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纏向遺跡が邪馬台国である根拠?

2020-11-26 06:59:15 | 古代史
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「考古学から見た邪馬台国大和説」を読んで
2020年11月26日 | 書評


しばらく「日本書紀」のデタラメ振りをなんとか皆さんに分かって頂きたいと思い、古代史ブログを中断していましたが、非常にいい内容のブログを見つけましたので、以下のようなコメントを入れさせて頂き、その内容をそのままブログにしました( ^)o(^ )。

興味深く拝見させていただきました。しかし申し訳ありませんが、畿内説の方は纏向遺跡だけに目が行って、北部九州の存在を無視しているようです。

二世紀末の倭国大乱から女王の共立で大和朝廷が纏向で成立したと考えるのは無理があります。
三世紀初頭に纏向に政治都市が作られた理由は何か?
倭国大乱の対立はどういう勢力によって何故起こり、何故そしてどういう経緯で、最終的に纏向でヤマト王権が成立したのか?

これらは纏向邪馬台国説では説明できていません。



なぜなら当時の列島で文化的に最も進んだ、大陸・半島との玄関の北部九州の存在を無視しているからです。北部九州へは畿内の土器が搬入されているにも拘らず、畿内では北部九州の土器が皆無と言っていいほど出土していません。

これは北部九州の倭国と纏向が対立関係にあったことを示す事実です。

通説では熊本を邪馬台国と対立する狗奴国と見ていますが、これも纏向でヤマト王権が成立した事実を説明できませんから、北部九州に邪馬台国が存在し、纏向にあった狗奴国によって邪馬台国が滅ぼされ、ヤマト王権が成立したと考えるのが最も妥当です。

すいません、邪馬台国纏向説では当時のことを合理的に説明できませんので、邪馬台国が九州にあったとする説は正しいと思います。詳しくは以下をご参照ください。どうもお邪魔しました(*ノωノ)
【検証11】定説の根拠を疑え(^_-)-
【検証12】狗奴国は熊本じゃないよ|д゚)



【参考記事】
【検証5】纏向は邪馬台国じゃないよ!(^◇^)
 古代史の謎を推理する(^_-)-☆


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4 コメント

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Unknown (jikan314)
2020-11-26 13:34:11
邪馬台国について、余り詳しく無いのですが、臺(台の旧字体)と壹(壱の旧字体)の誤写と言うのをどっかで言っていました。
何時も旧字体文字のクロスワードパズルをしているので、なるほどと思っておりました。
又お邪魔いたします。
拙句
落葉かな木の間明るく三輪の道
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Re:Unknown (刮目天 一(はじめ))
2020-11-26 15:48:12
早速、素敵な句の入ったコメントを有難うございます。大物主大神(大国主命)が三輪山の秋の山道を歩いている情景が浮かんでまいります。

さて、ご指摘の臺(台の旧字体)の件ですが、240年の魏使梯儁(ていしゅん)の上司である帯方郡太守劉夏(りゅうか)が敢えて壹(壱の旧字体)にしたのだろう考えています。当時、魏臺(台)は魏の明帝を指す例があるようですので、東夷の王を邪馬台とするのは憚られ、似た文字「壹」で代用したのだと考えています。

邪馬壹国ではなく邪馬臺(台)国であることは、後漢書の撰者范曄が明記していますので間違いないと思います。范曄は卑弥呼よりも後の倭の五王の時代ですので、倭の使者が都をヤマドゥと呼んでいたのを知って邪馬臺に修正したのだと考えています(倭の都大和を何故ヤマトと呼ぶのかについては、こちらをご参照くださいhttps://blog.goo.ne.jp/katumoku10/e/bf4d90bf0e75720c058dc9e794d1c97a )。范曄は狗奴国の位置も邪馬台国の位置も正確に理解していました。

したがって三世紀中頃の邪馬台国はヤマ(野麻)国に住む女王の支配する国という意味になります。

なお、邪馬壹はyamaichiまたはyamaiiという発音になると思われ、当時の倭人は母音を重ねる言葉を避けていることが知られています。ですからそのような地名は当時の列島には存在しません。そこで、yamawiという発音を主張する方もありますが、そのような発音の適当な地名もみあたりません。ヤマ国は和妙抄で登場する野麻郷(ヤマゴウ)のことであり、宇佐市史によれば宇佐市安心院町に比定されています。また安心院町の龍王山は名勝耶馬溪66景の一つ「仙の岩」として有名です。

また、卑弥呼を玄界灘に面した宗像の不弥(ウミ)国を根拠地とする縄文海人族の姫巫女と推理しています。倭国大乱の戦乱を逃れて安全なヤマ国に疎開したと推理しています。安心院町の地名も卑弥呼(院)が安心したという故事から来たものと考えています。
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こんばんは (light 77g)
2020-11-26 19:03:36
いつも興味深く拝読しています。
〜と言うのは、私は大分県で
宇佐や安心院とは縁があるのです。
安心院は、果物が豊富です。

ありがとうございます🍀
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Unknown (刮目天 一(はじめ))
2020-11-26 19:43:51
こんばんは
そうだったのですか!
コメント頂き、とてもうれしいです(o^^o)
実は、ネットでお友達になった方も宇佐の方で、現地の方しか知らない色々な情報を頂き随分と助かりました!突然、音信不通になってしまい残念に思っていました。

そうでしたか、安心院は果物がたくさんとれる!有り難うございます!卑弥呼はとても快適な生活をしたようですね(^-^)

今思うと、私自身もここまで解明できるとは最初は全く分かりませんでしたが、何かに導かれているような不思議な感覚になることがありました!

五年前に、卑弥呼が宗像三女神であるという推理から、はじめて三女神社を訪れたときに、参道を歩いていると突然震えがきました!その時、卑弥呼の宮室に間違いないという確信を得ました!

その後、米神山の下の佐田京石でも不思議な気持ちになり、当時に造られたストーンサークルだと分かりましたので、三女神社の三柱石と同様に縄文人の文化を引き継いでいることも分かりました!それがあったので葦嶽山のピラミッドや吉備津神社のストーンサークルの謎も分かり、日本書紀が必死で隠すニギハヤヒの正体も判明しましたし、大国主命と台予の謎も分かりました(^_^)ノ

現地をまた訪れたいのですが静岡県に住んでいますのでなかなか難しいので、死ぬまでにもう一度だけでも行けたらいいなと考えていますよ(*⌒▽⌒*)

何かお気付きのことがございましたら、またお教えください!今後ともどうぞよろしくお願いいたしますね(^^)v
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