刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

投馬国へ水行してみませんか?( ^)o(^ )

2022-06-14 05:20:21 | 古代史
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昨晩、晩酌しながらふと思いつきましたので、赤字で追加し、(注4)として説明を追加しました。決定的な証拠ではないですが、不弥国がウミコクで宗像市周辺だという説を支持していましたよ。また、また恐縮ですが、お付き合いください( ^)o(^ )

2022-06-06 16:02:27に表題の記事を以下のとおり改訂しましたが、弥生時代から古墳時代の宗像市周辺の潟の様子などを解説した貴重な論文が「むなかた電子博物館紀要」にありました。本文でも説明しましたが、現在の様子とかなり違うので、関係部分を抜粋して(注3)に追加しました。再々投稿で恐縮ですが、また、お付き合いください(/・ω・)

2022-05-28 15:27:52に記事にしましたが、投馬国の由来について思いついたので(注2)に追加しました。お付き合いください(*^▽^*)

先日から、みならいWAJINさんと楽しい議論ができ「魏志倭人伝の渡海ルートは間違い?(@_@)」とコメント欄にアップしています。そこで、不弥国(うみこく)からの水行・陸行のルートに関して、以下のとおりブログ本文で説明しましたが、2日では無理ではないかという、とてもいい疑問を教えて頂きました。心より感謝いたします( ^)o(^ )

不弥国から投馬国(中心地は京都郡みやこ町節丸字在馬・豊津付近)まで水行2日と推理しました。長野正孝「古代史の謎は海路で解ける」(PHP新書)を参考にして、福間ー赤間、遠賀川河口ー関門海峡は潮流を利用して可能だと思います。だから魏志倭人伝の水行20日は実際の日数を10倍した過大な日数だと推理しています。卑弥呼のいた場所が宇佐市安心院町三女神社とわかったので、そこから難升米がどういうトリックをしたのかを推理したのです。

そして、疑問点に対する回答は以下のとおりですが、国土地理院の高低差を色分けできる地図を使って細かく検証してみました。今回、新たに図を作り直しましたので、これに従って少し説明致します。クリックすると綺麗な地図が出ますので、是非地図で確認しながらどうぞ!。さらに疑問点などいただければありがたいです。どうぞお付き合いください。

(2)不弥国新宮町付近から豊津まで現在の海岸線に沿って測れば、おっしゃる通り約90km近いでしょうから2日では無理と考えるのは分かります。しかし、長野正孝氏によれば卑弥呼時代の北部九州の海岸線は今よりも内陸側に入り込んでおり、玄界灘よりも穏やかな内海を航路としていたことが福間・赤間・船越などの地名から分かるとしています(上掲書 p.19 図1-1)。そうすると航路長は60km程度と考えて、潮流を利用すると2日というのは1日10~30kmということであれば実現可能とわたしは考えました。わたしは難升米が20日としたのは、2日をきりがよく10倍したのだろうと思ったのです。でも、実際は3日であっても、4日でも、それを20日と難升米が書いているのですから、10倍になっていないだけの話です。要するに邪馬台国の位置を呉の東海上で帯方郡から万二千里の場所に置きたいために過大な日数にしたと見ているから、ありそうなトリックを想像しただけなのです(^_-)-☆。



それでは、図に沿って説明します。なお、少しだけ前提となる情報を(注1)に述べましたのでご参照ください。

さて、奴国の中心都市が吉野ヶ里遺跡の4倍はあると言われている比恵・那珂遺跡群です。そこから東に百里で不弥国と書かれているので、上に書いたとおり、新宮町の浜に用意された小舟に乗って、邪馬台国への水行・陸行の旅に出発したのだと考えています。浜を北上して福津市の西郷川河口から遡り、板見坂付近の支流で福間(JR東福間駅付近)に向かい八並川で宗像の穏やかな内海に出ます(注3)。内海の南側の低丘陵に作られた弥生前期中葉~古墳時代の田熊遺跡群があります。田熊石畑遺跡は弥生時代の墳墓が見られ、古墳時代初期の遺物も出土していますので、長官の多模(タモ、タマ)らはここに居たのではないでしょうか(注4)(2022.6.13 赤字追加)


さらに内海を東に行くと釣川上流部の赤間に出ます。ここから遠賀川方面へは猿田峠を越えて鞍手町に出たのではないかと思います。新延舟川(にのぶふなかわ)という地名がありますから、そこから水路で遠賀川中流域の現在の中間市垣生公園(はぶこうえん)付近の上り立遺跡まで行き、そこで一泊したと考えられます。この付近から、かなり大げさな戸数とは思いますが、五万戸の投馬国の領域と考えています。

翌日早朝から東の通谷から船越まで行くと金山川に乗り換えて、そのまま一気に下ると洞海湾に出ます。そこから潮の流れに乗って関門海峡を通過し、南下してその日のうちに投馬国の拠点集落のある苅田町、行橋市、豊津町などのみやこ町遺跡群に到着します。あるいは、関門海峡の潮流の向きによっては、図に示したように紫川を少し遡り、城野遺跡辺りから竹馬川で周防灘に出ることもできると思います。

