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【驚愕!】卑弥呼の奴婢は埋葬されたのか?(@_@)

2022-06-16 00:01:08 | 古代史
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古代史ランキング

Pontaさんから返事が参りましたので、2022-05-30 09:26:08の記事に追加します。お付き合いください(^_-)-☆

古代史に関して多くの著書のある方のとても興味深い動画に、表題の内容に関するコメントがありましたので記事にします。お付き合いください(^◇^)




セカイK1
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼が死に、多数の冢が作られた、径100歩に殉葬者の奴婢100余人。
とかの意味じゃないかな。
大作は漢文の用法としては大きく作るじゃなくて多数作るの意味みたい
墳ではなく冢だから小規模な墓が多数作られたんだ。


直也 草野
なるほど!こちらのほうが正しいです。

刮目天
皆さん それは違うと思いますよ(*´Д`)
どう考えても、奴婢に墓は作られませんよ。宇佐市安心院町三柱山で卑弥呼の径百余歩の円墳を発見していますが、その横の地名が血野とされていましたので、奴婢を殺した場所と推理しています。その他にもいくつか証拠がありますから。

地元の伝承では戦国時代に領主の一族の者が斬り殺された場所としていますが、そのような地名になるほどの血が流れるとは考えにくいので、史実を隠すための伝承と考えています。安心院町は卑弥呼の史実を隠すために藤原氏が手を入れた場所だと思われます。詳しくは拙ブログ「刮目天 【発見!】卑弥呼の墓」をご参照ください。色々と疑問点を教えてください。よろしくお願い致します(^◇^)

波留野うらら
秋津遺跡には、魏志倭人伝に云う宮室、物見櫓、城柵、環濠などはありますか。また、径百余歩の歩の解釈は色々あって定説はないと思いますが如何ですか。なお、古墳学の権威と云われた森浩一氏(故人)は、ヒミコの墓は「冢」と書かれ「墳」とは書かれていませんので、大規模な墓は想定できないと仰っていましたね。

刮目天
漢字源に「冢」は「かしら/おさ/集団を統率する人/おおきい/つか/大きな墓などの意味をもつ漢字」とあり、ウィクショナリーでも「塚。大きな墓。」とあります。墳は漢字源で「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」という意味で、墳墓と書いて、そのような墓という意味です。卑弥呼のために径百余歩の大きい塚(円形墳墓)を作ったということでいいと思います(^_-)-☆

kurdt d cobain
魏志倭人伝の記述である「徇葬者奴婢百餘人」についてはこの人はどう考えてるのだろう
この記述が本当なら卑弥呼の墓の周りには100基の徇葬者の墓があるはずなんだが
日本の古墳で徇葬者が埋葬されてる古墳て無かったはずなので
それがここで見つかったら信憑性は高くなるかも


日本古代史(桂川光和)
11代垂仁以前には徇葬が存在します。
玉手山には私が卑弥呼の徇葬者の場所以外にも、6代孝安天皇の徇葬地ではないかと推測する墳丘が存在します。
次のページの下の方の形図に、一見前方後円墳のように見える墳丘があります。全長26mほどのそこそこ大きな墳丘ですが、きわめて粗雑な作りで、中心埋葬施設がどのあたりか見極められないという墳丘です。
http://lidar.sblo.jp/article/189338597.html


Ponta Kawagoe
宮崎県にある西都原古墳群に生目古墳群があり、その1号墓が丁度魏志倭人伝に記載のある大きさで、百余人の奴婢が殉葬された横穴墓もあります。

また神話にある「高千穂峰の山頂」と「生目1号古墳」の軸線を結んだ延長線上に,「天照大神が生まれたとされる聖地・阿波岐原の『みそぎ池』南端を通ることを確認」した,というあたり驚愕すべき発見もあります。


刮目天
上でも指摘しましたが、奴婢である殉葬者に墓は作られないとするのが常識だと思います。申し訳ないですが、奴婢は一人前の人間とはみられていないから奴婢なのでしょう。

Ponta Kawagoe
@刮目天
殉葬の古墳を確認されたし!
宮崎県南部には多数ありますよ。


刮目天
@Ponta Kawagoe さん 殉葬は古来からありますし、明治時代だってありましたから異常ではないですが、宮崎県で殉葬された人物は奴婢でしたか?そういう証拠があるのならば、取り下げますが、常識的に奴婢は墓に入れてもらえないと考えられますよ(^_-)-☆

刮目天
@Ponta Kawagoe さん それから記紀神話に合うように作られたものは信用できませんよ。記紀神話に合致する伝承を作るのが藤原氏の政策だったのですから。藤原氏の一族の中臣氏が神社行政を握っており、人事も藤原氏の一族を宮司とする例もあります。安心院町妻垣神社の宮司の矢野家は藤原です(矢野武夫「卑弥呼の墓発見」安心院町文化連盟 1981)。卑弥呼の墓の伝承のある奥宮一柱騰宮という磐座がありますが、一柱騰宮は他に宇佐市内に二カ所もあり、どれが本物か分からなくしていますよ(^_-)-☆

