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大国主の豊葦原の瑞穂の国はここだった?(*^^)v

2020-08-24 16:39:27 | 古代史
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フォローさせていただいている方の以下の記事に興味ある話題がありましたので、いつもの調子でぶしつけなコメントをして、申し訳ありませんでした(*ノωノ)その後分かったことがありますので、ブログにしました。通説と違うので混乱されるかもしれませんが、最後までお付き合いください(^◇^)


褐鉄鉱製鉄②
2020-08-15 07:24:27 | 歴史


褐鉄鉱とは直結していないのですが、アマテラスとスサノヲの誓約でスサノヲは悪しき心なら女が生まれ、そしたら葦原中国に降し、清き心なら男が生まれるので天上を治めさせ、姉の生んだ子も同じ誓約にしましょうと言ったとあります。スサノヲからは六人の男が生まれ、アマテラスから三人の女の子がうまれたので、三女神を葦原中つ国の宇佐嶋に降臨させたことになっています。この三女神は本当は二人の子供ではないですが、イザナミと同じ母系のムナカタ海人族の姫巫女卑弥呼のことだと推理しています。卑弥呼は宇佐市安心院町の三女神社に降臨(疎開)しましたので、葦原中つ国の宇佐嶋は宇佐市安心院町三柱山だと思っています。当時の安心院盆地は葦の群生した湿地帯だったようです。

中津国を豊前の中津と言う説もありますが、中は那珂、那賀で龍蛇神(ナーガ「奴」)の意味で、奴国大王スサノヲ直系の大国主の支配する国を意味します。台与を13歳で女王に立てて最初の王宮を安心院町にして卑弥呼を三柱山の径百余歩の円墳から妻垣神社の一柱騰宮(古事記では足一騰宮)で改葬したと推理しています。ですから葦原中つ国は安心院町のことだと推理しています。

そして、褐鉄鉱ですが、安心院町ではないですが、隣の別府血ノ池地獄の赤泥に褐鉄鉱が混ざっているとのことです。http://bud.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/bs00105.pdf(残念ながらご紹介したURLにアクセスできませんでした(´・ω・`)

それから、大国主久々遅彦(豊岡市久々比神社の祭神、イタケルの直系)と台与(ムナカタ息長族)がペアですが、アメノヒボコとカヤナルミ、ツヌガアラシトとヒメコソ、サルタヒコとアメノウズメ、ウサツヒコとウサツヒメは大国主と台与の分身だと思いますよ。色んな伝承で訳の分からない話にするのが日本書紀のごまかしの手口だと睨んでいます。アジスキタカヒコネと下照姫も分身かも?拙ブログ「本当は怖い七福神の謎」「ヤマトタケルの正体は誰?」のコメントで少し言及していますので、ご参考までに。
失礼しました(*^^)v


このブログの冒頭に、
長浜浩明氏によると、

豊葦原とは貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原であり、豊葦原から生まれるスズより鉄を得、その鉄で農具を作り開墾して瑞穂の国を作る

これが「豊葦原の瑞穂の国」だといいます。
とありますが、日本書紀と古事記で使われている場所を「葦原」で検索しましたが、そこで現れる記事に褐鉄鉱(リモナイト)と直接関連しそうなものは見当たりませんでした。

確かに川の上流から流れてきた砂鉄から葦の根のバクテリアによって湖沼鉄(褐鉄鉱)が生成されることは知られていますので、それを使った小規模な製鉄が古くからおこなわれていたと考えられます。しかし、生産量などが半島南部の鉄素材と比べると十分ではないので、日本建国時代(三世紀)の列島内で使用された農耕具・漁具や武器などの多くは半島産の板状鉄素材を用い生産されていたと考えています。

上のコメントのとおり宗像三女神(比売大神卑弥呼)が降臨したという伝承のある葦原中国の宇佐嶋は宇佐市安心院町三柱山の三女(さんみょう)神社で間違いないようです。



そして、大国主は先述のとおり、卑弥呼が死んで内戦に勝利した後に台与を伴い、一柱騰宮(足一騰宮)で卑弥呼を改葬し、大国主が倭国を支配するために、最初に都とした場所が安心院町だと推理しています。恐らく、佐田神社の場所が王宮だったと思います。そして米神山の西麓に佐田京石を造り、祖霊への感謝の祭祀を行ったようです。佐田京石は佐太大神(大国主)がこのストーン・サークルを首長霊の依り代として都の中心と定めた故事に由来するのではないかと思います。米神山も神奈備山として中腹から山頂にかけて巨石を配置し、祭祀を行ったと思われます。(悲劇の女王台与のはなし(その3))。

