花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

今年もありがとう御座いました。

2019年12月30日 22時50分30秒 | 感謝の心柱

こんにちは。

今年も残り,あと1日となりました。

あっと言う間の1年で,本当に時間の短縮がますます加速して行っているのがよく解ります。

来年も様々な変化の年となりますが,やはり私としては,平成の禊をどのタイミングで迎えるかどうかと云ったことに意識を向けています。これまでの様な中途半端な禊ではなく,しかも,相当程度長く続いていくだろうと感じてはおりますが,そのタイミングまでは解りません。1月なのか?オリンピック時期の後なのか?いずれにしても,いつどのような状況下になっても冷静に落ち着いて対応したいと思います。それと,来年も水に纏わることに注意する事も必要ですが,火山噴火の事前対策も必要な気がします。

何事も備えあれば憂いなしです。

又,私の関心事は,自然の猛威だけではなく,現実的な事柄もあります。それが,憲法改正です。憲法については,確か何度かこのブログでも書かせて頂いてきました。集団的自衛権の解釈問題やシビリアンコントロール等々の時にだったと思います。この憲法がいよいよ改正に向けて動き出すのではないかと言った感じがします。もしも,憲法改正手続きがすべて完了し,数年後,改正憲法が発布されれば間違いなく私たちの生活環境が激変して行きます。私たち日本人は,あまり憲法を知りません。

それは,憲法を知らずとも平和に暮らして来れた現実があったからです。しかし,これからはそう簡単には行きません。たとえば,これからたくさんの外国人労働者と移民が日本に入ってきます。仕事の場でも日常生活の場でも非常にたくさんの外国人とともに私たちは暮らしていかなければなりません。そうなると,当然,法整備も整え直す必要性が生じてきます。民法も然り,労働基準法や労働安全衛生法なども外国人労働者を意識した法律が施行されて行きます。雇用契約も含め就業規則も変わってゆくでしょう。

これまで以上に,外国人を受け入れる準備を進めていくことになるのです。

外国人労働者や移民政策については,またの機会にゆっくりと書かせて頂きます。

先程も申し上げましたとおり,私たちの生活も大きく変わります。憲法の核心と言いますか,最も大切なことは個人の尊重にあります。つまり,基本的人権と言われるものです。しかし,この基本的人権が大きく変わろうとしています。自然権思想や天賦人権と云った考えではなくなってしまうのです。人は誰であっても生まれながらにして基本的人権を宿し,決して人に人である人権を与えられるものではないと言うものです。この憲法をめぐり,私たちの選択が次の世を形成して行く事になるでしょう。

予告しておりました,大雄山最乗寺の記事は,この次に書かせて頂きたいと思います。

今年,一年お世話になりました。

花咲 あさひ 拝


大雄山 最乗寺の護持を思う。

2019年12月25日 15時07分07秒 | 美しき水の国

こんにちは。

甘くて美味しい大雄山の御神水に星々たちも,きっと恋していると思います。

以前にも書かせて頂きましたが,御神水の特徴はとにかく甘いのです。それは,御神水だけに言える事ではなく,たとえば御米にしても御野菜にしても御酒にしても神気に入った食材などはとても甘みがします。確かに,地方によって,その土地の土壌や御水が元々良いと言う事もあると思います。気候の影響もあるでしょう。しかし,私はそれだけではないと感じているのです。

何故かと言うと,一つのものを丹精籠めてつくり上げる過程において,作り手の気持ち(念)がそのものに入り込むのだと考えています。正に,仏造って魂入れずではないですが,良くも悪くも作り手の念と云うものは凄いなとあらためて感じてしまいます。

そんなことを想い馳せながら,大雄山 最乗寺の護持について書かせて頂きたいと思います。

記事を書く前に,いくつか写真を撮って来ましたので,ご覧下さい。

次回に続きます。拝


天狗が守護する禅の里山

2019年12月22日 20時22分26秒 | 美しき水の国

こんにちは。

先日,神奈川県の南足柄市と云うところにプチ出張でした。もう3年程になると思いますが,年に数回行くことがあります。その南足柄市大雄町に曹洞宗に属し,天狗(御眷属)さんが棲まう大雄山最乗寺と云う古神道系の寺院が御座います。前から名称は存じ上げてはおりました。なかなか参拝できませんでしたが先日,参拝させて頂きました。正真正銘の古神道系の寺院です。

大雄山を御神体とし,雲水の修行道場になっている最乗寺は,私の感じるままに言わせて頂くとその奥に祀られている存在は水之神だと感じます。ここ大雄山は地元の人はもちろんのこと,知る人ぞ知る水の聖地で,動画をご覧のとおり,境内には御水取りが出来る金剛堂が建立されております。私も御縁を戴いて参りました。

お寺の境内には大雄山から流れる大雄川が流れ,自然と祓い清められています。

寺院では大変珍しい境内で,神仏習合寺院が今でも感じることの出来る禅僧の修行道場です。

仕事の関係で,今日はこの辺で。拝


三峯神社の護持を思う。その4

2019年12月18日 18時10分03秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

三峯山を御神体とする三峯神社の護持について先日から1と2を書かせて頂いてきました。

以下の写真は,奥之宮を遥拝する遥拝所です。2枚目の御神体に奥之宮を御祀りしております。

それでは,続きのその4を書かせて頂きたいと思いますが,前々回のその2では,御神水の授与方法について予め御神水が入っている専用のペットボトルを参拝者が購入する方法ではなくて,三峯神社にて,たとえば京都の貴船神社さんと同じように空のペットボトルを参拝者が購入し,御神水を直接汲める方法を提案させて頂きました。