これで不弥国から水行二日で投馬国の中心部みやこ町遺跡群(行橋市下稗田遺跡、苅田町木ノ坪遺跡、豊津町徳永川ノ上遺跡など)に到着できると考えています。(2022.6.13 赤字追加)

なお、中間市から田川市まで遠賀川をさかのぼり、彦山川から赤村付近で今川に出るとみやこ町に行けると思います。しかし、船越からのルートの方が楽に早く行けるのだと思います。復路はこのルートの方がよさそうです(^_-)-☆(2022.6.6 青字追加)

投馬国の名称は、最初に宇佐説を学説にされた富来隆先生の「卑弥呼」(学生社1970、pp.203-207)によれば、関門海峡にあった「鞆(とも)の津・浦」から来たものと考えていましたが、どうも、みやこ町節丸字在馬の地名から来たのではないかと思われます(注2)。

現在、「京都カントリー倶楽部」がある小高い丘辺りに長官弥弥(ミミ)の居館があったのではないかと考えています。南側の麓の節丸地区に在馬古墳群があり、6号墳は6,7世紀の円墳ですので、時代は新しいですが、当時のヤマト朝廷で有力だったムナカタ海人族和邇氏の一族のものと考えられます。1号墳は墳丘径約6mです。付近に円墳6基の今村古墳群もあり、3世紀の邪馬台国時代に和邇氏の祖赤坂比古配下の武将が長官などになっていて、その故地に子孫たちが移り住んだものと考えられます。

邪馬台国への水行・陸行はまたこの次にしましょう(^◇^)

【参考記事】
【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!
【刮目天の古代史】邪馬台国の謎(´ω`*)

(注1)この行程記事は、実際は景初三年(239年)に帯方郡に出かけた倭国王難升米が魏の実力者の司馬懿の部下の太守劉夏との談合で決めたものと推理していますが(「【検証22】難升米という人物は?(その1)~(その3)」)、その後、この談合結果に基づき、正始元年(240年)に派遣された最初の魏使悌儁(ていしゅん)が作った報告書を陳寿が宮廷の書庫で見つけて、文章を抜き出したのだと考えています。この報告書には、難升米が実際の行程をベースに、司馬懿の功績を魏第一等のものにするために大げさな日程や戸数などを書いて教えた内容が残されたと推理しています。

末盧国の上陸地点は、通説では唐津とするのが多いようですが、ここでは伊万里湾内としています。停泊地は魏使の船の大きさにもよるのです。唐津湾にも停泊できるとは思いますが、魏志倭人伝には末盧国から伊都国まで陸行五百里と書かれています。したがって、唐津湾に停泊したのならば、伊都国は唐津湾から見えます。なので、荷物を小型船(丸木舟や準構造船)に積み替えて行けますので、魏志倭人伝の記述に合いません。より遠方の伊万里湾であれば記述と合致します。

魏使が乗る船についてはほとんど情報がないのですが、海洋技術の専門家遠澤 葆氏が「魏志倭人伝の航海術と邪馬台国」(成山堂書店)の中で、帯方郡の遣使が使った船は、当時の魏の船ですから、櫂走船もありますが、帆を降ろして櫂走も可能な帆走船と考えていいとしています(p.38)。ただし、三国時代の船の絵などは不明です。乗員数についても、記載が見当たりませんが、この時代よりもはるかに古い古代エジプトの帆船から考えて、中央にマストが1本あるタイプと考えているようです。

ですから、初めての朝貢国に魏皇帝の威厳を示すためには最低でも百人程度の乗員の乗るような当時の大型船が使われたものと考えられます。

そうすると、唐津湾よりも水深があり、地形的にも風に対しても安心して停泊させられるのではないかと考えられ、伊万里湾が選ばれたのではないかと考えています。

(注2)投馬国の読みは通説では「ツマコク、トーマコクなど」と言われています。しかし、投馬は日本の古くからの漢字音「呉音」で「ズマ(メ)」と読めます。投馬国の中心地を上述の在馬とすると、「在」は呉音で「ザイ」ですが、呉語 ピンイン: ze2 とあるので、在馬は「ゼマ(メ)」->「ズマ(メ)」と変化しそうです(は呉音でメ、呉語 ピンイン:ma2 mo2) 。

アズミ族が開発した土地だったので、アズミがズミー>ズマと変化したのかも知れません(安心院がアジムと読むのはアズミ族が開発した土地だったからという説があります)。

あるいは、魏志倭人伝では、倭国には牛や馬などはいないと書かれていますが、ここには当時珍しい馬が居たので、在馬という地名になったのかも知れません。Wiktionaryによると「投」と言う字には「与える」という意味がありました(例:投薬、投与)。難升米が公孫氏から貰った馬を長官の弥弥(ミミ)に与えたのかも知れませんよ。倭国の地名などは漢字の意味を知っている難升米が書いています(「伊都国の意味がヒントだった?(@_@)」参照)。馬が居ないとするのに投馬国と書くのは矛盾するようですが、そこまでは気が付かなかったのか?公孫氏との関係を説明したくなかったから、馬はいないと言ったのかもしれません。こっちの方が当たりかも(^◇^)
(2022.6.6 紫字追加)