むしろ藤原氏に内緒で残っていた記紀に反する伝承が信用できます。例えば、宗像大社の「ムナカタの子がスミヨシ、その子がウサ」や住吉大社の伝承で仲哀天皇のもがりで皇后と大神に夫婦の密事があったことを残しています。仲哀天皇は父のヤマトタケルが薨去して37年後に生まれた計算になりますから、作り話だと直ぐに分かります。建国の真相を解明したら、祖父の景行天皇が実は仲哀天皇とされた尾張王ヲトヨの子建稲種であることが分かりましたよ。(2023.5.30 赤字訂正)
記紀神話は藤原氏が建国の史実を隠す目的で作られたものだと分かりましたよ(^_-)-☆

Ponta Kawagoe
@刮目天 さん、実際に見に行ってみてください!
百聞は一見にしかず。思い込みその他も一気に解消されますよ。
殉葬の何たるかも分かりますよ。


刮目天
@Ponta Kawagoe さん わたしは静岡県在住ですので、おいそれとはいけません。思い込みと言われるのであれば、被葬者が奴婢だという証拠を教えてください。もしも奴婢であるのならば、考えは改めますよ(^_-)-☆
だいたい平安時代や江戸時代だって、庶民は野ざらしだったようです。奴婢の身分で丁寧に墓に葬られるとは考えにくいというのは、それほど常識外れではないと思いますよ。ぜひ教えてください(/・ω・)/

刮目天
@Ponta Kawagoe さん Wiki「生目古墳群」には「1号墳
全長136メートル、高さ17メートルの前方後円墳。一説に当古墳群最古といわれる。畿内の箸墓古墳の2分の1の大きさの相似形と言われ、その関係に注目されているが調査は遅れており、見学は困難である。
」とありましたので、行っても見ることができません。百聞は一見にしかずと言われるあなたは横穴を見たのでしょうね。その時の様子を教えてください。それとも調査報告書に奴婢だと記録されているのですか?だったらそれを教えてくださいな(^◇^)

というところで、現在回答待ちです!とても楽しみにしています.
回答が来たらまた、お知らせしますが、皆さんはどう思われるます?(*^▽^*)

<ここから追加しました!>

日本古代史(桂川光和)
墓は作られない。墓ではなく徇葬された場所、徇葬地とでも称するような場所が存在する。

刮目天
@日本古代史(桂川光和) さん
遺体をそのまま放置するいわゆる野ざらしか、そのまま土をかけて隠したか、あるいは少しだけ掘って土壙墓にしたかですが、手厚く葬ることはなかったようです。

Ponta Kawagoe
@刮目天 さん
私は更に遠い埼玉県在住ですが、件の宮崎県の遺跡まで足を延して訪問しています。
この辺りには横穴墓が前方後円墳に寄り添うように多数見られ、埋葬されている遺骨から、年齢層や身分の構成も王族の奴婢たちと推定されています。


刮目天
​ @Ponta Kawagoe さん
そうだったのですか。わざわざ埼玉から宮崎まで調査に出かけられたのですね。

それでその横穴墓は生目古墳群1号墳の周囲に塚があるのでしょうか?それとも、前方後円墳の後円部側面に横穴が掘られているのでしょうか?

わたしも気になってネットで文献を探してみたのですが、梁 雲先生(西北大学)の「早期秦文化の起源と形成」に前秦代に、主人が愛着のある奴婢や犬・馬の殉葬のために葬った腰抗の話がありました。墓室に穴を掘って遺骸を置いた模様です。

日本では播磨国風土記の餝磨(しかま)郡の馬墓池の話がありました。尾張連の祖の長日子が死ぬ前に遺言で、お気に入りの婢(下女)と馬を葬るようにしたので、三つの塚ができたそうですから驚きです。確かめようと思いましたが、後に池に沈めたそうで馬墓池と呼んだようです。現在の姫路市夢前町とのことで、地図で確認しようとしたのですが、いくつも池があるようですが、該当のものは見つかりませんでした。どなたかご存じないですかね?

しかし、生目古墳群が前方後円墳ならば、3世紀末から4世紀以降のヤマト政権が九州の大国主と台与を討ったあとの話だと思いますので、247年に死んだ卑弥呼の墓ではないといえます。横穴墓は主人の家人らが死後に困らないように奴婢を埋葬したのでしょうね(^_-)-☆

卑弥呼の死は247年3月24日日没直前の日食のために暗殺されたと推理していますので、遺言もありません。おそらくは口封じで百余人もの奴婢が殺されたと推理しています。宇佐市安心院町三柱山の卑弥呼の墓は径百余歩で直径約150mの円墳でした。西側の原野が血野という地名になっており、そこに殺された奴婢を放置したのだと考えています。



ですから、奴婢だから必ず野ざらしというわけではないことが分かりました。少し考えを改めます。どうも有難うございました。また、有益な情報をお教えください(*^。^*)

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【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!


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通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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