花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

観世音菩薩

2021年08月04日 19時22分34秒 | 勇気の心柱

だいぶ前に書いた,過去記事です。

こんにちは。

先日,動画サイトにて宗教団体なのか宗教サークルなのか解りませんが「観音様に呼ばれる人」と云うことをテーマにした勉強会のような動画サイトがありました。動画でしたが映像はなく音声のみでしたが,私の思い考えることと相違があるなと云う意味で興味深いものでした。

観音様はどんな存在ですか?と聞かれると,多くの人が困っている人を救ってくれる存在であり,願い事を叶えてくれる存在とお答えになると思います。

確かに,仏教寺院の僧侶もその様に観音様の存在を伝えていますし,観音経と云う経典の一部にもその様に書かれております。今日は,私たちにとても身近な観音様の存在を少し書かせて頂きたいと思います。

まず観音様と云っても観音様には○○観音と云うようにたくさんの観音様がいらっしゃいます。たとえば,仏教の六道思想に観るように天界を担当する如意輪観音,人間界を担当する准胝観音,修羅道を担当する十一面観音,畜生道を担当する馬頭観音,餓鬼道を担当する千手観音,そして,地獄道を担当する聖観音を六観音と申します。その六観音の内,今日は,地獄の世界で人々を救済される聖観世音菩薩についてです。私たちが一般的に呼ぶ観音さまとは,この聖観世音菩薩を観音様と呼んでいます。仏教の経典の般若心経や観音経で唱える観音様も聖観世音菩薩です。

つまり,仏教界のスーパーヒーローと云ったところでしょうか。

観音様は,困っている人や弱い立場にある人を救済することを唯一の任務とされております。つまり,困っている人や弱い立場にある人を救済できるだけ強いとも言い換えることが出来ます。さらに,地獄の淵まで降りて行くことが出来る存在です。したがいまして,本当の観音様と云うのは,観音様自ら地獄まで降りて行って困っている人や弱い立場にある人の元へ行き救済するのです。

決して高い場所から声を掛けて叫び続けることではありません。

まさに,着の身着のまま裸足で飛び出して行くのが,私たちが祈りを捧げる観世音菩薩の真の御姿です。いろいろと諸説ありますが,私個人的には,聖観世音菩薩は,神界のスーパーヒーローが人々を救済する際に用いる御姿だと思っています。蒼き神の素戔嗚大神様で御座います。

黄泉の国を統治する神は,素戔嗚大神様です。

その動画サイトで話されていた内容は「普通の人は観音様のところで厄を落としに行くんだ」しかしながら「私たちは役を貰いに行くんだ」と云う内容でした。つまり,自分たちが観世音菩薩のように菩薩行をする人になるのだと云う趣旨の話でした。ここまでの話は,私たちもいろいろなところでよく聞く話です。新興宗教でも何かと多く引き合いに出されるのが観音様です。

しかし,私が思い感じたことは,何故,そこで話を止めるのか?その奥の話をされないのか?が疑問でした。なぜならば,ここまでの話を聴いて実際に人の厄を貰い,人の役に立てると信じて菩薩行を実践しても実感が感じられないどころかこの世では厳しい立場つまり,環境に立たされることが多いのです。

その主な理由は2つあります。

1つ目は,

物質世界に人の価値観を見出すことではなく,生き方や道徳,精神世界に真の価値を見出すからです。

2つ目は,

私たちは常に見返りを期待してしまう様になってしまっているからです。

先にも申したように,観音様は困っている人や立場の弱い人を救う尊い存在です。しかし,ここだけに着目してもその先にある本当の姿を観ることは出来ません。たとえば,細かい日常的な事柄ですが,自分から人に挨拶をして,相手から挨拶がなければ嫌な気持ちになります。何か人に良い事をして,相手から何も感謝もされない。ありがとうも言ってもらえないと寂しい気持ちになります。中には,人に良くしてもらったら感謝するのは当たり前だ。こんなに自分はしてあげてるのにと怒り出す人も居るかも知れません。

それは何故か?です。日常生活によく在りがちな話でもあります。

どうして,私たちは,その様に感じてしまうのでしょうか。もし,その様な不平や不満を抱くのであれば,それは菩薩行とはかけ離れたものです。

その様な気持ちはやがて,人を恨み心を穢すことになってしまいます。

菩薩行には,感謝されること。ありがとうと言ってもらえることは,はじめから予定されていないことです。つまり,一方的な行為が観音様の菩薩行ですから,相手に感謝されるとか有難うと云ってもらうとか言う話にはならないのであります。物質的な見返りがないのが菩薩行であると考えていた方が,逆に,何ら見返りを期待せず,執着することなく済みます。

花咲あさひ 拝


カルロス・ゴーンさんの胸の内

2020年01月13日 11時34分19秒 | 勇気の心柱

追記

10年ほど前から取り組んでいる神社・寺院ですぐに出来る公益活動「買い物弱者版」です。

他にも様々な計画立案書などがあります。

氏子さんや檀家さんが困っています。総代会や世話人会に議案提出されてみてください。

詳細な資料等が必要な場合,メールにてご連絡下さい。

花咲 あさひ 拝

 

んにちは。

このお正月に多少の時間があったので,今話題沸騰中のカルロス・ゴーンさんについて考えておりました。

いろいろな人達が,今回の逃亡劇?についてSNS等で発信していて興味深く読んでいました。その中で,ある著名人の方のフェイスブックを読んでいて,私もその方のコメント欄に「ゴーンさんの胸の内」と云うタイトルで,私なりに今のゴーンさんの気持ちを投稿させて戴きました。そうしたら,わたしのコメントがその方のフェイスブック上でシェア(アップ)されていました。

他にも法律のことや宗教のこと,いろいろ私が書いたコメントがフェイスブック上でシェアされていましたが,そのうち,カルロス・ゴーンさんについて投稿したときの内容をこのブログで記事にしたいと思います。皆さまは,カルロス・ゴーンさんの逃亡劇?をどう感じておりますか?又,日本の司法に対するイメージは如何ですか?さらに,政治家の関与はあったのでしょうか?