(注3)弥生時代から古墳時代の宗像市周辺の潟の様子は、花田勝広 「宗像地域の古代史と遺跡概説」むなかた電子博物館紀要第2号2010年4月1日に詳しく書いてありましたので以下に引用します(pp.47-50)。国土地理院の地図を見ながらご参照ください(^_-)-☆

2-1-2.弥生~古墳時代の宗像潟
 弥生時代遺跡を潟から立地を見ると、田島瀧ノ口、多礼コキゾノ、河東久戸、稲元久保、須恵クヒノ浦、三郎丸、田久、田久松ヶ崎、曲香畑、曲善王寺、東郷下ノ畑、東郷登り立、田熊石畑、大井三倉、大井池ノ谷、大井和歌遺跡などが、潟周辺に位置している。この内部が後背湿地や入海となるが、唯一向手丘陵の標高4m前後(推定)に立地する釣川遺跡が位置する。これらのことから、海退が進み田久北側、稲元南側、曲北側、東郷北側を中心に広域な入海は後背湿地を含め、大きな潟を形成していたものと推察される。集落遺跡から見ると最も低いのが、5mの稲元下牟田遺跡(散布地)となる。
  古墳時代の遺跡も、同様の位置で集落が配置されており、潟の干上がりは進んだものの、景観は変化が少なかったと推定される。集落の立地は、湿地縁辺から谷奥へ水田開発に伴い、分村集落が著しく多くなり、ほとんどの平野低地部に開発が進んだのであろう。そして、古墳時代の終わりには、山麓部に群集墳が造られる。


2-2-1.福間潟
 海岸は蓑生浦と呼ばれ、和名抄の蓑生郷が、西郷川下流部に推定される。中流に神興廃寺・畦町遺跡があり、津丸郷の推定領域となっている。弥生~古墳時代の集落は、原町の香葉、福間駅東側、津丸五郎丸遺跡などが知られるが、実態が明らかでない。西郷川の下流域の氾濫原には遺跡は確認されておらず、上西郷や検見坂付近まで氾濫原がひろがっており、弥生時代から古墳時代には潟湖の存在が推定される。上流部に畦町遺跡があり、内殿・畦町周辺は集落や水田が広がっていたものと推察される。
2-2-2.桂潟
 『宗像市史』に縄文時代前期の海岸線が復元されている(下山, 1997)。弥生時代~古墳時代においても、入海が広がっていたものと推定されている。同時期の遺跡も、丘陵や海浜部に勝浦・練原・新原奴原・生家・在自遺跡などが知られる。古墳時代の集落・古墳群の様相から潟や入海の状況が想定される。農耕は、谷水田を中心とする農耕基盤と考えられる。奈良~鎌倉時代には、交通路も丘陵部をとおり、名児山越のルートである。ただし、中世には在自西ノ後遺跡が、唐坊(津屋崎中学校)と考えられることから、潟の陸地化が進んだと見られる。
 江戸時代には、塩田に広く利用されており、現在も潟が残る。留意されるのは、渡半島が塩浜から勝浦浜に続いて砂州が延びていたことで、海の中道の景観を呈していた。ところが、一部、白石浜で低い部分があり、古墳時代後半期には砂州帯を切通し、玄界灘に繋がっていたものと、私は推定する(花田, 1993)。
 このように、宗像地域の景観は現代と異なり、潟が広がっていたものと考えられる。同様な現象は、古賀地域・糸島地域・遠賀川流域でも知られる。人々の営みの中で、入海→潟→湿地→水田への変化を遂げた。宗像海人の基層部分は海と平野の基盤を持つ特性が、地理的要因から考えられる。


縄文系ムナカタ海人族は、ただ海の民として交易と漁労で生きていたわけではなく、水田稲作を受け入れて、それを生活の基盤にしていったということなのでしょう。「日本列島に集まった人々とは?」で推理したように、第一段階(狩猟採集民)の縄文系の人々が第二段階の遼河人系海人と混血して生まれた人々で、水田稲作技術を持った第三段階前期の倭人とも友好関係を持ち、非常に柔軟で生き生きした、活動的な人々だなと思います(^_-)-☆(2022.6.10 追加)

(注4)たった今気づきましたが、タマ(モ)は現在の地名田熊(タクマ)のことではないでしょうか?難升米がムナカタ族のタクマの発音をタモと聞き取って漢字の「多模」を当てたのではないでしょうか?難升米は漢字の意味が分かっていますので、「」には「まねる」という意味がありますから、「真似が得意なヤツ」という意味で漢字を当てたのではないでしょうか?多分長官はムナカタ族でしょうから、彼らの特質のことかもしれませんね。いやあ、逆に田熊という地名が、難升米が不弥国の長官タモ(タマ)に当てた漢字の名前に由来するということかも知れませんね(^◇^)(2022.6.14 追加)

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