花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

耳を塞がず,目を閉じず。

2021年08月09日 07時38分34秒 | 素直の心柱

こんにちは。

イランカラプテ(アイヌ語で,こんにちは)と云う意味です。

昨日は,少しアイヌ民族のことを勉強していました。神学としての古神道を深く考察して行くと考古学や民俗学なども学ぶことになるのです。アイヌ民族も沖縄の琉球民族の信仰は,古神道であると私は結論付けています。

アイヌ民族も琉球民族も人間の能力を超えるものはすべて神としていました。たとえば,食器類においても御椀でも鍋でもシャモジでもみんな神さまの分霊が宿っていると考えていたのです。

さらに,役割が終わった食器類に対しては丁寧に供養までしていたのであります。まさに古神道の分魂思想そのものです。自然崇拝と祖霊祭祀を根本とし,この世のありとあらゆるものには神さまの分霊を宿していると云う基本概念です。

アイヌ民族の先祖も琉球民族の先祖も和人の先祖もみんな縄文人です。

だから日本人は,大きな和。大和の民となって大和民族となりました。

人と云うのは本当に不思議なもので,はじめは自分にこんなこと無理だと不安に感じていたことが,いつの間にか熟せるようになり,振り返ると懐かしく感じることがあると思います。

それだけ自分自身が成長したと云うことで宜しいのではないでしょうか。

成長するまでの間,たくさんの人に支えられ,多くの人に鍛えられ,今の自分が存在しています。すべてに感謝を奉げるとは難しいことではないようです。

祈りの本質は「感謝」にあります。

アイヌ民族のことを勉強していてあらためてそう感じていました。

いろいろ難しいことは,偶には横において置いて。生きる目的を見失ってしまったり,日々の生活に疲れてしまった時などは,自然に触れて見ては如何でしょうか?きっと,目の前にある大自然と直接,自分自身が繋がることによって何かを想い起させてくれるように感じています。

都会に住んでいる方は,自然と触れ合う機会があまりないようにも思いますが,そんなとき時間に余裕があるようであれば少し遠くに出掛けてみるのも良いかも知れません。だって,わたし達は,自然の一部なのですから自然から離れてしまえば心にも身体にも良い訳がありません。神社や寺院で祈願信仰に奔走するよりもいろいろな意味でも余程,良いと思っています。

それを心と体が教えてくれているのです。

耳を塞がず,目を閉じず,そのことをいつも私自身も思いながら大自然(神さま)に活かされながら自然(精霊)と共に生きています。

ニフェーデービル(琉球語で,ありがとうございます)と言う意味です。

大自然に感謝。拝


言葉の魔力

2021年08月07日 19時51分25秒 | 祭祀と和の国

過去記事です。

こんにちは。

今日も昨日の続きを掲載させて頂く予定でしたが,急遽,別の事柄を書かせて頂きたいと思います。

近年,よく耳にする言葉に「個人主義」と云う言葉を聞く回数がだんだんと多くなってきた気がしています。

ですが,この「個人主義」と云う言葉の意味を理解している人は案外少ないようにも思えます。このブログを長く読んでくださっている方はご存知であろうと思いますが,私は,主に神社と寺院の護持をしています。

ただ,神社と寺院の護持だけでは到底,食べていく事は出来ませんので郵便局で配達員の仕事も兼ねています。

神社や寺院の護持と云うものは,大きく区分けして3種に分類できます。

三本柱と表現する事も出来ますが,

その1つは御本殿や本堂などの礼拝堂施設の護持,

もう1つは,氏子崇敬者さんや檀家さん,

一般にお参りに来られる参拝者の護持,そして神社や寺院本体の護持です。

この内,どれが先で,どれが一番大切かと言った事ではなく,その時・その場・その状況で優先順位が変わってきます。

つまり,神社や寺院の護持は三本柱で支えられているのです。

そして,護持をする上で,私たち護持司が最も気を使うのが,参拝者の皆さまに「また明日も生きてみよう」と感じて戴ける事です。

この記事を読まれている方の中には,生きてみようなんて随分と大袈裟だなと感じるかも知れません。私もおそらく,護持司でなければそのように感じる事もあるのかなと思います。

しかしながら,生きる事に疲れ,生きている事が苦痛に感じている人々も神社や寺院には沢山参拝に来られます。そう云った方々が,神社や寺院に参って「また明日も生きてみよう」とほんの少しでも感じてくれれば良いなと考えながら護持をさせていただいています。ささえな事で元気になられる方もいらっしゃいますが,本当に残念な事ですが,亡くなった方もいます。

最近は特に,個人主義と云う言葉があちらこちらで平然と使われるようになりました。

確かに,個人主義と云う言葉は魅力的に感じるかも知れません。

ですが,

私は,この「個人主義」と云う言葉に,とても強い魔力を感じています。世界の個人主義思想の元は,自然権思想や天賦人権説に基づいた思想です。

つまり,人は誰であっても生まれながらにして人権と言う目には見えないものを宿し,その時の権力者によって人権を与えられるものではないと云った考え方です。当然,私たちの国の憲法にも書かれている憲法の核に相当するものです。それを「個人の尊重」と言います。

しかし,私たちが日常的に口にする「個人主義」は「個人の尊重」と同じ意味で使われているでしょうか?私には,どうもそうは思えないのです。

つまり,個人主義と個人の尊重を履き違えているように見えます。

私たちの住むこの日本は大変歴史が長い国でもあります。

しかしながら,長い民族史を持つ日本に個人主義だの自己責任と言った時代は一度もありません。もし,一度でもそう云った時代が過去に存在していたら,きっと,日本民族は滅びていたと感じます。

個人主義が行き過ぎると,私たちは,自己責任と云う恐ろしい言葉を何の違和感も嫌悪感も抱かずに平然と使い始めます。

それが,今の日本ではないでしょうか?