その理由は,①御神水とは流れている若しくは動いている御水であり,停留している御水は御神水ではないということを書かせて頂きました。ただし,御神水を汲んでからの時間差は多少ありますから2日以内に汲まれた御水であれば問題ないと私個人は感じています。自宅で御祀りしている神棚の御水も毎日か少なくても2日以内に交換すると言う習慣が古神道にはあることからです。私も出張などで3日以上,自宅を留守にする場合には御水の容器そのものを撤去しております。榊はそのままです。

次に,②神社護持の観点から申し上げますと,いろいろ思いつく事もありますが上記①でも書きました空のペットボトルを神社が用意する理由は(1)神社を運営する費用(収益)の確保と(2)統一規格にすることで汲み取り行列(渋滞)を避ける意味があります。この専用のペットボトルである統一規格がなければ,たとえば沢山のペットボトルを持参される参拝者や中にはポリタンクを持参する参拝者も出て来てしまいます。不特定多数の参拝者の方々に短時間で御神水を汲んで戴くには効率的です。

実際に,群馬県の榛名神社では,御神水を求める人々が殺到してしまい,今現在は御神水の持ち帰りは禁止されています。

又,(3)専用のペットボトルを神社から購入する数本を制限をするのも上記(2)をスムーズに運営していく為には有効的な手段とも考えます。(4)衛生面もとても大切な事項ですから,飲料水としての適合合格の有無を必ず立て看板や専用のペットボトルを販売する際にも口頭でも購入者へ告げることを忘れてはなりません。神社名は書きませんが,御神水を汲める場所の環境を整備していても,実際に飲料水としては適していない場合もとても多いのが現状です。つまり,持ち帰る参拝者自身で神社や寺院側に確認しなければならないのです。これでは意味がありませんので,参拝者が解る・理解できることが必要です。

確か,このブログで天河大弁才天社(通称:天河神社)の護持について書かせていただいた時にも述べましたが,神社や寺院の護持と云うものには3つの柱があって神社や寺院を支えています。その3つの柱とは,1.神社・寺院の本体(運営)の護持と2.礼拝堂などの護持と3.氏子,檀家,そして一般参拝者の「人」の護持です。この3つの護持の柱は共に支えあい,補い合っていますのでどれが先とかと言った優越性はありません。つまり,その時・その場で優先順位が変わって行きます。

今回,埼玉県秩父市三峰に太古の昔から祭祀が執り行われ,私たちの祖先が心の拠所として大切に御守りして来た古神道系の神社に参拝させて頂き感謝致します。美しい山々に囲まれ,御水にも恵まれ,山の麓で暮らしている人々の生活を支えてくれています。

三峯之神の神恩に感謝申し上げます。

神恩感謝に心音感謝

毎朝毎夕祖霊に感謝

花咲 あさひ 拝


三峯神社の護持を思う。その3

2019年12月17日 21時55分56秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

仕送りが厳しく,深夜のアルバイトも増やしたので記事の更新がなかなか出来ずにおりました。

いらっしゃらないとは思いますが,このブログを読んでくださっている方に申し訳ない気持ちにもなってしまいます。私のような末端の末端で働いている人々の経済状況や生活環境はますます厳しくなっています。郵便局の配達のアルバイトもそうですが,深夜に増やしたアルバイトでも会社から要求される内容はほとんど社員の方々と変わりはありません。

神社や寺院の護持だけで食べて行けれ良いのですが,これだけはどうする事も出来ず,神仏に関わる事を飯の種にする事は御法度ですから仕方がないことです。外で働く肉体労働者にとって一番恐れるのは雨と風です。雨の神さまに風の神さまですね。

平成の大禊に備えましょう。

今の社会は本当に厳しいですね。皆様もどうか生き抜いて下さい。

もうそろそろ次の仕事の準備をしなければならず,続きの記事が書けませんでした。

実際に撮影させて頂いた,美しい国の美しい三峯神社でも見て下さい。拝

上の写真2枚は,鳥居脇に建立されている謎の燈です。

仏教寺院に見るお経などを納める納経塔のように思いましたが違いました。

上の写真は,御社殿から手水舎を撮影した写真です。

上の写真は,随身門です。

以上です。

最後の最後まで生き抜いて下さい。

花咲 あさひ


三峯神社の護持を思う。その2

2019年12月15日 14時39分56秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

先日の三峯神社の護持を思う。その1の続きを書かせて頂きたいと思います。

つい,神社や寺院に参拝に行くと護持の視点で観てしまうもので変なクセになってしまっています(笑)案の定,古神道系の神社でもあるここ三峯神社でも同じように,いろいろと護持について考察しながら参拝させて頂くと,やはり気になる点が幾つかありました。その中でも特に敏感に感じたを書かせて頂きます。あくまでも護持の観点ですから良いとか悪いという事ではありません。

※上の写真は,三峯神社の境内です。

神社寺院の護持をする者として一言,言わせて頂けるなら御神水の授与方法について検討した方が良いと感じました。現在,埼玉県神社庁のホームページでお水取りの出来る神社を検索できますが,そこには,三峯神社もお水取りが出来る神社として公開されています。しかしながら,実際は,今現在,御神水を授与することは出来ますが,御水取りは出来ません。このことに対し,検討した方が良いと言っているのではなく,その理由は,別のところにありました。

