分日食を見ることは出来たと思います。詳細はこの論文をご覧ください。
つまり、高柴昭様ご指摘の渡辺先生の著書にある計算結果が現在では修正され、
247年3月24日に、北九州で皆既日食、北部九州一帯で深い食が見られたとしてよいと思います。
皆既日食が天照大神の伝承と結びつくためには文字通り皆既日食でなければならず、部分日食では暗くなり方がそれほどでもないため、神話の伝承に見られるような劇的な現象は起こりません。因みに、太陽は月に比べて46万5千倍明るいため 99%欠けてもその明るさは満月の4万6千500倍も明るく、日の出前や日没直後程度の明るさはあります。
皆既日食では皆既の直前に急速に暗くなり、数分の文字通り真っ暗の時間の後、太陽が月の陰から出る直前に月の山の切れ目から僅かに覘く瞬間によく知られたダイヤモンドリングが見られます。この現象は、真っ暗闇の中で日神がほんの少しだけ顔を出す、神話の伝承とよく合いますが、それは皆既日食でなければならず、部分日食ではそのような感激とは程遠いものです。
247年と48年の日食は日本列島ではいずれも部分日食で、しかも日没直前または日の出直後であり、曇りの日の日没や夜明けと大して違わない程度の暗さであり、古代の人が日食に気がついたかどうかはっきりしない程度の日食なので、これを神話の伝承と結びつけるのはまず無理なのです。
<一部省略>
安本氏の研究姿勢はこの場では置くとしても、240年年代後半に我が国付近で起こった日食を、天照大神や卑弥呼と結びつけるのは大胆さを通り越した無謀な論だと申し上げたいと思います。(高柴昭)
卑弥呼も見たと考えられる247年3月24日の日食は、日没の約1時間前ごろから欠け始まり、かなり深く欠けたまま山に隠れたと思います(最大98%)。糸島市の伊都国男王らは海に沈む部分食の異様な夕日を見たかも知れません。とても不吉な現象だと感じたと思います。
日中の皆既日食はいったん暗くなっても徐々に明るさを取り戻すので、恐怖は一時的かもしれませんが、太陽が徐々に欠けながら日没になる方が、古代人は太陽が二度と昇らないのではないかと、一晩中、心配したと思います。
伊都国では最大食99%ですから、水平線にかかる時には下の写真よりももっと食が進んでいたのかも知れません。古代人にとってはこのような日没帯食は相当インパクトがあったと想像しています。
そして、前回述べたように倭国に敵対する狗奴国の軍勢が押し寄せてくるという情報が加われば、伊都国男王(倭国王難升米)に卑弥呼が殺される条件が満たされていると考えています。男王は直ぐに暗殺を部下に命じたでしょう。
以上述べましたように、皆既日食でなくても深い部分日食が日没時に見られたことで、卑弥呼は殺されたのだと推理しています。そして、日食が原因で卑弥呼(比売大神=宗像女神)が殺された事実を示唆するものが幾つか見つかっているので、その伝承が720年に完成した日本書紀に女神アマテラス(天照大御神)の岩戸隠れの神話のネタにされ、歴史が改ざんされたのだと推理しています。
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卑弥呼の日食が古代史の謎を解くカギ?
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう
卑弥呼が見た日食はこれだ
卑弥呼の墓は見つかってるよ!
古代史の謎を推理する
日本神話の正体は?(その1) (その2) (その3)
(注)上の論文の二名の著者谷川清隆氏,相馬充氏がその2年前に発表した「『天の磐戸』日食候補について」国立天文台報 第13巻, 85-99(2010)において、「筆者らの地球自転遅れの研究6, 12, 13)によると,紀元120年ごろは,∆T=8,100秒前後,紀元333年ごろは,∆T=6,800秒前後」となるので(「それぞれ数百秒の誤差を持つ見積りであると理解してほしい」)「247年,248年ごろは,直線内挿で ∆T=7,300秒あたり.図3からわかるように,247年日食は日本では皆既にならない。食分は北九州で0.7ないし大きくても0.8,近畿では0.3ないし0.4だから,あたりはまったく暗くならない。また248年日食は,もともと皆既にならない.」とある。しかし、2年後の論文でこの点が見直されて改訂されている。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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「宮崎正弘の国際情勢解題」
令和2年(2020)8月5日(水曜日)
通巻第6610号
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(読者の声1)「天照大神と日食」
この場にしばしば邪馬台国論が登場し、その中で紀元240年代後半に連続して起こった日食と天照大神や卑弥呼が結び付けられることが多いようです。
それらの論は、安本美典氏や井沢元彦氏の論が下敷きとなっているようです。もしそうであれば、その論拠は甚だ危うく、再検討されるのが妥当だと考えますので、一言述べさせて頂きます。
ご承知のように、古代日食については「日食月食宝典」渡辺敏夫、雄山閣として出版されており、その中に247年と248年に日本付近で起こった日食についての記載があることは事実です。
然し乍ら、よく見れば、247年の日食は中国大陸で始まり日没直前に朝鮮半島の南部で終了しています。また、248年の日食は朝鮮半島東部で夜明け頃に始まり日本の北部(北陸地方北部から東北地方南部)を経て太平洋上に抜けています。
前回話題になった論文「相馬充,上田暁俊,谷川清隆,安本美典『247 年 3 月 24 日の日食について』国立天文台報 第14巻,15-34(2012)」の中で「北九州市周辺は皆既になるが、福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ、いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる。日食の間中、あたりは暗くならないことを指摘しておく。