以下が,そのコメント欄に投稿した内容のものです。

ゴーンさんの胸の内 投稿:1月9日

人間の基本的人権とは,国家権力によって与えられるものではない。生まれながらにして有するものであり,天によって与えられるものだ。これを天賦人権と言い,先進国における基本的人権に対する根本だ。日本の国家権力者たちは,まだそのことを知らない。

私は,潰れる寸前の日産を救済した。その対価として正当な報酬を手にした。その何が悪い。

私が,問題にしているのは,日産再建から逮捕されるまでのことではない。私の身柄が拘束され,人間として当然,尊重されなければならない基本的人権が国家権力と日産の一部の人間の力によって侵害されたことに対して問題を提起している。

精神を破壊するまでの刑事司法のシステム,政治家による不当な関与,そして日産からの掌を返す裏切りだ。つまり,日本の刑事司法のシステムは,人の犯した罪に対し罰を与えるのではなく,人に対して罰を与えているのだ。しかも,無罪な人に対してもだ。

どこの国にでも冤罪や不当逮捕はありえる。会社内での裏切りも当然にある。その不正に対し,また,過ちを問題にし,そこから逃げたのではない。それは,日本の刑法学者も支持するところだ。逮捕が不当である。過ちであると言う点だ。

しかし,基本的人権は全く別な問題だ。保釈条件に,妻との接近が禁止されるのであれば,すでに刑が確定し,刑務所で服役している受刑者も私と同様に妻との面会や接近が出来ないはずだが許されている。しかし,日本の権力者は,証拠隠滅の恐れがあるとしている。

人としての尊厳を蹂躙する集団とは相手が誰であろうと私は,断固戦い続ける。

正義は私にある。
私は負けない。

以上

賛否両論あることは,私もよく理解しています。又,本当の真実は誰も知らないと言う事もよく解った上で,投稿いたしました。私が,ゴーンさんの胸の内と云うタイトルで,投稿させて頂いた理由は,話の論点がずれていると言う印象を持ったからです。ゴーンさんが主張している事とSNSや報道されている内容とを比較するとあまりにもかけ離れているなと言う印象が率直な思いです。


衆生を救済する為,裸足て飛び出した観音さま。

2019年10月28日 05時48分30秒 | 勇気の心柱

 

こんにちは。先日,動画サイトにて宗教団体なのか宗教サークルなのか解りませんが「観音様に呼ばれる人」と云うことをテーマにした勉強会のような動画サイトがありました。動画でしたが映像はなく音声のみでしたが,私の思い考えることと相違があるなと云う意味で興味深いものでした。観音様はどんな存在ですか?と聞かれると,多くの人が困っている人を救ってくれる存在であり,願い事を叶えてくれる存在とお答えになると思います。確かに,仏教寺院の僧侶もその様に観音様の存在を伝えていますし,観音経と云う経典の一部にもその様に書かれております。今日は,私たちにとても身近な観音様の存在を少し書かせて頂きたいと思います。

まず観音様と云っても観音様には○○観音と云うようにたくさんの観音様がいらっしゃいます。たとえば,仏教の六道思想に観るように天界を担当する如意輪観音,人間界を担当する准胝観音,修羅道を担当する十一面観音,畜生道を担当する馬頭観音,餓鬼道を担当する千手観音,そして,地獄道を担当する聖観音を六観音と申します。その六観音の内,今日は,地獄の世界で人々を救済される聖観世音菩薩についてです。私たちが一般的に呼ぶ観音さまとは,この聖観世音菩薩を観音様と呼んでいます。仏教の経典の般若心経や観音経で唱える観音様も聖観世音菩薩です。つまり,仏教界のスーパーヒーローと云ったところでしょうか。

観音様は,困っている人や弱い立場にある人を救済することを唯一の任務とされております。つまり,困っている人や弱い立場にある人を救済できるだけ強いとも言い換えることが出来ます。さらに,地獄の淵まで降りて行くことが出来る存在です。したがいまして,本当の観音様と云うのは,観音様自ら地獄まで降りて行って困っている人や弱い立場にある人の元へ行き救済するのです。決して高い場所から声を掛けて叫び続けることではありません。まさに,着の身着のまま裸足で飛び出して行くのが,私たちが祈りを捧げる観世音菩薩の真の御姿です。いろいろと諸説ありますが,私個人的には,聖観世音菩薩は,神界のスーパーヒーローが人々を救済する際に用いる御姿だと思っています。蒼き神の素戔嗚大神様で御座います。黄泉の国を統治する神は,素戔嗚大神様です。

その動画サイトで話されていた内容は「普通の人は観音様のところで厄を落としに行くんだ」しかしながら「私たちは役を貰いに行くんだ」と云う内容でした。つまり,自分たちが観世音菩薩のように菩薩行をする人になるのだと云う趣旨の話でした。ここまでの話は,私たちもいろいろなところでよく聞く話です。新興宗教でも何かと多く引き合いに出されるのが観音様です。しかし,私が思い感じたことは,何故,そこで話を止めるのか?その奥の話をされないのか?が疑問でした。なぜならば,ここまでの話を聴いて実際に人の厄を貰い,人の役に立てると信じて菩薩行を実践しても実感が感じられないどころかこの世では厳しい立場つまり,環境に立たされることが多いのです。その主な理由は2つあります。1つ目は,物質世界に人の価値観を見出すことではなく,生き方や道徳,精神世界に真の価値を見出すからです。2つ目は,私たちは常に見返りを期待してしまう様になってしまっているからです。

先にも申したように,観音様は困っている人や立場の弱い人を救う尊い存在です。しかし,ここだけに着目してもその先にある本当の姿を観ることは出来ません。たとえば,細かい日常的な事柄ですが,自分から人に挨拶をして,相手から挨拶がなければ嫌な気持ちになります。何か人に良い事をして,相手から何も感謝もされない。ありがとうも言ってもらえないと寂しい気持ちになります。中には,人に良くしてもらったら感謝するのは当たり前だ。こんなに自分はしてあげてるのにと怒り出す人も居るかも知れません。

それは何故か?です。日常生活によく在りがちな話でもあります。どうして,私たちは,その様に感じてしまうのでしょうか。もし,その様な不平や不満を抱くのであれば,それは菩薩行とはかけ離れたものです。その様な気持ちはやがて,人を恨み心を穢すことになってしまいます。菩薩行には,感謝されること。ありがとうと言ってもらえることは,はじめから予定されていないことです。つまり,一方的な行為が観音様の菩薩行ですから,相手に感謝されるとか有難うと云ってもらうとか言う話にはならないのであります。物質的な見返りがないのが菩薩行であると考えていた方が,逆に,何ら見返りを期待せず,執着することなく済みます。


あの日。志摩で誓った想い,今も忘れず。

2019年10月25日 04時44分30秒 | 勇気の心柱

こんにちは。

以下の記事は,4月26日に掲載した過去記事です。

ちょうど,8年くらい前に,神社の氏子さんや崇敬者さんとお寺の檀家さんを対象に孤独死や孤立死,幼児虐待を何とか防止出来ないかの起案(立案)していた時期がありました。8年を経過した現在も立案作業は進めていますが,もしかすると応用として昨日の記事のような事柄でも効果が期待できるのではないかと想い,そのことを今日は書かせて戴きたいと思います。日本人であれば,政治家であろうと政策の立案を担当する官僚であろうと公務員であろうと又,私たち国民であろうと社会のさまざまな問題点を何とかしたいと考えていることがあると思います。これは,理屈ではなく心情として誰でも理解できるのではないでしょうか?