それは,何故かと申しますと,現在の御神水は社務所にて予め神社側が用意している専用のペットボトルに入っている御神水を参拝者が購入する方法になっています。これのどこが,検討課題なの?と感じられると思いますが,専用のペットボトルに入っている御神水は当然,停留している御水ですから,時期が経過すれば腐りだしてしまいます。

つまり,停留している御水は御神水ではないのです。流れている若しくは,動いている御水でなければなりません。

これは,浄化の意味もありますが,神棚の御水を毎日交換する意味もここにあります。

したがいまして,専用のペットボトルに御神水を入れて販売するのではなく,京都の貴船神社さん同様に空のペットボトルを販売し,御神水は参拝者自身に流れている御神水を直に汲んで頂くことで良いかと考えます。もし,私が三峯神社さんの護持に奉職していたら,真っ先にこの御神水の授与方法について総代会に議案提出します。

それではなぜ,神社側で空のペットボトルを予め用意するのか?

そのことを次回に書かせて頂きたいと思います。拝


三峯神社の護持を思う。その1

2019年12月14日 08時01分50秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

先日,埼玉県秩父市三峰地域の三峯山に御鎮座される三峯神社へ参拝させて頂きました。

自然豊かな場所で,埼玉県でも大自然に触れる事が出来るのだと少し嬉しく感じることが出来ました。

上の写真は,三峯神社手水舎です。私は,御社殿を撮影できないのでありません。

今日は,この三峯山を御神体とする三峯神社について私が体感したことを2~3日,書かせて頂きたいと思います。

三峯神社の創建は,今から1900年前ごろと云うことですが,私が感じますところはもっともっと古くから祭祀場として存在していたのではないかと想像しています。古神道系の神社であることは間違いないとも思っています。私は,神社や寺院に参拝しても由緒書などを見ることはほとんどありません。それは,自分自身の感覚と云うか直観力と云うか思うままに感じるままにを大切にしているからでもあります。この考えは,神社に御祭りされている御神名においても同様で,御神名はまったく気になりません。

御神名を気にし過ぎることにとても違和感や嫌悪感があります。

ただ,人々が勝手に命名した御神名と云うよりも神々の神気を感じることの方に気を向けています。

こ三峯神社でも社殿脇に立ち入った際に,本当に御祭りされている神さまが解りました。

その御社殿脇と云うのは,社殿を正面にして右側に御祭りされている御宮です。ピリッとした独特の空気感と威厳に満ちた感覚がその周辺に漂っていました。とても厳しい御眷属神が鎮まって居られるようです。あのような感じのする神社では,やはり真剣さが要求されることが多いのが特徴的で,さすがは,山岳信仰の修験道の聖地だと実感した次第です。

不敬な事があれば容赦はしないと云った感じがヒシヒシと伝わってくる古神道系の神社です。とは言っても,参拝させて頂けること,自然に触れ合うことが出来ること,そして何よりも生かされていることへの感謝の気持ちの参拝であれば何ら問題はありません。一方,社殿前では,やはり人々の欲得や欲望の気しか感じることは出来ませんでした。

明日以降,三峯神社で,私が感じた護持について具体的な事柄を書かせて頂きたいと思います。拝


自分の良心「心神」こそ祈りの対象です。3

2019年12月12日 20時34分14秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

それでは,先日から書かせて頂いて来た「自分の良心こそ祈りの対象です。1」と「自分の良心こそ祈りの対象です。2」の続きを書かせて頂きます。私も含めて「良心」と云うと一見,良い悪い,善と悪,悪い心に良い心と思ってしまうところです。

しかし,もっと深く考察して行くとそう言った二面性をだけを捉えたものではないようなのです。

よく,良心に基づいて行動することが大切。良心に照らせば理解できる。などと言われることがありますが,良心とは誰にでも共通したものでなければ良心の違いが生じ,どちらが良心なのか解からなくなってしまいます。

何だか,司法試験の論文の勉強をしているようですが,要は,起きた事象において「良い」か「悪い」かを判断するだけのものではないのではないかと思うのです。良心と云う存在は,もっと,単純(シンプル)且つ素朴にと云うか純粋で在るように感じています。一言で云えば普遍(不変)的な存在という方が,今の私には理解できるようです。つまり,幼子「童子」のような心です。

本来,精神の世界と云うのもは私たちの目には見えない存在です。その目には見えない存在を目に見える対象物に置き換えて闇雲に信じてしまい結果,深みに嵌るケースがただあります。何だか滑稽な話ですが,本当にそうなのです。たとえば,先日も記事で書かせて頂きましたけど,富士山にゴミを捨てる人も初日の出を拝んだり,神社や寺院で祈願や祈祷を受ける訳です。

本当にこれは不思議と云うか思わず笑ってしまうくらいなことだと思うのです。だって,神社も寺院も大自然を崇拝するところから派生したものであるのに,その元の本を汚し何を願っているのか?なのです。どう考えてもやはり私には不思議なことであるのです。しかも,大金を積んで真剣な表情でお願い事をしています。人間の欲と云うものは本当に深くて凄いなと偶に拝見しています。

願いとは,執着心から派生し,執着心とは所有の概念であり,所有の概念とは紛争を産み出すものであると想っています。しかしながら「大切」と云う言葉には,私は不思議と執着心を感じません。自分の所有物はないのだからと云う想いとすべては借りもの預かりものであるという言葉を想像するからであります。この肉体も含め,すべてのものは返さなくてはなりません。

