刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

天皇陛下はニギハヤヒ大王の男系男子?(^_-)-☆

2022-06-02 00:59:50 | 古代史
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mash1125様の「世界の街角」ブログ「弊Blog『出雲の神奈備山と弥生遺跡』のコメントについて」(2022-06-01 07:12:15) の中でわたしの質問コメントを紹介していただきました。

ようやく帰宅して、落ち着いてブログを書けるようになりましたので、私見を記事にします。お付き合いください(*^▽^*)

最初、吉備で見られ、大和の唐古・鍵遺跡や纏向遺跡で見られるようになる弧文や弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だと思います。

ですから、ルーツは北部九州の奴(ナーガ)国です。西暦57年後漢光武帝より賜った金印の紐が蛇ですし、奴国の那珂、列島内の那賀や中、長の付く地名などはすべてナーガを信奉する江南系倭人(アズミ族)が入植した土地に付けられているようです。

つまり、ヤマト王権の基層に江南系の習俗があります(「弧帯文は龍蛇神(ナーガ)の文様だった!」参照)。

それではなぜ、北部九州の奴国からヤマトに王権が移ったのかを考えると、107年後漢安帝に160人の生口を献上して朝貢した倭国王帥升(注1)による倭国乗っ取りの史実があったと推理しました。師升はその名前から奴国宮廷楽師だったと分かります(詳細は拙ブログ「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。最後の奴国王は、記紀神話で高天原を追放された乱暴者の神スサノヲで、宋史 王年代紀第18代王素戔嗚尊だったと考えられます。

初代奴国王は、紀元前4世紀初頭に吉武・高木遺跡に移り住んだ人物で、魏略逸文「倭人は太伯の後」から前473年に滅んだ呉の王族だと推理できます。つまり列島最初の王墓の被葬者は天御中主(アメノミナカヌシ)なのです。天御中主はナーガを信奉する部族の長という意味です。

師升らのクーデターによって奴国王スサノヲが殺され、500年ほど倭国を支配した奴国が滅亡したと推理しました。江戸時代に志賀島で発見された金印はその時に持って逃げたスサノヲの部下のアズミ族が隠したものでしょう。同時に王の弟ニギハヤヒと王子イタケルも奴国から逃亡し、スサノヲの母イザナミの一族(米子を根拠地とする縄文系ムナカタ海人族)に助けられたと推理しました。



イタケルとその直系の子孫(狗古智卑狗)はムナカタ海人族の王に推戴され、父王スサノヲが支配した半島南部の鉄資源を入手し、鉄製武器をニギハヤヒに供給します。ニギハヤヒは伊都国の師升王の倭国側に着いた裏切り者の吉備の勢力を討ち、主要な交易ルートであった瀬戸内航路の支配権を握って隆盛になり、奴国を再興しました。第19代王天照大神尊です。ヤマト王権を成立させた物部氏・尾張氏の祖の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と先代旧事本紀にありますから第19代王と同一人物です。楯築王墓の被葬者と推理しています。楯築神社の亀石と呼ばれる御神体が、中国神話の人類の始祖神天皇伏羲と同じ人面蛇体なのです。ニギハヤヒ大王の男系男子が七世紀末ごろ天皇と呼ばれることになります。天皇は龍蛇神(ナーガ)の奴国王の末裔だったのです。



3世紀末にヤマト王権が成立する過程は図に示すものと考えています。日本は古の倭の奴国で間違いありません。平安時代に神社の祭神を通常正一位までの神階でランク付けしていますが、備中国吉備津彦命には特別な「品位」という神階が与えられています(注2)。大和朝廷の藤原政権は日本書紀によってニギハヤヒ大王を吉備津彦として隠したことを自ら白状しています「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆




神武東征神話ではニギハヤヒが先にヤマトに降臨しており、日本書紀では長髄彦、古事記ではトミのナガスネヒコまたはトミヒコと言う、ニニギを最初撃退したヤマトの豪族でニギハヤヒの義理の兄としていますが、ニギハヤヒがナガスネヒコを斬ってニニギを即位させた話にしています。トミはトビ(ヘビ)のことですから大国主を示唆しています。大国主がニギハヤヒの末裔(狗奴国の勢力)に殺されて、その後大国主の子がヤマトの祭祀王(初代天皇)になった史実を示唆する話としています(「大国主はトビヘビだった」参照)。

結局、こう言う話でヤマト王権の成立に関する考古学の成果を説明できると思います。

拙論は、分かっている事実(考古学、民俗学などの成果)を矛盾なく説明できる一つの有力な仮説だということなのです。
つまり、事実を説明できる仮説はいくらでもあるかも知れません。その仮説群の中のどの仮説がより多くの謎を解明できるのかによって仮説の優劣を判定することができますよ(*^▽^*)




(注1)他の文献では倭面上国王師升とも書かれ、後漢書原本に倭の回土(ウィト)国王師升とあったと考えられます。

(注2)ちなみに品位が与えられた残りの神は、淡路国伊弉諾尊、豊前国宇佐八幡大神・八幡比売神です。伊弉諾尊は皇祖神です。八幡大神は応神天皇とされていますがその前は大国主久々遅彦(狗古智卑狗)です。八幡比売神は卑弥呼ですが、記紀では宗像三女神イチキシマヒメです。大国主の妃で応神天皇の母神功皇后のモデルの女王台与を二女神タギリヒメ・タギツヒメとして加えて誤魔化しています。


最後までお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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