しかしながら,一昨日も記事に書かせて戴いたように人それぞれが置かれている様々な現在の状況と真実「真理」と事実「現実」を踏まえて考えて見ると様々な問題を各人がそれぞれ承知で来ていても具体的に何か手段や方法を用いて出来るかと云うとなかなか難しいのが事実つまり,現実ではないでしょうか?あったらいいな。やれたらいいな。それは誰でも心中では同じであると私は考えております。よく,宗教家の方々と議論や協議をしているとやはり同じように「このままでは神社やお寺はなくなってしまう」と言われることがあります。私もその気持ちは理解できる面もあることは確かです。ただそう言った危機感を感じているのであれば,先ずは,宗教家自身が自分から自ら手を挙げ率先して行動に移さなければなにも変わらないのではないかといつも感じております。

危機に直面したら神仏に願いを掛ける。神仏に手を合わせればこの世の幸せをたくさん享受できる。祈れば大丈夫。おそらく,多くの宗教家がこのように考えていると思います。そう言った意味においては,宗教家だけではなく,わたしたち一般の人々も同じかも知れません。神仏に祈れば,神仏が助けてくれる。だから日本全国のパワースポットと呼ばれる場所に出掛けに行く。そこが,祭祀場であろうが,御神体であろうが,鎮守の森であろうが,磐座であろうが何ら躊躇することもなく集団で御神業だと言っては神域に入って行く。実際に,私もこれまで宗教家の方々に神仏に祈れば神仏の加護が得られるのだと聞かされることが多々あります。

これまでもブログの記事を通して,神さまから授かったリスクマネジメントと云う最強の手段と手法を書かせて戴いて参りました。わたし個人的には,この縄文時代から続くリスクマネジメントに勝る論法もないと考えています。そもそもリスクマネジメントと云う手法は,西洋諸国の考え方と思われている方も多いのですが,実はリスクマネジメントは日本が本家本元なのです。既に,縄文時代には高度なリスクマネジメントが確立していました。カタカナ文字にカタカナ言葉に日本人は弱いですから,きっと,リスクマネジメントは西洋の考え方であると据えられてしまったのだと思います。それでは,リスクマネジメントを一言で云うと何かと申しますとそれは「和の仕組」です。この和の仕組みを創り上げる事が出来る方法と手段はリスクマネジメント以外にはありません。

どれくらいのことが出来るのかは解かりませんが,神さまから授かったリスクマネジメントを駆使して,神社やお寺の護持を通じ,既計画案に応用させて見て行きたいと思います。リスクマネジメントは,どんな事にでも応用が利くところに凄さを感じてしまいます。少し,リスクマネジメントの基礎基本を書かせて戴きます。リスクマネジメントの起案作業における骨子は3つだけです。先ず,リスクマネジメントの基礎基本は①何の為にするのか?「目的と趣旨」が大前提となります。②次に,誰が何をするのか?「手段と役割」が小前提となります。③そして最後に,その事で誰が又は何がどうなるのか?「結果や効果」が結論になります。要は,大前提に小前提を当てはめて結論を導きだすのです。誰にでも簡単に出来ますので,身近なことに当てはめて見て下さい。

理想と現実の狭間にて 志摩で誓った想い忘れず。

い(伊)さ(雑)のはじまり(宮)ありがとう(感謝)

花咲あさひ 拝


神様からの宿題と生きるための自由研究

2019年10月20日 04時28分06秒 | 勇気の心柱

 

令和元年十月二十二日 外在性神仏論から内在性神仏論への始まり。

いさのはじまりありがとう 

こんにちは。人はそれぞれ違った考えや思いを持っています。その違いを互いに尊重し合い,認め合うことが相手を思いやることに繋がるのだと私はそう感じています。特に,自分と意見や考え方が違うと云う理由で人をイジメるのは絶対に良くありません。私もよくイジメの相談や現場に遭遇することがあります。今の弱い者イジメは自分の立場を利用したものも多くありますが,イジメる人の特徴は決して自分よりも強い者と戦うことをせず,自分よりも弱い立場にある人をイジメるのです。要は,ただの卑怯者です。

よくイジメを正当化したいのか何なのか解りませんが,イジメられる人にも原因があるだの訳の分からない理屈にもなっていない屁理屈を言う人を偶に見掛けますが,イジメられる側にも問題があると云う言葉は,イジメを体験している人が自分の行動や行為,言葉や過去の行いを省みたときに,自分自身への戒めの言葉として使うものであって,人に言われる言葉ではありません。イジメる人とイジメられる人とではイジメる人の方に問題があるに決まっている訳です。コンプレックスなのか?選民意識なのか?

又,イジメられる人間にも問題があると云う言葉に似たような言葉で,人を外見で判断してはいけないと云う言葉があります。これも同じで,人は外見で判断するのだから身なりや身支度はちゃんとしないといけないと自分自身へ言い聞かすときに使うのです。明らかに自分よりも弱い立場にある人を言葉や力によってイジメをする人は,あの世で人間としての扱いをされません。自分の霊性も己の御霊も自分の先祖をも苦しめ,傷つけることになっています。イジメをする本人が不知故に犯す罪とも言えます。仏教の世界観に不知は罪と云う言葉がありますが,本当にそのとおりだと思います。暴力などの力で相手を征服したり,支配する根性は動物以下の霊性ですし,自分の優位な立場を利用するのはもっと最悪です。その様な人は,運気もどんどん低下し惨めな老後が待っています。うつ病や孤独になる傾向が強いように思います。観音経にも還著於本人 (げんじゃくお ほんにん)と明記されていますね。

私が意識的にしていることで参考になるかどうかは個人によりますが,自分にとって困難な事柄に遭遇した場合は,これは神様からの宿題なんだと意識して考えたり,積極的に取り組むように私はしています。禊ぎや試練と聞くと,ちょっと近寄りがたく,避けて通りたくなってしまいますし,私にはちょっとキツイです。しかし,考え方や想い,少しの視点の違いで人は困難に直面しても乗り越えて行けるだけのものを既に以ているとも思っています。それに本人が気が付いていないだけで,神様はすべてを観て知っていますから心配したり,不安になったりする必要は本当はないのです。たとえば,神様から「お前(私)は,この人に対し,どんな言葉を掛け,どんな行いで臨むのか?」「さぁ,今の自分と己の力で対峙せよ。こんな感じです。この宿題が溜まりに溜まるとパニックになります。訳が解らなく,収集も付かず,どんどん深みに嵌って行ってしまうのです。子供でも夏休みの宿題を8月の終わり頃にすると大変な思いをしてしまいます。私たちがちゃんと宿題や課題に取り組んでいるかどうか,神様は片時も離れず,じっと観ています。逆に言えば,自分よりも弱い立場にある人や動物をイジメている様子もすべて観ていることになる訳です。拝


祈りを忘れた宗教家 ~剣を箒にかえて~ 1

2019年10月18日 05時05分51秒 | 勇気の心柱

 