もっと最悪なのは霊能者に頼りきりになり,あとで多額のお金を要求され,家族のお金まで手を出し,一家離散になるケースも現実に存在します。終局的には事件になったりすることもありますが,この手のことを書くといくら書いても切がありません。しかし,ここでもやはり良心に照らして行くしかないのです。私にとっても「良心」この言葉は一生の課題であると想っています。拝


自分の良心「心神」こそ祈りの対象です。2

2019年12月10日 06時17分02秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

早速,昨日の続きを。自分の良心こそ祈りの対象です。1

その昨日の記事後半で,富士山やその周辺に心ない登山者や不法投棄をする輩について書きました。

そして,近年のパワースポットブームによる御神体への入山に対しても書かせて頂きました。今日は,過去記事から一部を抜粋してあるお父さんのことを紹介させて頂きます。そのお父さんは,娘さんが中学の修学旅行で京都と奈良に行った時のお話です。

~一部抜粋~

娘さんが修学旅行から帰宅し,父親のお父さんと修学旅行の思い出しを話している際,お父さんが娘さんに一番思い出に残った場所はどこだった?と聴いたらしいです。すると娘さんは,京都にある伏見稲荷大社が一番印象に残ったとお父さんに話します。

すると,そのお父さんは「きっと,子供たちは普段の生活からの解放感と想いで作りで夢中になり,伏見の神様の神域でワイワイガヤガヤとハシャギ無礼を働いていたに違いない」大変申し訳ないことだから伏見の神様の下へ謝罪しに行こう」と云って後日,伏見稲荷大社へ謝罪の為に参拝し,先ず,拝殿にて「私の子供が修学旅行で,こちらに参拝させて頂いたようです。」「しかし,その際に,ワイワイガヤガヤと騒いでいて神様の神域を穢すようなことがあったのではないかと想い,親の私が謝罪の参拝に参りました。」「子供たちの無礼をお許しください」と無礼があったかもしれないことをお詫びし,一つひとつの御宮にも参拝されていたようです。しかし,後方に位置する稲荷山には入山されなかったようです。鳥居からの遥拝で終えたと話しておりました。それはなぜかと申しますと「初めて参拝させて頂く神社で,最も重要で大切な御神体に入山することはあってはならないこと」であるからと云う理由でした。ここまでするか?と思える行動ですが,お父さんにとっては真剣な事と捉えていた様子でありました。

これはちょっと余談ですが,そのお父さんの謝罪の参拝後,数か月が経過した頃,お父さん方の住む地域で竜巻が発生し,テレビニュースでも大きく取り上げられました。しかし,お父さんたちが暮らす家だけは窓ガラスが1枚割れた程度で無事に済んだようですが,目の前の工場も隣の住宅も後ろの家も大変な災害に遭われたようです。私も実際に,お父さんに竜巻の状況についてお話を伺いましたが,お父さん曰く「自分の家の前で竜巻がジャンプして通り過ぎて行った」と話していて,あんなことが本当にあるんだと不思議そうな顔をされ,近所のみなさんに何だか申し訳ない気持ちになると話していたのが印象的でありました。

~一部抜粋~ 終わり

伏見稲荷大社へ謝罪の参拝をしたから竜巻の災害から救ってもらえたのだと無理やり結び付けたいのではありません。やはり,普段から感謝の気持ちで暮らし,素直に反省できる行為は,とても共感が出来ますし,清々しい気持ちにもさせて下さいます。それと同時に,その純粋で無垢なる気持ちは必ずや自然は受け取ってくれると私は思っています。

これを私は,心神の導きと呼んでいます。

信じるべきは自分自身の良心「心神」であります。

さらに明日に続きます。拝


自分の良心「心神」こそ祈りの対象です。1

2019年12月09日 07時00分00秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

毎日,大祓詞の後に,自作の祝詞「しんのみはしら」祝詞を神棚の神さまへ奏上させて頂いております。

ちょっぴり,照れくさい感じもしますが,祝詞は本来,神さまを讃え,神さまの御心を言葉に変えて素直な気持ちで感謝を以てひとり一人が奏上するものです。特別な御利益など一切求めず,祈願や祈祷に用いることなく素直に気持ちよく奏上することがとても大切です。そのに純粋で無垢なる祝詞は,天津神,国津神の神々さま,そして八百万の神々(精霊)さまに届いています。

そのことは,大祓詞にも書かれていることですが,たとえば祝詞や御経と聞くと何か宗教の勧誘的に感じ,身を構えてしまうところがあると思います。しかし,その想いや感覚はどうしてなのか?どこから来るものなのか?を掘り下げて考える人はあまり見掛けません。逆に,言われた言葉をそのまま受け入れ,すべてを信じ込み祈祷や祈願で日々過ごす人は結構,多いように思います。

私も仕事を通じて,そういった人に会うことがありますので多少は判るつもりであります。

私は,こう言った祈願や祈祷がどうしても理解出来ず,違和感があって出来ないのです。例えば,お金を払って神社やお寺で身体健康のお願い事をする。現代社会においては普通のことかも知れません,誰も疑うことも違和感すら感じないかもしれません。しかし,本当に身体の健康を気遣うのであれば日々の生活態度を改めることがなければいくら祈願や祈祷をしても意味がないのではないでしょうか。自動車祈願も交通安全も同じで,本当に神社で自動車のお祓いを受ければ交通事故に遭遇しないのか?