そして、この地は温泉が出ます。先述のとおり葦の根で生成される褐鉄鉱(リモナイト)を用いて製鉄し、農工具などを作って、葦が群生するこの土地を豊かに稲が実る水田に変えたのだと思います。豊葦原の瑞穂の国は大国主が最初に開拓し、広大な水田を造った安心院盆地のことだと思います。国譲り神話は大国主の支配する豊葦原中国を天照大御神の子孫に譲る話ですが、実際には270年頃、大和政権を作った第19代奴国王天照大神尊ニギハヤヒの直系の纏向ヤマト(狗奴国)の大王卑弥弓呼が大国主と台与を殺して倭国を奪ったのが史実だと推理しました(第三次倭国大乱)。

大国主の支配した倭国のシンボルが安心院町の豊葦原瑞穂の国でしょう。



佐田地区探訪マップ(大国主ゆかりの神社・史跡が見られます)


その佐田神社は以前に紹介しましたが、御祭神は武内宿禰・素盞鳴尊・大山祇命です。武内宿禰と大山祇(大山咋)は大国主の別名であることも述べました(注1)。スサノヲ大王は大国主の祖ですので、大国主と霊的に一体になるというのが首長霊信仰の思想なのです。

これは天皇家の大嘗祭のメインイベント真床負衾という儀式に現れています。これによって天皇に即位し、皇祖神と一体になって、その霊力によって日本国の安泰・日本国民の安寧をもたらすという考え方ですから、天皇になれるのはヤマトの大王(祭祀王)としての有資格者、つまり皇祖神の男系男子だけなのです。

何度も述べていますが、アマテラス女神は持統天皇と藤原不比等の創作です。それを誤魔化すために推古天皇も皇極・斉明天皇も創作された女帝で、実際に即位した人物ではないのです。その後の女帝もヤマトの大王(祭祀王)にはなれないので(注2)、通説とは異なりますが、

すべての女性天皇は歴代天皇の系譜から除外すべきだと分かります。

女帝称徳天皇(孝謙天皇)の宇佐八幡神託事件(769年)弓削道鏡に皇位を譲る話ですが、河内の弓削連(物部氏)は天照大神尊ニギハヤヒの子孫なのですから、臣籍降下はしてますが、称徳天皇は道鏡を有資格者と考えたのではないでしょうか。称徳天皇の父は、大国主系と思われる天武天皇の曽孫の聖武天皇で、母は藤原不比等・県犬養三千代の娘の光明子です。父も母も藤原氏の横暴ぶりを嫌っていたようです。恐らく天変地異や疫病は藤原氏が本当の皇祖神を蔑ろにしたからと考えて、皇位(祭祀王の位)を天照大神尊ニギハヤヒの系統に返還するのが正統だと考えたのかも知れません(関裕二『「万葉集」が暴く平城京の闇』(小学館新書)2016参照)。(2020.8.25 赤字追加)

770年になって、天照大神尊ニギハヤヒ直系の敏達天皇の玄孫で、中大兄(ナーガ神=奴国大王の嫡子という意味)の孫の白壁皇子が光仁天皇として即位して以来、現在の天皇家はニギハヤヒ系だと推理しています。天智天皇の第7皇子志貴皇子の第6皇子としていますが、中大兄は大和で即位していません。天智天皇は存在しないことが万葉集研究家の渡辺康則氏によって解明されています。舒明天皇も創作です。

現在調査中ですが、スサノヲ・大国主・応神天皇直系の雄略天皇までの倭の五王は実在だと思います。その後、継体天皇までは全て創作だと思いますが、大国主系とニギハヤヒ系の主導権争いの混乱の末、欽明天皇が崇神天皇(応神天皇を即位させた狗奴国王卑弥弓呼)以後の最初のニギハヤヒ系の大王として即位したのだと思います。その子の敏達天皇を用明天皇が追い落として即位した実在人物です。日本書紀で用明天皇の分身を蘇我馬子にされてしまいましたが、武内宿禰つまり大国主の子孫です。馬子の子蝦夷とされた人物が聖徳太子であり豊浦天皇として実際に即位したようです。蘇我入鹿は創作なのです。天武天皇は豊浦天皇の子孫でしょう。藤原氏の権力の正当性を主張するために日本書紀で最も隠したい史実だったのです。「聖徳太子は天皇だった」(大空出版)に独自の推理を加えています(*^。^*)(2020.8.26 赤字修正)