こんにちは。以下の記事は,過去記事です。

さて,先日は,東京の下町に御鎮座されます神社で,悲惨な事件が起きてしまいました。あの神社地域は,深川と云って東京大空襲の爆心地(中心地)であった場所です。焼け野原となった東京下町の復興を象徴する神社として戦後の下町を支え続けて来たのです。又,大相撲の発祥の地ともされ,地元や東京下町の人々で大いに賑わう御神輿「深川祭」でもとても有名な神社なのです。

先ずは,亡くなった方々の御冥福をお祈り致します。

神社や寺院は,宮司や住職の個別の所有物ではありません。私は神社や寺院の護持やマネジメントをさせて頂く仕事をしていますので「個別の所有物」と考えている宗教家がいることは真に残念なことであります。その様な基本的な事を忘れ,私利私欲に走り,氏子や崇敬者,檀家や信徒のことよりも自分のことを先ず優先させる身勝手さに言葉もありません。

今回の悲惨な事件となった神社を篤く崇敬し,信仰の対象とされて来た参詣者の気持ちを考えると虚しい気持ちにもなってしまいます。もしも,自分が同じように崇敬する神社であのような事件が起きてしまったら凄く悲しいことです。ただ,当該宗教法人の責任役員や総代会のメンバーは別です。神社や寺院の責任役員や総代会のメンバーになるということをこれを機に学ぶべきです。

とにかく神社や寺院の「護持」とは何か?を考えて頂きたいと思います。護持が機能していればと思うばかりです。

護持と云う言葉もあまり聞いたことがないかも知れませんが,護持には主に3つあり,氏子や崇敬者,参拝者における護持。これが1つ目。神社や寺院に建つ礼拝施設などの護持。これが2つ目。そして神社や寺院の運営「経営」の護持の3つです。この3つの護持を総称して「祭祀」と云います。たとえば,神社の境内に落ちているゴミを拾う。これも立派な祭祀ですし,護持であります。

したがいまして,護持と云うのは過去何千年と私たちの祖先が続けて来たものです。

私も業務で神社や寺院のさまざまな起案をしますし,計画の立案もします。そして,責任役員会や総代会へ出席して先の3つの護持について議論をします。中には1つの事柄で200回以上のカンファレンスを積んだものもありました。実際にある話ですが,何十年に一度の観音開帳というような記念事業は,その準備期間も相当なもので10年以上も前から計画の立案作業に着手しています。

しかし,ここでの主体は神社や寺院の神職や僧侶ではありません。あくまでも護持の主体とるのは氏子と崇敬者,寺院であれば檀家と信徒の皆さんです。つまり,神社の宮司や寺院の住職がするものではないのです。私のこれまでの経験上,宮司や住職が護持の主体となるとそこには権力が生じて来ました。この権力こそが宮司や住職には不要なものです。

その理由については,また書かせて頂きます。


平成の禊を前にして。

2019年09月25日 20時45分51秒 | 勇気の心柱

こんにちは。

この秋頃から,さまざまな分野でさまざまな事柄が変化し,強い言葉で云えば激動の周期に入って行くことだろうと感じています。

つまり,平成の禊をして行く事になるのです。

平成の禊は,今までにないとても厳しい禊になると覚悟はしていますが,やはり鍵となるのは,私たち国民一人ひとりがキチンと平成の禊に向き合うことが出来るかどうかであると考えています。もう,これ以上の先送りは出来ませんし,するべきではありません。万が一,これまで通り,目先の利益に囚われて,未来の子供たちにツケを回すようなことはすべきではありません。

しかし,私たちが平成の禊と真摯に向き合うことさえ出来れば,私はとても素晴らしい未来を未来の子供たちに残すことが出来るだろうとも想っています。ただの楽観論だけでは国家は破綻してしまいます。人事を尽くして天命を待つと言う言葉通り,最大限の努力をした上で神さまに御任せすると云うことでなければ,それはただの無責任であり,怠け者になってしまいます。

いよいよです。

未来の子供たちが待っています。

互いに頑張りましょう。拝


玉置神社に夢見る参拝者の人々。

2019年09月24日 10時29分39秒 | 勇気の心柱

 

こんにちは。今日一日,風神様の御活動がなかなか凄かった日でした。夜になった今も結構,強風となっております。

昨日は,知人の女性から奈良の玉置神社へ参拝に行ったと連絡がありました。その知人の女性は,東京で暮らしている方で玉置神社へ行きたいと以前から話されていたのですが,女性一人でしかもバスでの参拝は大変だからとあまり薦めることはしていませんでした。しかし,10月24日の玉置神社例大祭へ行って来たと話ておりました。上の写真は参拝者駐車場から撮影させて頂いた写真で,今年の6月に参拝させて頂いた時のものです。玉置神社へは行こうと決意しなければ行ける所にはありません。

自動車でも都会に住む人にとっては大変だと思います。そこまで大変な想いをして決意を以て行かれるのですから真剣に参拝すれば,大神様は受け取ってくれます。但し,自分の我欲の願いは玉置神社ではされない方が良いとも感じています。参拝に来る人を駐車場の正面に建つ鳥居をくぐった参道からじっと見られています。私は,玉置神社には興味本位程度なら行かない方が良いですと言っています。

ここ玉置神社と京都の出雲大神宮,伊勢神宮外宮の神域に御鎮座されております多賀宮の神様は旧約聖書と深い関係があるように思えてならないのです。これまで旧約聖書も新約聖書も私は読んだことがありませんし,根拠となる理屈や理由も特別ある訳でもありませんが,控え目に言うと,私はいつも見られているように感じる大神様であるのです。

まぁ,私のことは如何でも良いですが,参拝を計画予定されている人は,せっかく玉置神社への御縁を持たせて頂けるのですから真剣に世の中の御役に立ちます!と宣言されて見てはいかがでしょうか。なかなか厳しい難関試験も用意されますが,意義ある人生を歩むことになると思います。そして,玉置神社には,白山の菊理媛(くくりひめ)神様をお祀りされております。都会から自動車で参拝に行かれる方は,これからの時期は路面の凍結,雪などを想定され,くれぐれも安全運転で行かれて下さい。玉置神社への参拝は,とても貴重な参拝になります。拝


スサノオブルーのチルドレンたちへ。 ~YELL~ 

2019年09月04日 14時05分06秒 | 勇気の心柱

上の動画は,昨日,掲載した「生きることが辛く苦しい人へ」動画編です。

こんにちは。

これまでも現代の若者について,このブログでも書かせて頂いて来ました。世間では,最近の若者はと言われることがありますが大丈夫です。エジプト文明の頃から言われ続けて来たのですから気にする必要もありません。私は,最近の若者を見ると本当に立派な若者が多くて凄いなと感じています。礼儀正しく,優しくて,そして,あまり欲もないような感じもします。その若者の中でも,特に今の10代の若者が20歳を過ぎる頃,世界を牽引して行くのではないかと期待もしているのです。冗談ではなく本当に。

