刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【刮目天の古代史】倭人とは?(^_-)-☆

2023-03-18 07:36:37 | 古代史
いつも応援ありがとうございます。
よろしければポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング

の語源は「小さい」とか、倭人が自らを「わ」(吾・我)と称したことから「倭」となったという説などいくつもあり、定説にはなっていません。しかし「日本人はもともと「和の精神」だった!(その2)」で説明しましたように、「(権力者・支配者に)従順」という意味がホントではないかと思います。三世紀の倭国の様子を記述した「魏志倭人伝」には風俗は乱れておらず、争いごとも少ないとあるので、当時のシナ人から見ると珍しい存在だったようです。倭人のこれらの特性は現代日本人にも引き継がれています。今回は倭人のルーツを考えてみたいと思います。お付き合いください(#^.^#)

後漢時代の文献「論衡」に周の成王(前1042年~前1021年)に倭人が鬯草(暢草、ちょうそう)という薬草を献上したという記事があります。日本列島では水田稲作が北部九州玄界灘沿岸で始められるのが前9世紀後半ですから、その少しだけ前の縄文晩期に当たります。この薬草は鬱金草(ウコン)とされており、福建・広東・広西などで採れるものです(注1)。だとすれば、倭人は列島に水田稲作技術をもたらした長江下流域の呉の人々のことになります。Y染色体DNAのハプロタイプはO1b2から分かれたO-47zで、現代の日本人男性(本土)の約25%居ます。O1b2から倭人O-47zを除いたO1b2*の人々は朝鮮民族の現代男性の約1/3を占め、前2800-前2000年の黄河中・下流域で龍山文化を担い、前1500年に殷(商)王朝を建てた人々の末裔の箕子朝鮮(紀元前12世紀ー紀元前194年)の人々です。(2023.3.18 赤字修正)


日本民族とその周辺民族の父系のルーツ!

O1b2と考えている彭頭山文化の担い手は紀元前7000年、最初に米の栽培を長江中流域の湖南省彭頭山遺跡で行った人々で、「八十壋遺跡からは集落を堀で囲んだ跡が見つかり、最古級の環濠集落とも考えられる。また集落中央には祭祀を目的とした可能性のある大きな建物が発見された。」とあります。

殷(商)人系O1b2*の人々は山東省の黄河下流域で前6500年-前5500年に後李文化(こうりぶんか)を担った人々だと考えられます。この人々は「方形の竪穴建物に住んでおり、イヌやブタを飼っていた。紅褐陶の陶器や各種石器、地下の貯蔵穴、墓穴なども多数発見されている」とあり、「アワなど雑穀の栽培を行っていたが、済南市長清区の帰徳鎮月荘村で発見された月荘遺跡(Yuezhuang site)では雑穀のほかに炭化したコメが発見され、黄河流域で最古となる稲の栽培の証拠となった。AMS法による放射性炭素年代測定では7050年前(誤差±80年)のものとされている。」とあるので彭頭山文化の人々O1b2から前5000年頃に分かれた人たちだと考えています。

倭人系O-47zは長江中流域の彭頭山文化の人々から前6000年頃に分かれ下流域に移住したと考えています。前5000年ー前4500年の河姆渡遺跡で、「水稲のモミが大量に発見されたため、人工的かつ大規模に稲の栽培が行われていたことが明らかになった。これは世界でも最古の稲栽培の例である。」とあります。もと彭頭山文化の人々が同じ時期に作った城頭山遺跡(じょうとうざんいせき)では、世界最古の水田跡が見つかっていますので、倭人のものなのかも知れません。

河姆渡遺跡では「稲のほかにも、ヒョウタン、ヒシ、ナツメ、ハス、ドングリ、豆などの植物が遺跡から発見されている。その他ヒツジ、シカ、トラ、クマ、サルなどの野生動物や魚などの水生生物、ブタ、イヌ、スイギュウなどの家畜も発見された。」とあります。

また「遺跡からは干欄式建築(高床建物)が数多く発見されている。遺物のなかでは石器は比較的少なく、石斧など工具として使われた磨製石器や装飾品として使われたものが発見されている。木器や骨器は多く発見された。その中の「木雕魚」は中国最古の木製装飾物である。また木でできた柄のついた肩甲骨製の耜(シ、すき、田を耕す道具)や刀、銛、弓矢、紡錘や針など大量の紡織用の道具、骨でできた笛や木の太鼓も発見された。河姆渡では中国国内では最古の漆器も発見された。

さらに「陶器は黒陶、紅陶、紅灰陶など1000度前後の比較的高い温度で焼いたものが見られ、一定の技術的水準にあったことを示している。幾何学模様や植物紋、縄文などが刻まれており、中には人頭をかたどったものや船をかたどった土器もある。」とありますので、漁労民族であることも分かります。

ちょうど縄文時代前期である前5000年( 7000年前) から前3500年( 5500年前)と重なる時期です。縄文前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡である青森市三内丸山遺跡は、遼河人系N1の人々によると考えられています。ここで見られた「多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物」と重なる部分があります。安田喜憲「稲作漁労文明ー長江文明から弥生文化へ」(雄山閣 p.140)によると、漆の文化は縄文前期の福井県鳥浜貝塚から河姆渡遺跡に至る環太平洋南部の文化に系譜を持ったものであるとあります。そして、「青森の地は、アメリカ北西部のハイダ族やトリンギット族、沿海州のギリヤーク族などの環太平洋北部の文化圏、中国江南の長江下流域から北上してきた環太平洋南部の文化圏、そして中国北東部からの環日本海文化圏がちょうど交流する文明交流圏に相当しているのである。この環太平洋北部と南部そして環日本海の異文化の接触地点に、南方要素と北方要素をともに兼ね備えた高い文化が発展したのである。」とあります。

縄文人(D-M55)というと日本列島固有の人々で、縄文時代は他の文化圏から隔離されたガラパゴス的イメージがありましたが、全く違ったものなのです。縄文人自身が海を移動して周囲の文化を取り込んだということで、その担い手がムナカタ海人族だったと考えています。南方系の蛇の文化も、弥生時代以前の縄文中期あたりから江南の倭人と交流して導入し、弥生時代になる前後には縄文人と江南の倭人(呉の人々)が混血したと考えられ、シナ人からはともに倭人と呼ばれたと考えています。

(注1)中国ではウコンを姜黄・姜王と呼ぶが、姜王とはショウガの王様の意味である。産地は温暖、湿潤で土層の深いところがよく、具体的には福建・広東・広西・雲南・四川・江西ほか。(「百歳への招待「長寿の源」食材を追う:ウコン茶」百菜新聞1998.05.10 32号 14面より)(2023.3.18 追加)

【関連記事】
中国神話は日本人の神話だった?
【刮目天の古代史】目からうろこの大発見?(その19)7.記紀と日本人の信仰の謎⑤


「呉音」はいつ日本に入って来た?


通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
応援をしていただき、感謝します。
よろしければ、またポチ・ポチ・ポチっとお願いします( ^)o(^ )
古代史ランキング


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。