ということで、話が脱線気味ですが、元に戻して、日本書紀 神代上に「一書曰、大國主神、亦名大物主神、亦號國作大己貴命、亦曰葦原醜男、亦曰八千戈神、亦曰大國玉神、亦曰顯國玉神。」とあります。

大国主は葦原醜男(アシハラシコオ)、つまりヤマトに祟る鬼(シコ)のような怖い男なのです。また、安心院町佐田は江戸時代に反射炉が造られた場所ですからやはり大国主が鉄器を生産した場所だったことと関係しているのだと思います。八千戈神ですから、数多くの鉄製の矛(武器)を作った人物でした。新羅王子アメノヒボコとして豊岡市の出石神社でも祀られています。

このとおり全部でいくつあるのか数えてませんが、すべて大国主久々遅彦の別名なのですよ(^_-)-☆。

280年頃応神天皇が祭祀王として即位した物部政権の時代から、その後の藤原政権時代を経て現代まで、

その正体を隠されつづけて来た、日本の神々の中で最も丁重に祀るべき日本建国の主役だったのです。


【参考記事】
古代史の謎を推理する(^_-)-☆
日本建国の真相はこれだ!(^_-)-☆



(注1)大山祇は古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4)注で示した大山咋と同一神と考えています。
古代史のカギを握る神々の正体?(^_-)-☆

(注2)Wiki「女性天皇」宮中祭祀によれば、以下のとおり女性天皇は祭祀王としての神事を完全には行えません。伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕する斎王(斎院)の制度がありましたが、未婚の皇女は斎王(斎内親王・斎女王)になれますが既婚女性はなれませんでした(wiki「斎院」参照)

女性は皇族と言えども宮中祭祀を行うヤマトの大王、つまり皇祖神の霊と一体となる祭祀王にはなれないのです。

宮中祭祀においては今なお伝統を重んじ、「何人たりとも常に清浄な状態でなくてはならない」とされる。

賢所で祭祀に携わる内掌典は、外出時には下界の「穢れ」を宮中に持ち込まないよう専用の衣服に着替える[10]。死も「穢れ」とされるので、内掌典は拝命時、身内が危篤に陥った際にはまだ命のあるうちに宮中を離れるようあらかじめ厳命される[10]。身内の訃報を宮中で聞いた内掌典は「穢れ」となるので、着ていた着物などは全て処分しなければならないという[10]。そして、女性特有の出産や月経も、神道においては「穢れ」である。月経は「まけ」と呼ばれ、最も穢れた状態とみなされる[10]。

さて、天皇は「祭祀王」であり、歴史的に見るとその最も重要な務めは神事であったとされる。しかし、女性であるがゆえの「穢れ」が定期的に生じるのを避けられないがために、江戸時代の女帝たちは、天皇の本質的部分である祭祀を、不安定、不十分な形でしかおこなえなかった[11]。

女帝に「御障り」がある際には、代行できるものは摂政や神祇伯が代行した[12]。しかし、天皇自身がおこなわねばならない祭祀は中止された。明正天皇は、在位中に四方拝や小朝拝をおこなわなかった[12]。後桜町天皇は、四方拝にも新嘗祭にも出御しなかった[11]。後桜町天皇の大嘗祭は、当日が「御障り」になった際には後日おこなうという二段構えの計画が立てられた[11]。

こうした事情を踏まえると、仮に(皇室典範を改正して)女性天皇が今後実現した場合、日本国憲法に規定される象徴としての世俗的な公務については何ら問題なく果たせるであろうが、伝統的な宮中祭祀に関しては問題が生じることが予想される。代理による執り行いが不可能な祭祀は延期・中止にせざるをえず、代理による執り行いが可能な祭祀とて完全に委任することはできない。実例として、昭和天皇は大正時代後期(当時:皇太子裕仁親王、1921年 - 1926年)に摂政として代拝をおこなったが、「天皇同様の祭祀行為はできず、新嘗祭では供物奉納までしかできなかった」という[13]。


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