この世代は,あまり贅沢を知らず,ステイタスにも興味がないようです。又,貧富の差を経験している子供も多く存在します。たとえ自分では経験していなくても,周囲の友達が給食費も払えない事や塾に行きたくても行けない事や夏休みに何処にもいけない事を肌感覚で知っているようです。そう言った小さな子供のときから自分ではどうすることも出来ない事に対する思いは,やがて,実体験を通して経験した慈悲の心を自然と身に付けて行きます。慈悲の心はまるで自分で体感して来た感覚として残りますので,自分が経験していなくても直感で真実を見抜きますし,だいたい大人の嘘なども瞬時に判りますから嘘偽りが通用しません。

マスコミは直ぐに,若いスポーツ選手や芸能人など有名人ばかりに目を向けますが,むしろそう言ったスポットライトの中にいる子供よりも,そうでない子供たちに私はもの凄く期待しているのです。そして,その子供たちが成人を迎えたころ社会の役に立ちたい。困っている人の役に立ちたい。世界で挑戦したみたいと奮起して行ってくれることを心から願っています。

そう云った子供たちが和の国である日本にどんどん生まれ出ています。

きっと,魂の経験値が高いのでしょう。肉体は若くても魂の年齢,つまり,輪廻転生を多く繰り返してきた魂です。その魂が現代に続々と生れ出て来ているようであります。人は誰でも年齢「世代」に関係なく,生まれて来る前に宿命を宿して来ます。運命とは違い,決して変えることの出来ないことが宿命です。古神道では,今世に生れ出る前に,あの世で神さまと相談した上で,生まれ出る環境を自分で設定して神さまと共に誕生して来ます。これを産土神と申します。つまり,誰の心の中にも存在する神さまです。

そして,産土神と共に一生を共に歩んで行くのです。

郵便局で配達員のアルバイトをしていると,小包の配達を1日だいたい100件以上は配りに回ります。朝から夜遅くまでひたすら配達することだけ考えて時間指定の荷物は限られた時間に間に合うように注意しながら配達をしています。そう言った中で,小さな子供のいる家庭に配達に行くと本当に感心することがとても多いのです。小学生くらいの子供たちはとても礼儀正しく,ちゃんと最後には「ありがとうございました」と頭をさげて挨拶をして来ます。まだ仕事と言う概念が備わっていないので,心からの「ありがとう」なのです。見るからに賢そうな子供たちばかりです。私も将来,子供たちの御役に立てることを仕事を通じてやって行こうと考えております。特に,貧困層の子供たちの御役に立てれたら良いなと思っています。日本で生活している子供たちに国籍や生まれたところは関係ない話です。国家間の争いや紛争は政体を司る人たちで河川敷にでも行って殴り合いの喧嘩でも何でもして下さい。

今の世界の政治家は,国民の命と云うものを神さまからお預かりしていることを忘れています。

理屈にもなっていない屁理屈ばかり。

破綻した論理ほど惨めなものはないことすら判らず,不知な頭脳をさらけ出し。

自ら滅び行く哀れな姿よ。神が預けし御子の御霊を傷つけ汚すは神への冒涜。

毎日,苦しい中でも何とか一般の生活をしている国民と平穏に暮らしている子供たちを巻き添えにして欲しくないのであります。神さまは全てをご覧になっています。自分の先祖もすべてを観ています。自分の胸に手を当て考えて見れば答えは出てくるはず。もしも,何の答えも出てこないのであれば,それは単なる努力不足でしかありません。大いに省みて猛省しなければなりません。

心配,不安は穢れの根源。穢れとは「気枯れ」つまり,気が枯れること。神さまが最も嫌うエネルギーであります。穢れに触れると私たちの身体は病気になります。私は,いつも上手く出来ているなと感じていますが,これも神さまから日々の行い生活を省みろと云うひとつのサインなのでありましょう。すべての子供たちが豊かに平穏で暮らして行けますように。祈念いたします。拝

自分の事など形振り構わず,子供の為にとパートをしながら一生懸命育ててくれた母上様を大切に。

 

花咲あさひ 合 掌


心優しき動物たちへのオウムの恩返し。物語後段 再掲載

2019年05月12日 04時30分00秒 | 勇気の心柱

 

こんにちは。仏教の経典である雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)の121物語中のオウムの恩返し「雑宝蔵経 天はすべてを観ています。」「オウムの恩返しと動物たちの優しさ。物語前段」を2日程,記事にさせて頂きましたが,このオウムの恩返しの前段部分は,鎮守の森で平和に暮らしている心優しき動物たちが,エサを探し求めて森の中で迷っている一羽のオウムに優しく声を掛け,木の実や美味しい御水などをたくさんあげて夜は,オウムが寂しくないようにと安心して寝ているオウムの回りを動物たちが囲んで寝ていましたと云うお話でした。そして,翌朝,たくさんの心優しい動物たちの愛情でグッスリと寝ることができたオウムは自分の故郷を目指し,たくさんの動物たちに見送られながら飛んで行きました。ここまでが,このオウムの恩返し物語の前段部分です。

そして物語は,後段に入ります。物語の後段では,

自分の故郷に何とか戻ることが出来たオウムは,鎮守の森で出会った沢山の動物たちの真心とその恩を感じ,鎮守の森での出来事を他の動物たちへ話していました。その様子を想像すると余程,オウムは嬉しかったようです。私たち人間でも自分の力だけではどうすることも出来ない事柄がたくさんあります。たった1人の力には限界もあります。そんな時,友人や知人などの協力者が居てくれるおかげで何とか問題を解決出来たり,難問を乗り越えることが出来た経験は少なからず誰にでもあると思います。助け合ったり,補いあったり,支え合ったりと本来,人間社会においてもお互い様のはずです。いつの間にか,私たちは臆病者になってしまったのかも知れません。このオウムの恩返しの物語は前段と後段で観ると興味深い点がたくさんあるように思えます。前段では,自分から率先して困っている存在に対し積極的に語りかけ,ひとり一人が自分の出来る範囲で皆で協力している様子を物語っています。又,後段では,困っている時に助けられた恩を忘れずに感謝し,相手が困った時に自分から率先して行動に移す様子を語っています。

つまり,前段も自分に置き換え,後段も自分に置き換えた場合の両面を考えることが出来る訳です。これは,神道で云うところの一霊四魂「魂の働き」と呼ばれる思想に似ていると私は感じています。機会があればまた記事で書かせて頂きたいと思いますが,一霊四魂と云う神道の思想概念には,人は誰でも「荒魂」(あらみたま)と云う働きと「和魂」(にぎみたま)と云う働きと「幸魂」(さきみたま)と云う働きと「奇魂」(くしみたま)と云う魂には四つの働きがあると言われています。たとえば,前段の勇気を以て,自分から率先して行く勇ましさは正に「荒魂」の働きですし,困っている人の役に立ちたいと云う思いと皆で協力する姿勢は正に「和魂」の働きそのものです。物語の前段を読んだだけでも,この作者は人間の本来の在り様を動物に例えて書かれたのではないかと思います。本当に,このオウムの恩返しに学ぶところは沢山あります。見方を少し変えるだけでもいろいろ勉強もできます。