私たちの国には,自己責任と云う言葉は存在しないのだと言う事から改めて学んで行かなければならず,このままでは本当に滅びるのを待つのみです。

誰であっても,明日は我が身です。自分は安全だなんて言える人はもういません。先日も記事で書かせていただきましたとおり,今,日本が抱えるいくつもの問題は,すべて中途半端な状態のままです。

その一つひとつの問題や課題に個人主義や自己責任論を当てはめるとどう云ったことになるでしょう。考えるだけでも嫌になるくらいです。

古神道の世界観では,日本の諸問題は,世界に先駆けて起きます。したがいまして,日本のとる対応が今後の世界で同様に起こる問題の悪い見本にならない様にしなければなりません。

なら,どうすれば乗り越えられるか?

それは,本来の日本人の姿勢である相互扶助でしか乗り越えることは出来ないと,わたしは考えます。

花咲あさひ 拝


観世音菩薩

2021年08月04日 19時22分34秒 | 勇気の心柱

だいぶ前に書いた,過去記事です。

こんにちは。

先日,動画サイトにて宗教団体なのか宗教サークルなのか解りませんが「観音様に呼ばれる人」と云うことをテーマにした勉強会のような動画サイトがありました。動画でしたが映像はなく音声のみでしたが,私の思い考えることと相違があるなと云う意味で興味深いものでした。

観音様はどんな存在ですか?と聞かれると,多くの人が困っている人を救ってくれる存在であり,願い事を叶えてくれる存在とお答えになると思います。

確かに,仏教寺院の僧侶もその様に観音様の存在を伝えていますし,観音経と云う経典の一部にもその様に書かれております。今日は,私たちにとても身近な観音様の存在を少し書かせて頂きたいと思います。

まず観音様と云っても観音様には○○観音と云うようにたくさんの観音様がいらっしゃいます。たとえば,仏教の六道思想に観るように天界を担当する如意輪観音,人間界を担当する准胝観音,修羅道を担当する十一面観音,畜生道を担当する馬頭観音,餓鬼道を担当する千手観音,そして,地獄道を担当する聖観音を六観音と申します。その六観音の内,今日は,地獄の世界で人々を救済される聖観世音菩薩についてです。私たちが一般的に呼ぶ観音さまとは,この聖観世音菩薩を観音様と呼んでいます。仏教の経典の般若心経や観音経で唱える観音様も聖観世音菩薩です。

つまり,仏教界のスーパーヒーローと云ったところでしょうか。

観音様は,困っている人や弱い立場にある人を救済することを唯一の任務とされております。つまり,困っている人や弱い立場にある人を救済できるだけ強いとも言い換えることが出来ます。さらに,地獄の淵まで降りて行くことが出来る存在です。したがいまして,本当の観音様と云うのは,観音様自ら地獄まで降りて行って困っている人や弱い立場にある人の元へ行き救済するのです。

決して高い場所から声を掛けて叫び続けることではありません。

まさに,着の身着のまま裸足で飛び出して行くのが,私たちが祈りを捧げる観世音菩薩の真の御姿です。いろいろと諸説ありますが,私個人的には,聖観世音菩薩は,神界のスーパーヒーローが人々を救済する際に用いる御姿だと思っています。蒼き神の素戔嗚大神様で御座います。

黄泉の国を統治する神は,素戔嗚大神様です。

その動画サイトで話されていた内容は「普通の人は観音様のところで厄を落としに行くんだ」しかしながら「私たちは役を貰いに行くんだ」と云う内容でした。つまり,自分たちが観世音菩薩のように菩薩行をする人になるのだと云う趣旨の話でした。ここまでの話は,私たちもいろいろなところでよく聞く話です。新興宗教でも何かと多く引き合いに出されるのが観音様です。

しかし,私が思い感じたことは,何故,そこで話を止めるのか?その奥の話をされないのか?が疑問でした。なぜならば,ここまでの話を聴いて実際に人の厄を貰い,人の役に立てると信じて菩薩行を実践しても実感が感じられないどころかこの世では厳しい立場つまり,環境に立たされることが多いのです。

その主な理由は2つあります。

1つ目は,

物質世界に人の価値観を見出すことではなく,生き方や道徳,精神世界に真の価値を見出すからです。

2つ目は,

私たちは常に見返りを期待してしまう様になってしまっているからです。

先にも申したように,観音様は困っている人や立場の弱い人を救う尊い存在です。しかし,ここだけに着目してもその先にある本当の姿を観ることは出来ません。たとえば,細かい日常的な事柄ですが,自分から人に挨拶をして,相手から挨拶がなければ嫌な気持ちになります。何か人に良い事をして,相手から何も感謝もされない。ありがとうも言ってもらえないと寂しい気持ちになります。中には,人に良くしてもらったら感謝するのは当たり前だ。こんなに自分はしてあげてるのにと怒り出す人も居るかも知れません。

それは何故か?です。日常生活によく在りがちな話でもあります。

どうして,私たちは,その様に感じてしまうのでしょうか。もし,その様な不平や不満を抱くのであれば,それは菩薩行とはかけ離れたものです。

その様な気持ちはやがて,人を恨み心を穢すことになってしまいます。

菩薩行には,感謝されること。ありがとうと言ってもらえることは,はじめから予定されていないことです。つまり,一方的な行為が観音様の菩薩行ですから,相手に感謝されるとか有難うと云ってもらうとか言う話にはならないのであります。物質的な見返りがないのが菩薩行であると考えていた方が,逆に,何ら見返りを期待せず,執着することなく済みます。

花咲あさひ 拝