そんなことは無く,交通安全に一番効果をもたらすには安全運転が一番効果があります。神社やお寺にお金を払って自分の想いや願望を叶える行為は祈りではなく単なる取引です。祈りとは全く違います。この世の中には,自分のものと云うものは一切なく,すべて借りているものであるから大切に扱うことを神さまに祈り,又,使わせて頂けることにただ感謝をするだけ良い訳であります。

私たちの肉体ですら仮の姿で,誰であっても最後には返さなければなりません。

ここで毎度の如く,話が飛びますが・・・。

今,富士山では1つのことがとても深刻な問題として議論されているようです。それは,ゴミ問題です。不法投棄や一部の心ない登山者によるポイ捨てが原因であるようです。しかし,その人たちも初日の出を拝んだり,神社に行ってお願い事をする訳です。何だか不思議な感じがしませんか?自然を穢して神社で何をお願いするのか?神社でゴミを捨てる人はそんなにいませんが,富士山にゴミを捨てることが何故できるのか?山を汚せば,水が汚れて行きます。水が汚れると私たちの人体に悪い方へ影響が出来て来ます。

明日もまた続きを書きたいと思います。拝

過去記事でも少し書きましたが一部抜粋して。

※これは余計な事だとお叱りを受けるかもしれませんが,とても重要な事柄だと感じますので少し書かせて頂きます。近年,パワースポットやスピリチュアルなどの影響もあって,御神体(山)に入山(登る)される方がとても多いです。しかしながら,太古の昔から山は神そのものとして崇められ,畏れられ,立ち入ることの出来ないものでした。山を遥拝することが精一杯で入山するというのは山を管理している人と祈りを捧げることができる祭祀者だけでした。そうして出来たのが山の麓に建立された神社です。

つまり,私たちの祖先が,後世の子孫が山に入らずにでも祈りを捧げる事が出来るようにと神社群を建てたのです。

奈良県の桜井市と云う地域には,三輪山を御神体とする大神神社が御座います。

大神神社には御本殿がありません。三輪山を遥拝する拝殿しかないのです。日本最古の神社としても有名で,古神道系の神社です。

したがいまして,どうしても富士山や太古から信仰の対象とされて来た山(御神体)に入山する場合には,山そのものを敬い,感謝して入山されることがとても重要であり大切であります。それをせずに不幸になってしまう人が近年,多数いるようです。これは現実的な話です。決して,ピクニック気分で登る山ではありません。たとえ,神社が許可しても私はお進めしません。

御神体に入山すれば「運が開ける」「人生が好転する」「幸せになれる」などは全くの偽りであり違います。御神体などの山は入山するのではなく,遥拝するのが本来の本当の信仰です。繰り返しになりますが,御神体に入山できるのは現代では「神社関係者」と「清掃者」だけであります。不幸になって頂きたくないので本当の事を遠慮せずにどんどん私は書きます。神社関係者の方も御神体を開放するのであれば,襷だけ手渡すだけでは足りません。小さなゴミ袋を持参させるべきです。何も知らない,ただ興味本位で且つ,自分の願望を叶える目的の為だけに入山する人のことを真剣に考えるべきであると私は考えます。

花咲 あさひ 拝


神道と日本国憲法 すり替えられた第13条。

2019年12月08日 06時54分09秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

私たちの暮らすこの国は,御存じのとおり法治国家であります。

法治国家とは,文字通り,特定の「人」(例えば王様)が力で治める国ではなくて法律が治める国であります。このような話になると憲法が国民を縛るものであると誤解される人がおりますが,憲法の役割は,われわれ国民を縛るものではなく,我々が権力を行使する側である権力者を縛るために存在するものです。これを立憲主義と云います。

そのことは明確に,憲法の条文にも明記されております。(参考までに:99条に云う憲法尊重擁護義務)

そして,この憲法こそが,我が国の最高位に位置する法となります。

私は,この憲法を勉強すればするほど,日本国憲法の根底に流れる考えは神道に通じるものがあると思えてなりません。もっと言えば,宗教全体の根幹に触れるものではないかと思います。よく政治家や憲法学者,法律家の皆さんが憲法や法律を論じると政教分離の原則を引き合いにすることがありますが,元々,憲法も法律も宗教的な概念から出発しているものです。

又,民法や刑法などの個別の法律の原形はフランスやドイツではなく,もっと宗教的な「モーセの十戒律」から来ていきます。それが拡大し,拡張して行く中で規制が増えて行ったと云えると思います。ちなみに,憲法はイギリスの貴族が自分たちの特権を守る(保持)ために国王を縛る目的で制定されたものです。(イギリスの憲法は不文法です)

左翼思想と云われる方が,神道と戦争を結びつけたり,天皇と戦争を関連付けたりしますが,例えば,神道の長い歴史をもっと勉強して頂きたいと思います。神道の考え方に「紛争」「戦争」「訴訟」といった争う考えはありません。

先の大戦(大東亜戦争)では,軍の一部が暴走し,天皇陛下を利用した側面はあると私個人も考えますが,神道そのものが,戦争を誘発するようなことは決して,過去の神道の歴史をみてもありません。これは,国家神道の短い期間に起きた天皇陛下を利用した一部の限定的なお話であると私は考えます。(ちなみに現代は,神社神道です

神道に大祓詞と云う祝詞があります。この大祓詞の一部に「神集へに集へ賜ひ 神議りに議り賜ひて」という言葉があります。この言葉の意味が何を指すのか?もちろん神社の神職さんであれば勉強されていると思います。これは,神様の世界は武力などの力によって統制するのではなく,何度も何度も話し合い,互いを尊重する様子,国の統治のあり方を言葉として示したのではないかと思います。つまり,民主主義の元が大祓詞と云う祝詞に記載されているということだと考えます。