そして後段,最後の箇所では,

親切にしてくれた鎮守の森が山火事になってしまい,いてもたってもいられないオウムは,とっさに川へ飛び込み自分の身体をビショビショに濡らして山火事を消そうと鎮守の森に向かいました。しかし,山火事の現場に着くころには身体の水が乾いてしまって,自分の身体をブルブル降っても数滴しか落ちて行きません。それでも構わず,何度もなんども川に飛び込み身体をビショビショに濡らし再び,山火事を消しに向かいますが,結果は同じで数滴しか水が落ちて行きません。無理だと判っていても助けたい一心で山火事に向かうオウムの姿は,災害活動に従事される警察・消防・自衛隊の救済活動によく似ていますし,私たちの日常生活の場や企業社会でも聞くことがあります。そして,一生懸命に努力している人を努力をしない人が嘲笑い,そんな利益にならないことをよくやるな。そんなことしても無理だ。無駄なことだよ。と云う場面はどんな社会でもあることです。それでも,諦めずにただ「助けたい」と云う一心で純粋な心が天津神と国津神,八百万の神々にも通じ,神様の御加護あったのです。神様が放って置くはずがありません。オウムも突然,これまで晴天だった空が曇りだして大雨が降って来たのですからビックリしたのではないでようか(笑)

オウムも自分が困っている時に優しく,助けてくれた動物たちの恩を忘れず,自分の力だけでは到底,為し得ない困難なことであっても決して諦めず果敢に挑戦する態度とその姿勢は物語とは云え,今の現代でも理想とされ求められる人物像であるのかも知れません。その姿は天津神,国津神,八百万の神々様もずっとご覧になられています。そして私たちの祖先もすべてを観ています。果敢に挑戦する勇者(子孫)を誇らしく思っているのではないでしょうか。もしかすると,天国で友人や知人に自慢しているかもしれませんね。又,祈るとは行ずることだと云うことはひふみ神示「日月神示」にも多く書かれています。祈りと行ずることで結びます。拝

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝


玉置神社の護持を思う。

2019年04月25日 06時27分11秒 | 勇気の心柱

過去記事です。

こんにちは。

上の写真は,ちょうど2年くらい前に撮影した玉置神社参拝者駐車場からの風景です。

京都の出雲大神宮さんに続き,奈良の玉置神社さんからも夏越し大祓の案内書が何日か前に届きました。又,玉置神社さんのことはブログでも何度か記事に掲載させて頂いてまいりました。玉置神社は,奈良県十津川村の玉置山と云う場所に御鎮座されている神社で御座いますが,神社としての創建よりも遙か昔から古神道としての重要な祭祀場でもありました。その古さと言ったら先の出雲大神宮さん同様,軽く1万年以上も前の遙か昔々であります。この玉置神社は,山全体がまさに御神体でありまして,山から放射される気「エネルギー」が凄いところであります。インターネットで玉置神社を検索すると実にさまざまな情報が存在しています。

十津川村の地元の人の話では,昔は畏れ多くて玉置山「御神体」へ易々,近づくことがなかなか出来なかったと云うことです。昔の人々は,山そのものが神さまの御神体であると云うことを知っていましたから,今のように何々修行とか霊行とか山登りやピクニック気分で行くところではないと云う1つの戒めでもあったのだろうと感じます。そして,とても理に沿った考えだとも思います。

現在,玉置神社では神社創建以来の厳しい資金難に直面しており,玉置神社の公式ホームページ上においてもそのことが掲載されされています。神社の資金難は,一部の神社を除き直面している大きな難題でもあります。これからの時代,増々厳しい時代になって行くとも考えられています。神社は寺院とは違い,所謂,収入となる源泉が少ない形体でもあります。まして,玉置神社さんのように山間部で険しい場所に御鎮座されていると一般の参拝者数も極端に少ないと云うのも神社の資金難に直接影響して行きます。

拙い経験ではありますが,わたしも何か玉置神社さんの護持のお役に立てればとよく考えてはいます。玉置神社さんのような山間部の神社は,明確に行こうと意識しなければ辿り着くことが出来ません。つまり,何となく散歩していたら着きましたなんて云う場所にある訳ではありません。実際に,玉置神社までの山道は落石も多く,冬場などは雪や凍結で地元住民の人々でも細心の注意を払って参拝に行かれるほどの場所に御鎮座されています。天河大弁財天社の護持について書かせて戴いたような「和の仕組」を玉置神社さんでも推し進めて行ければ良いのになと感じているのですが,十津川村と云う人口構成から言っても氏子さんだけの力では限界に来ているのがとても良く解ります。そうなると,やはり頼りになるのは,全国に存在している崇敬者さんの御力しかありません。

たとえば,崇敬者さんの御力を得ている神社の実例で申し上げますと。

 ※ 伊勢神宮では,財団法人伊勢神宮崇敬会と云う団体を通じて神宮の護持に寄与しています。

 ※ 丹生川上神社下社では,農業「食」を通じて直会倶楽部と云う団体を介して神社護持に寄与しています。

 ※ 京都の貴船神社では,御日供講と云う崇敬者が集う団体を通して御神饌の購入費用に寄与しています。

 ※ 出雲大神宮では,毎月第3土曜日に境内の清掃を行うお掃除の会が神社境内の清浄に寄与しています。

このような奉仕活動は,それぞれの神社の任意であります。つまり,みなさんの知恵です。

そこで,玉置神社でも何かできないか?

たとえば,お金の寄付だけではなく,コピー用紙や名入れ封筒・使っていない郵便切手等々の現物寄附であっても神社を運営する神社側にとっては助かります。なぜならば,先日の記事で書かせて戴いたとおり,祭事を開催するための案内書を氏子さんや全国に存在する崇敬者さんへ郵送する為の費用が膨大に掛かりますし,コピー用紙などの事務用品の負担も年間を通すと大きな経費を伴うからです。自分なりに出来ることを探す行為は,やがて大きな実りとして自分自身に返って来ます。難しい問題や難題に挑戦する勇気と起案能力も養うことが出来るはずです。それは仕事をして行く上でも役に立ち,自分の成長にも繋がるのではないでしょうか。

少しづつ玉置神社さんの護持に有効的な起案をして見たいと思います。

神社の護持は,氏子さんや崇敬者さんの大切な御役目であります。拝

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。 

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

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日本を弱体化させたのは相続と偏差値です 3 再掲載

2018年11月19日 05時27分47秒 | 勇気の心柱

japan spirit 牙を抜かれたライオン

こんにちは。早速く昨日の記事の続きを書きたいと思います。下の黒文字箇所が昨日の文末です。

>そして,ここからが激しい出世競争が待ち受けています。このような激しい出世競争でも必ず負けます。なぜか?自分のことしか考えていないからです。そんな人を国家も省庁も上司も望んでいないからです。これは現実的で本当の話です。採用選考の最近の傾向では,バランス感覚を重要視しています。そのバランス感覚と云うのが道徳と理屈です。偏差値の高い所謂,頭の良い人なんてどこにでもいます。そんな人を採用したところで省益にも国益にもなりません。まして国家国民の為になりません。

