花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

風化させてはならない出来事。

2018年03月10日 18時33分41秒 | 怒りの心柱

大空襲によって,焼け野原となってしまった東京下町一帯です。

こんにちは。73年前の今日は,東京大空襲があった日であります。以下に掲載の文は,過去に記事にさせていただいたものですが,あらためて当時の様子を想像しただけでも凄まじい惨状であったと思います。当時の住宅家屋は,ほとんどが木造住宅ですからあっという間に火の海になってしまったようです。何処に逃げてよいのか判断も出来ずに居たことだろうと思います。

東京大空襲の当日,東京の下町一帯にB29爆撃機が最初に決行した作戦は,下町全域を囲むように高さ数十メートルの巨大な炎の壁をつくり,住民をその炎の壁の中に封じ込める作戦を実行しました。当然,住民は逃げることなど出来ません。炎の壁の中に封じ込められた住民を次に,B29爆撃機は超低空飛行で接近し機銃掃射で目視できる住民を徹底的に銃殺しました。

お年寄りであろうと,女性であろうと,子供であろうと関係なしに銃殺して行きました。

逃げ遅れた人々は,学校などの丈夫な建物へ避難しましたが,大空襲当日は,千葉県房総半島から入り込む強風の影響で巨大な炎の壁は猛烈な火災旋風と炎の竜巻を発生させありとあらゆる建物を焼き尽くして行きました。そうしたことも事前にカーチス・ルメイさんは本国の実験場で計算しており,下町の建物を破壊するにはどのような作戦が最も効果的で効率的であるかを繰り返し実験していました。その実験の成果は的中しました。計算通りに作戦は実行され作戦成功が本国へ届けられます。

大空襲の翌日,日本の大本営はあまりの悲惨さに昭和天皇の現地視察を拒みましたが,昭和天皇は自分の眼で現地の戦場を確認すべきとし,視察を実施されましたが焼き尽くされた人々を軍関係者の手によって大きな穴を掘り,その穴に無雑作に放り込みしたのです。その遺骨が未だに道路工事で重機を使い穴を掘ると発見されています。戦後71年(今年で73年目)を経過した今でもです。

戦後しばらくした頃だったと思いますが,新聞記者がカーチス・ルメイさんへインタビューした際に,東京大空襲をなぜ計画したのか訊くとカーチス・ルメイさんは「我々は,日本の軍事工場を破壊しただけだ」「日本は女子供でも工場で働いている」「その軍事工場とは下町の民家の中に多数ある」と話していたようです。いずれにしても罪もない人々をたった数時間の間に数十万人と云う大量殺戮を計画立案した元敵国兵に,我が国の政府が勲章を授与するなんてとんでもない話であります。戦争と云うものは,そういうものなのだと言われてしまえば返す言葉もありません。確かにその通りかもしれません。兵士同士が憎み合っている訳でもありませんし,恨みもありません。相手の兵士に待っている家族がいるんだなんて道徳的に考えていたら自分が殺されてしまいます。

以上が,過去ブログで2回程だったと思いますが掲載させていただいて来た記事であります。戦争と云うものは兵士だけが戦い合うものではありません。そのことを私たちは積極的に過去の歴史から学ばなければいないのであります。マスメディアの情報だけを信じることが,どれ程,危険なものであるのかを含めて見て行かなければならないのです。先の大戦でも新聞などの情報を信じ込み悲惨な戦争へと突き進んで行った過去があったことを忘れては行けないと考えています。決して風化させてはいけない出来事が,私たちの国にはたくさんあります。そして,日本人として,私たちの役割があるとすれば,次の世代へ伝え続けることであります。

東京大空襲において犠牲になってしまった御霊に心からお祈り致します。

 

合 掌


 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

又,人はそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

そしてまた日本人の本当の性質を勇気を以て再び伝え広めて行きたいです。

そのことが日本を取り戻し,日本人としての誇りを取り戻す真の意味だと考えます。

観世音菩薩とともに。花咲 あさひ 拝