相手に対し,自分の考えを伝える方法に「言葉」があります。言葉によって,相手に自分の考えを伝えるわけですから,どのような言葉を使えば,相手に自分の考えが伝わるかを勉強することはとても重要なことではないでしょうか。理屈ではなく,真理を言葉で伝えるには心柱がなければ伝わらないと感じています。

立憲主義と民主主義は全く別物ですが,この辺りのことは機会があれば記事にしたいと思います。

安部総理をはじめ,与党の政治家の皆さんにも是非とも大祓詞をもっと勉強してもらいたいと思います。

日の丸は戦う民族の象徴ではなくて,我が国は,言霊の国であるという祈りの民族の証です。

なぜ,聖徳太子が第1条に,和を以て,貴しと為す。を組み入れたのか?・・・。

つつがなきや。


日本人を弱体化させたのは相続と偏差値です。

2019年12月07日 07時25分07秒 | 感謝の心柱

こんにちは。

理屈を理解するとはどういったことなのかと申しますと,それは仕組み(ロジック)を理解することであると私は考えております。さらに,この理屈と云う仕組みを自分のものにしてしまい,呑み込んでしまえば最強ではないかと思っています。つまり,理屈を嫌い,遠ざけている間は既に理屈に負け,理屈に支配されたままになってしまうと云う訳です。又,日本人はとにかく理屈が苦手です。太古から世界でも稀な道徳的民族ですから理屈に対する答弁を持ち合せていないのが特徴的な民族集団でもあったのです。

これを見事に見抜いていた人が戦後の日本を統治する目的で日本にやって来た連合国最高司令官であったGHQダグラス・マッカーサーです。マッカーサーは,日本人をよく研究し,同時に日本人の脅威さもよく理解できていたはずです。その理解できていたと思われる発言に「日本人の能力は小学生6年生くらいだ」と言葉にしています。このブログの左帯の一番上に検索ツールが設けております「理屈」と入力すると関連する過去の記事が出てきますので是非,検索してみて下さい。例えばこのような記事「いま必要なのは悪魔の力を兼ね備えたデビルマン」です。そして,日本人の脅威さを払拭するために徹底的な政策を打ち出して行きます。

そのマッカーサーだけではなく,連合国が考えていた日本の脅威とは何なのか?そして,日本を弱体化させるために何をしなければならないのか?それを研究し尽くした結果,あることに行き着いてのではないかと私は想像しています。それは,日本古来から続く祀り事(祭事)から日本国民を遠ざけることと偏差値教育を徹底的に取り入れることです。そして,貴族や華族に多額の納税を強制し断絶させ,新たな中流階級層を作り上げ,金と女とギャンブルに狂わせることに成功しました。見事に日本人はこの戦略に嵌って行きました。盲目して行くことになってしまったのです。つまり,理屈を善だと勘違いしてしまい,理屈は絶対で正しいと考えるようになり,今では疑うことすらもありません。俗にいう頭の良い人を作り上げたのです。このひとつの虚しき現象は,今の社会でも多くの人に信じ込まれていています。そして最後の政策が食文化を激変させることです。もう子供たちの生態系が変化しています。

その結果,五穀豊穣に感謝することを日本人自らが放棄したのです。多くの日本人が新嘗祭を知りません。

これはこの国,日本にとって不幸な事でもあり,太古の昔から世界に類のない道徳的民族であった日本人が外国人になってしまったと言っても言い過ぎはありません。そのことに気が付いている政治家が何人いるのでしょうか。私はほとんどいないと感じておりますが,たとえそのことを政治家が理解できたとしても理屈が支配する世の中では少数となってしまい政治の世界でも活躍することが出来なくなってしまっているのではないかと考えてもいます。さらに,その原因は正しく理屈を使いこなすことが出来ずにただ毛嫌いしているだけのものではないかと私は思っています。これでは完全に負けます。負け続けてしまいます。

このまま行けば最後には,日本人として生まれたはずの日本人が,心まで理屈に支配され外国人となり理屈と云う仕組みに操られてこの国を統治して行くのです。私たちの遺伝子(DNA)には,理屈と云うものはありません。理屈は人を人間を支配する道具です。つまり,説得するために用いられる道具です。その一部の人が生み出した道具に私たち日本人が騙され,操られ,呪縛され続けていては日本人は滅びます。その前に,今一度,私たち日本人がそのことに気が付かなければなりません。世界の国は,日本を日本人をじっと見つめています。外国に行けば解りますが,日本人は世界に類のない特殊な民族であるのです。世界の国の人たちが,日本人のようになりたい,どうすれば日本のような国になれるのか研究もしています。いくら研究しても理屈で支配されている研究では理解できるはずがないのであります。それもそのはずです。日本人の根底には道徳があるからです。つまり,感謝の心柱です。

この国を弱くした最大の原因は「相続」と「偏差値教育」です。騙され続けては絶対にいけません。拝


誓約と契約 古神道的発想

2019年12月05日 07時37分30秒 | 感謝の心柱

こんにちは。

リスクマネジメントを追求していくと,その先には和の仕組みがありました。そして,さらに和の仕組みを追い求めて行くと日本古来の古神道に行き着くのであります。日本人は再び,日本人であることの誇りも自信も自覚も取り戻さなくてはなりません。右翼だ左翼だのそんな次元の話ではなく,又,好きだ嫌いだの勝手なことでもありません。暗く冷たいと云う日本人は本当の日本人ではありません。日本人は,明るく温かいと云うのが本来の太陽の子でもある日本人であるはずです。太陽神の分魂を宿しているのです。