つまり,道徳観をきちんと根底に据え且つ,理論を構築できる人を企業であってもお役所でも待ち望んでいます。理屈は使われるものではなく,使うものです。これは暗黙の了解事項であり,理論構築における基礎基本を正しく理解していて理屈を使いこなせるかどうかで評価が分かれます。最近やっと,偏差値だけでは国家の運営や政策は出来ないのだと云うことを認めて来ているのではないかと私はそのように考えております。大企業でも昔は,東大・慶応・中央・早稲田・一橋大学出身者と云うだけで商談が成立した時代がありました。まだ少しあるかもしれません。しかし,これからはそうは行きません。

このブログの左帯の一番上に検索ツールを設けてあります。たとえば「理屈」と入力し検索するとその辺りの関連する記事が出て来ますので是非お読みください。いろいと面白い話もありますので宜しくお願いします。

これまでも繰り返し書かせて頂きましたが,この理論を構築して相手に理屈を伝えることが,とくにかく日本人は苦手です。それはそのはずで,元々,日本人の遺伝子(DNA)には理屈がインプットされておりませんから苦手なはずなのです。ですが,道徳観はすんなりと受け入れることが出来るのです。それもそのはずで,日本人の遺伝子(DNA)にしっかりとインプットされているからです。私たちの祖先からの記録として誰にでもインプットされております。世界の人々には不思議な民族として語られる理由はここにあります。たとえば,お隣の国では,悪いことをして亡くなっても悪人は悪人とします。

しかしながら,日本は悪人であっても亡くなれば仏様としてお祀りしています。ただの宗教観とも説明できるかもしれませんが,私の考えは少し違います。宗教観と云うよりも日本人特有の道徳観つまり,遺伝子(DNA)の働きだと考えております。処刑台に仏壇を設置し,僧侶が御経を読経する国は世界にないと思います。この辺りは,また機会があれば記事にしたいと思います。

ここまで日本を弱体化させて来たのは偏差値教育にあります。大企業や国家公務員になれば将来は約束されている。だから,勉強だけすれば豊かで幸せな人生が待っている。他人なんてどうでも良い。偏差値さえ高ければ人生の成功者になれると云う社会が出来上がってしまい,子供を持つ親は多額のお金を使い,人脈を辿り,身体を張ってまでも有名私立の大学に子供を入学させようと必死です。凄まじいくらいです。そうして子供たちは高い偏差値を目指し,猛勉強して行き希望の就職先に就業して来たのです。たった18年間の短い人生で,その後の60年以上の人生が決まる訳です。そして,相続にも関係して行くことになります。

その結果,偏差値は絶対で不動なんだと云う幻想が生まれました。少しばかり偏差値が高く,同級生と比べると優位になることもあると思います。しかしながら,その親が子供を扇動して小さい時から学習塾に通わせ,勉強だけして来た子供が大人になったとき,困っている人を見ても無関心,自分よりも弱い立場にある人を徹底的にイジメる。まるでロボットのような人間を多く社会に放出するようになってしまうのです。これは日本にとって不幸なことであり,世界の人々も日本人の良いところは礼儀正しさと真の優しさ,そして勤勉さにあると言われております。この根底に流れる意識や想念,考えや思想は遠い我々の祖先から受け継ぐ遺伝子(DNA)であります。これ以上,理屈ばかりを良しとする風習を継続し,子供たちに遺伝子(DNA)として残すと日本人の精神性は破壊されます。私は,日本人であることと遠い祖先から脈々と受け継いできた日本人の精神を誇りに思います。

明日は,日本を弱体化したもう1つの主な理由である「相続」について書かせて頂きたいと思います。拝

理屈には負けませぬ。

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

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日本を弱体化させたのは相続と偏差値です 2 再掲載

2018年11月18日 07時24分57秒 | 勇気の心柱

こんにちは。毎日,朝は太陽に夜は北斗七星にお祈りさせて頂いておりますが,昨夜の北斗七星はとても綺麗でした。大自然そのものが神様である縄文原始の信仰が復活を迎えます。明後日,8月8日には天皇陛下の生前譲位について,陛下御自ら国民へ向けて御言葉を宣べられると云うことですから,やはりひとつ時代の節目のようになるのだと思っています。ただひたすら国民(おほみたから)の平穏で豊かな暮らしを祈り続けてきた天皇陛下,皇后陛下におかれましては十分な御静養が何よりといち国民として思っております。

又,憲法での制約があるだとか,皇室典範がどうとかと云うことよりも先ずは御静養が必要なのではないでしょうか。

政治家とくに,政府は天皇陛下を政治利用しないで頂きたい。それこそ,かつて来た道であります。天皇陛下の御会見の後に,安倍総理が会見するような報道がありますが必要ないと思っています。私たち国民は,天皇陛下の御言葉を直接御聞きしたいのであって,安倍総理の感想は聞いても意味ありません。他にするべきことが山のようにあるように思えます。

又,防衛大臣に着任された稲田朋美大臣に対するバッシングが国内や国外からも多いようです。軍国主義者だとか過去の発言なんかも取り上げられているようです。このブログでも前に書きましたが,理論が破綻した理屈ほど惨めなものはありません。敵が攻めて来たら国と家族を守るんだ!そのためには国民は血を流さなくてはいけないんだ!と云う発言をされているようです。国民はそんなに馬鹿ではありません。そんなこと解りきっていることであり,敵が攻めて来ているのに呑気にしている国民がいる訳ないのです。そもそもその様な事態にならないために国民は政治家を選挙で選び,苦しい生活の中でも高い税金を納めているのです。

万が一,現在が緊急事態を要する必要性があるのだとすれば,それは政治家の責任であって,国民の責任ではありません。一見,稲田大臣の発言も正論のように聴こえますが,それは全然違います。つまり,政治家の仕事は理屈で相手国や国民を説得することが仕事なのです。そこに,感情論や宗教的思想を持ち出すと国論を分断し,同じ民族同士で罵り合い,貶し合い,必ずや紛争に進展してしまうのです。そして戦争への道を歩むことに繋がります。世界の紛争や戦争を観察してみて下さい。すべて宗教戦争です。

その上で,稲田大臣の発言を観察すると明らかに理屈は破綻し,感情論と宗教観に基づいていることが誰にでも理解できるのではないでしょうか。私は,稲田朋美さんを応援したいひとりです。だからこそ,この様な言いたいことを書かせて頂いておりますが,一部の人の利害などに振り回されず,政治家として常に国家の安寧と国民(おおみたから)と向き合ってほしいと考えています。