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり、天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する、との見解がある。卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に、北九州で、皆既または皆既に近い日食があったことは、注目に値する」とあることを紹介しました。
ご指摘の渡辺敏夫先生の著書はこの論文よりも30年以上前の1979年に出版されたものです。手元にそれがないのですが、「247年の日食は中国大陸で始まり日没直前に朝鮮半島の南部で終了」との記述から皆既日食が観測される地球自転時計の遅れΔT=7,300秒を採用して計算した結果ではないかと思います(注)。
ご存知のように地球は完全な球体ではないので、ΔTは地球の1回転が24時間でどのくらい遅れるかを表す数値です。19世紀に時計合わせして、古文献に見られる日食の記録から、古い時代になるほど遅れることが知られています。
このΔTは相当変動幅があるようなので、この論文では200年から300年代の中国史書の日食の記録も見直して、247年の日食を、非皆既の条件で再計算するとΔT>7,750秒という結果が得られ、北九州で皆既日食が見られる条件はΔT>8,500秒となっています。
その前後の部分食・非皆既の条件を計算すると 221年8月5日がΔT<10,480秒、273年5月4日はー200秒 <ΔT<10,900秒となり、その間の247年でΔT>8,500秒として北九州付近で皆既日食が観測される可能性は十分あると判断しています。宇佐市安心院町の卑弥呼も ΔT=8,700秒なら、日没方向の山によって直ぐに隠れても、部分日食を見ることは出来たと思います。詳細はこの論文をご覧ください。
つまり、高柴昭様ご指摘の渡辺先生の著書にある計算結果が現在では修正され、
247年3月24日に、北九州で皆既日食、北部九州一帯で深い食が見られたとしてよいと思います。
皆既日食が天照大神の伝承と結びつくためには文字通り皆既日食でなければならず、部分日食では暗くなり方がそれほどでもないため、神話の伝承に見られるような劇的な現象は起こりません。因みに、太陽は月に比べて46万5千倍明るいため 99%欠けてもその明るさは満月の4万6千500倍も明るく、日の出前や日没直後程度の明るさはあります。
皆既日食では皆既の直前に急速に暗くなり、数分の文字通り真っ暗の時間の後、太陽が月の陰から出る直前に月の山の切れ目から僅かに覘く瞬間によく知られたダイヤモンドリングが見られます。この現象は、真っ暗闇の中で日神がほんの少しだけ顔を出す、神話の伝承とよく合いますが、それは皆既日食でなければならず、部分日食ではそのような感激とは程遠いものです。
247年と48年の日食は日本列島ではいずれも部分日食で、しかも日没直前または日の出直後であり、曇りの日の日没や夜明けと大して違わない程度の暗さであり、古代の人が日食に気がついたかどうかはっきりしない程度の日食なので、これを神話の伝承と結びつけるのはまず無理なのです。
<一部省略>
安本氏の研究姿勢はこの場では置くとしても、240年年代後半に我が国付近で起こった日食を、天照大神や卑弥呼と結びつけるのは大胆さを通り越した無謀な論だと申し上げたいと思います。(高柴昭)
卑弥呼も見たと考えられる247年3月24日の日食は、日没の約1時間前ごろから欠け始まり、かなり深く欠けたまま山に隠れたと思います(最大98%)。糸島市の伊都国男王らは海に沈む部分食の異様な夕日を見たかも知れません。とても不吉な現象だと感じたと思います。
日中の皆既日食はいったん暗くなっても徐々に明るさを取り戻すので、恐怖は一時的かもしれませんが、太陽が徐々に欠けながら日没になる方が、古代人は太陽が二度と昇らないのではないかと、一晩中、心配したと思います。
伊都国では最大食99%ですから、水平線にかかる時には下の写真よりももっと食が進んでいたのかも知れません。古代人にとってはこのような日没帯食は相当インパクトがあったと想像しています。
そして、前回述べたように倭国に敵対する狗奴国の軍勢が押し寄せてくるという情報が加われば、伊都国男王(倭国王難升米)に卑弥呼が殺される条件が満たされていると考えています。男王は直ぐに暗殺を部下に命じたでしょう。
以上述べましたように、皆既日食でなくても深い部分日食が日没時に見られたことで、卑弥呼は殺されたのだと推理しています。そして、日食が原因で卑弥呼(比売大神=宗像女神)が殺された事実を示唆するものが幾つか見つかっているので、その伝承が720年に完成した日本書紀に女神アマテラス(天照大御神)の岩戸隠れの神話のネタにされ、歴史が改ざんされたのだと推理しています。
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卑弥呼の日食が古代史の謎を解くカギ?
卑弥呼は日食で殺されたムナカタの姫巫女だろう
卑弥呼が見た日食はこれだ
卑弥呼の墓は見つかってるよ!
古代史の謎を推理する
日本神話の正体は?(その1) (その2) (その3)
(注)上の論文の二名の著者谷川清隆氏,相馬充氏がその2年前に発表した「『天の磐戸』日食候補について」国立天文台報 第13巻, 85-99(2010)において、「筆者らの地球自転遅れの研究6, 12, 13)によると,紀元120年ごろは,∆T=8,100秒前後,紀元333年ごろは,∆T=6,800秒前後」となるので(「それぞれ数百秒の誤差を持つ見積りであると理解してほしい」)「247年,248年ごろは,直線内挿で ∆T=7,300秒あたり.図3からわかるように,247年日食は日本では皆既にならない。食分は北九州で0.7ないし大きくても0.8,近畿では0.3ないし0.4だから,あたりはまったく暗くならない。また248年日食は,もともと皆既にならない.」とある。しかし、2年後の論文でこの点が見直されて改訂されている。
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