先日の記事で,六法の中に民法と云う法律があって,その民法典の中に契約と云う分野があると書かせて戴きました。さらに,契約と約束の違いは何かと云うところで終わりましたが,先ず,後者の方の契約と約束の違いは,法的拘束力と云う効果をもたらすか否かを当事者同士で予め予定しておくことであります。契約は当然,法的拘束力が伴います。しかしながら,約束と云うものは法的拘束が伴わないものを指すのであります。したがいまして,契約も約束も当事者の意思によってもたらす効果が違ってくるのです。

勘違いしている弁護士と議論していると契約書は自分を守る大切な手段だ!などと真剣な顔で話しているのを見るとなんだか可笑しくなってしまう時があります。なぜならば,契約と云うのは性悪説に立脚して締結するものではありません。それでは相手をはじめから疑っている証になってしまうからです。契約書を締結する本当の意味は相手に損失を与えないようにするために予め目に見えるカタチで書き記すことに在るのであります。自分を守ることを最優先した思いやりのない契約を本当にしたいと思いますか?

何年か前に,お寺の住職さんに契約書の作成を頼まれて作成した時がありました。その契約書は,お寺の工事に伴う工事請負契約書でした。契約書を作成する上で必要なカンファレンス「会議・検討・協議」を何十回と行い,契約内容を作り上げて行きます。そしてようやく契約書を作り上げる時に,住職さんから「あさひちゃん。契約書はこちらの有利に作ってね」と言われたことがありました。きっと,住職さんも私が双方対等な契約書を作って来ることを予見していたのだと思います。わたしも当然,どちらかに偏った契約書など作る気はありませんでした。わたしもハイハイと軽く受け流して住職さんには解からないように契約当事者双方が対等な立場で目的が達成できる契約書を作成しました。自分のことだけ考え,有利に機能するような契約書は契約書ではありません。

この世の仕事とは,どんな仕事であっても祭事なのであります。

大切な契約書を締結する場合の大事なポイントは,契約書に書かれている言葉の羅列そのものではありません。そんなことよりもどういった経緯で契約締結までに至ったのかを示せる方が大事なのであります。経営者の方であれば,たくさん契約書を作成すると思います。しかしながら,契約書は保管していても契約を締結するまでの経緯書面を契約書に添付してある経営者はほとんどいません。大切なのは,契約書ではなく契約に至るまでの経緯です。契約書が完成されるまで,どういった話し合いがされて来たのかの方が重要な事なのです。紛争や訴訟などになるような契約書を見るとだいたいどちらかに偏った身勝手な契約書が多いのが特徴です。

したがいまして,海を渡った和の仕組みが外国でリスクマネジメントとして変化して,再び日本に戻って来ました。リスクマネジメントと呼ぼうが和の仕組みと呼ぼうが,その根本となる精神は自分に主眼を置いたものではなく,すべての出発点「土台」は相手のことを思いやることから考えられたものなのであります。どんなに人間が進化を遂げようが普遍的なことは存在するのであります。相手の立場を思いやることも相手の立場を考えながら人との付き合いをして行くことも人が生きて行く上でとても大切なことであるはずです。そう言った大切な事を忘れて行く先には,やはり,豊かで幸せな生活は予定されていないのではないでしょうか。

洋服を着ていても心の中は「和」でいたいものです。拝


太陽神と日本人。心神の岩戸隠れ

2019年12月03日 16時40分01秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

先日の記事,古神道の秘儀「自励拝」に続きまして,今日も縄文時代以前から続く古神道の秘儀(ちょっと大袈裟ですが)を書かせて戴きます。これは結構,多くの方が健康や体内循環を良くする目的で実行されていることだろうと思います。それは早朝の太陽拝「日拝」と云うものです。私も毎日,早朝の7時から8時の太陽神の名「アマテラスオホミカミ」を10回唱えて祈りを奉げております。この日拝は,古神道家でなくても提唱されている方々もたくさんおりますし,医師などの医療関係者も実際に薦められることがあるようです。日拝を現代語に訳すと日光浴とでも言うのでしょうか?日光浴は,気持ちが良くて健康に良い。これは正解です。

古神道と云うのは,大自然と直接,自分自身が繋がり,自分自身の心の中の心神「しんしん」に言ってみれば気を向ける・意識することでありますから奇異的なものではありません。私は,奇異的なことが嫌いなので,自分でもすることはありませんし,決して人に薦めるようなこともしません。ただ目の前にある大自然「神さま」と自然「精霊」と直接,自分自身が繋がることだけなのです。

その理由もいたって簡単で,自分の心の中に神さまの分魂「心神」を宿しているからです。しかし,真に残念なことに,神さまの分魂「心神」が岩戸に隠れたままになっている人々も多いのです。自分を傷つけ,相手も傷つけ,されに自然を穢すことを繰り返して行く内に,心神は心の奥深くに御隠れになられます。逆に,岩戸開きをしている方は,まるで後光が射しているような感じが実際にします。よく,あの人はオーラがあるとか眩しい人だとか言ったりもします。外観的なものではなく内面的に光り出すのです。