だいぶ前置きが長くなってしまいましたので,少しだけタイトルに沿って昨日の記事の続きを書かせて頂きたいと思います。昨日の記事では「理屈」と「占領統治」について書きましたが,今日は,日本を弱体化させた主な理由の1つである偏差値教育について書かせて頂きます。私も仕事柄,高校生を持つお父さんやお母さんから子供の将来や進学について相談を受けることがあります。その中には勉強が得意で,東京大学に進学させたいと言われる方もいらっしゃいます。

勉強が得意なのは良いことだと思いますし,自分が生きて行く上で現在の社会においては可能性が広がることも確かであります。しかし,学部にもよりますが,東京大学に進学させて将来何をしたいのかを答えられる親や生徒はほとんどいません。それもそうだと思います。そんなことを聞く方が可笑しな質問をしているのかもしれません。まだ18歳前後で明確に将来の自分を見据えている子供の方が最近では珍しいのではないでしょうか。東京大学へ進学を望む親に共通している点があります。それは「安定性」です。

つまり国家公務員です。きっと,世間一般の親からすると国家公務員は将来が約束されているし,収入も安定しているし,社会的な地位や信用は抜群で憧れの仕事だと考えているようです。私は,そのような親子には必ず止めた方が良いと返答しています。とても甘い考えであり,そのような考えでは,たとえばどこかの省庁へ入省出来たとしても本人が潰れてしまうからです。

志を高く,これまでたくさん勉強してきたことを国家運営の政策に役立てて行きたい。困っている人や苦しんでいる人の役に立ちたいと考えて行けるかどうかで,官僚になってから試されるからでもあります。自分の身の保身やただお金持ちに成りたいからと云う理由だけでは間違いなく潰れます。省庁を辞めても使いものになりません。たとえば,財務省にしても警察庁にしてもそうですが,ある一定の階級までは同期の皆と一斉に昇進して行きます。警察庁であれば警視までは一斉に昇進します。

そして,ここからが激しい出世競争が待ち受けています。このような激しい出世競争でも必ず負けます。なぜか?自分のことしか考えていないからです。そんな人を国家も省庁も上司も望んでいないからです。これは現実的で本当の話です。採用選考の最近の傾向では,バランス感覚を重要視しています。そのバランス感覚と云うのが道徳と理屈です。偏差値の高い所謂,頭の良い人なんてどこにでもいます。そんな人を採用したところで省益にも国益にもなりません。まして国家国民の為になりません。

今日は,たいぶ前置きが長くなってしまいましたので,明日も偏差値教育について書きたいと思います。拝

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

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日本を弱体化させたのは相続と偏差値です。再掲載

2018年11月17日 12時44分46秒 | 勇気の心柱

こんにちは。理屈を理解すると活きやすく感じて来ると思います。理屈を理解するとはどういったことなのかと申しますと,それは仕組み(ロジック)を理解することであると私は考えております。さらに,この理屈と云う仕組み(ロジック)を自分のものにしてしまい,呑み込んでしまえば最強ではないかと思っています。つまり,理屈を嫌い,遠ざけている間は既に理屈に負け,理屈に支配されたままになってしまうと云う訳です。又,日本人はとにかく理屈が苦手です。太古から世界でも稀な道徳的民族ですから理屈に対する答弁を持ち合せていないのが特徴的な民族集団でもあったのです。

これを見事に見抜いていた人が戦後の日本を統治する目的で日本にやって来た連合国最高司令官であったGHQダグラス・マッカーサーです。マッカーサーは,日本人をよく研究し,同時に日本人の脅威さもよく理解できていたはずです。その理解できていたと思われる発言に「日本人の能力は小学生6年生くらいだ」と言葉にしています。このブログの左帯の一番上に検索ツールが設けております「理屈」と入力すると関連する過去の記事が出てきますので是非,検索してみて下さい。例えばこのような記事「いま必要なのは悪魔の力を兼ね備えたデビルマン」です。そして,日本人の脅威さを払拭するために徹底的な政策を打ち出して行きます。

そのマッカーサーだけではなく,連合国が考えていた日本の脅威とは何なのか?そして,日本を弱体化させるために何をしなければならないのか?それを研究し尽くした結果,あることに行き着いてのではないかと私は想像しています。それは,日本古来から続く祀り事(祭事)から日本国民を遠ざけることと偏差値教育を徹底的に取り入れることです。そして,貴族や華族に多額の納税を強制し断絶させ,新たな中流階級層を作り上げ,金と女とギャンブルに狂わせることに成功しました。見事に日本人はこの戦略に嵌って行きました。盲目して行くことになってしまったのです。つまり,理屈を善だと勘違いしてしまい,理屈は絶対で正しいと考えるようになり,今では疑うことすらもありません。俗にいう頭の良い人を作り上げたのです。このひとつの虚しき現象は,今の社会でも多くの人に信じ込まれていています。そして最後の政策が食文化を激変させることです。もう子供たちの生態系が変化しています。

その結果,五穀豊穣に感謝することを日本人自らが放棄したのです。多くの日本人が新嘗祭を知りません。

これはこの国,日本にとって不幸な事でもあり,太古の昔から世界に類のない道徳的民族であった日本人が外国人になってしまったと言っても言い過ぎはありません。そのことに気が付いている政治家が何人いるのでしょうか。私はほとんどいないと感じておりますが,たとえそのことを政治家が理解できたとしても理屈が支配する世の中では少数となってしまい政治の世界でも活躍することが出来なくなってしまっているのではないかと考えてもいます。さらに,その原因は正しく理屈を使いこなすことが出来ずにただ毛嫌いしているだけのものではないかと私は思っています。これでは完全に負けます。負け続けてしまいます。

このまま行けば最後には,日本人として生まれたはずの日本人が,心まで理屈に支配され外国人となり理屈と云う仕組みに操られてこの国を統治して行くのです。私たちの遺伝子(DNA)には,理屈と云うものはありません。理屈は人を人間を支配する道具です。つまり,説得するために用いられる道具です。その一部の人が生み出した道具に私たち日本人が騙され,操られ,呪縛され続けていては日本人は滅びます。その前に,今一度,私たち日本人がそのことに気が付かなければなりません。世界の国は,日本を日本人をじっと見つめています。外国に行けば解りますが,日本人は世界に類のない特殊な民族であるのです。世界の国の人たちが,日本人のようになりたい,どうすれば日本のような国になれるのか研究もしています。いくら研究しても理屈で支配されている研究では理解できるはずがないのであります。それもそのはずです。日本人の根底には道徳があるからです。つまり,感謝の心柱です。

この国を弱くした最大の原因は「相続」と「偏差値教育」です。騙され続けては絶対にいけません。明日もこの「日本を弱体化させたのは相続と偏差値です2」を書きたいと思います。拝 

日本は負けませぬ。

  

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

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