こう云った人間の心を物語にした有名なお話が御座います。それが,私たちの国に伝わる日本神話であります。日本神話の中に,天岩屋戸と云う物語が御座います。天岩戸や天岩屋とも云われることもありますが,実は,この日本神話に登場する物語の大半は自然と人間が共生することの大切さを教えていたり,又,人の心の中の様子を物語としていることが多いのです。その物語の中でも,特にこの天岩戸と云う物語ほど人の心の様子を見事に物語として伝えたと感じています。太陽神「天照太御神」が岩戸(洞窟)に御隠れになってしまったことで暗黒の世界へと変わってしまうと云う御話です。神社の祭り事や日本のお祭りの起源でもあります。

祭り事だけではなく,民主主義も家族会議の起源でもあります。何か問題が起きた場合,皆で話し合い,互いに知恵を出し合い,皆で協力し合って問題を解決して行くことの大切さを日本の神話は教えてくれています。それはまるで,わたしたち国民一人ひとりに困難に直面した時の対処法を教えてくれているかのようです。日本神話と聞くと無理やり天皇家と結び付けたり,戦いの物語の方向に話を持って行きたがる人もおりますが全く違います。互いに支え,助け合い,足りないところを補い続け,共に手を取り,手を握り,互いの違いを認め合い,互いの違いを尊重し合うのが大和の魂を宿した真の日本人であり,日本人としての誇りなのです。

毎朝の日拝は,心の岩戸開きの意味があります。

 ※ 目の保護の意味で,太陽を直視しないように致しましょう。

大和の国で暮らす 和の住人でした。拝


明日は我が身か? 山を下りた観世音菩薩

2019年12月02日 08時54分36秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

何度かタイトルを変えて再掲載させて頂いています。最初の投稿から3年になります。

今日は,とても厳しい社会の現実的なお話を書かせて戴きたいと思います。

これは,決して他人事ではなく,国家として取り組んで行かなくてはならない重要な課題でもあると想っています。決して自己責任論だけで終わらせて良い問題ではありません。明日は我が身であります。政治家や公務員には是非とも何度も読み返して頂きたいと思います。わたし達の国家には,やらなければならないことが山積しているのです。政治家ひとり一人には,その現実を直視して政務活動をして戴きたいです。もう待ったなしのところまで来ていると云うのに・・・。厚生労働省によると要介護(要支援)認定者数は620万人と推計されているのです。この現実を日本人は少子化の中で乗り越えて行かなければならないのであります。

こちらも見て下さい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E6%AE%BA%E4%BA%BA

本当に自己責任論と云う抽象的な言葉だけで良いのでしょうか?

下記記載の引用元は「デイリー新潮」2016年11月16日掲載分(全文)からです。

https://www.dailyshincho.jp/article/2016/11161130/?all=1

地裁が泣いた介護殺人 10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末

2006年2月1日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。

一家は両親と息子の3人家族だった。1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。症状は徐々に進み、10年後には週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。長男はどうにか続けていた仕事も休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが「休職」を理由に認められなかった。

母親の症状がさらに進み、止む無く退職。再度の生活保護の相談も失業保険を理由に受け入れられなかった。

母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、カードローンを利用してもアパートの家賃などが払えなくなった。

長男は母親との心中を考えるようになる。

そして2006年真冬のその日、手元のわずかな小銭を使ってコンビニでいつものパンとジュースを購入。

母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。

やがて死に場所を探して河川敷へと向かった。

「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。

そして「一緒やで。お前と一緒や」と言うと、傍ですすり泣く息子にさらに続けて語った。

「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。

その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。

自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、巻きつけたロープがほどけてしまったところで意識を失った。それから約2時間後の午前2時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。

 京都地裁は2006年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡した。

裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べた。

殺害時の2人のやりとりや「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、目を赤くした裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

判決を言い渡した後、裁判官は「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と長男に同情した。そして「お母さんのためにも、幸せに生きていくように努力してください」との言葉には、長男が「ありがとうございます」と応え、涙をぬぐった。

この事件が一地方ニュースに留まらず、ネットなども通じて「地裁が泣いた悲しい事件」として日本中に知られることになる。

親子の境遇や長男に同情する声や温情判決に賛同する声などが広がった。

それから約10年後の2015年。毎日新聞大阪社会部の記者が、介護殺人に関するシリーズ記事の一環としてこの長男への取材を試みた。しかし弁護にあたった弁護士も行方を知らず、数少ない親族を探し出して訪ねると、彼はすでに亡き人になっていた。

事件の後の足跡について親族は口が重く、なぜ亡くなったのかも不明のまま。行き詰った末に探し当てた長男の知人という人に彼の死を告げると、絶句して、判決後に長男が落ち着いた先の住所を告げた。

やがて判明した死因は自殺だった。

琵琶湖大橋から身を投げたという。所持金は数百円。「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった。地獄を味わった彼の言葉やその後の人生が、在宅介護に限界を感じ、絶望している人への何らかの助けになるのではないか。そう考えて必死に動いた記者を待っていた、悲しすぎる結末だった。

厚労省によると、要介護(要支援)認定者数は620万人。要介護者を抱える家族が増える一方、後を絶たない介護苦による悲しい殺人事件。なぜ悲劇は繰り返されるのか。どうすれば食い止めることができるのだろうか……。

引用記載「全文」は,以上です。

自己責任と云う言葉に分霊は宿りません。

古神道の言霊に自己責任と云う言葉はありません。

祝語である日本語でもありません。

 

宗教家のみなさん,魂が奮えませんか?

神仏に仕えると決めた日を忘れてしまいましたか?

観世音菩薩は,裸足で飛び出し山を下りました。

 

花咲 あさひ 拝