花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

古神道入門 神ながらの伝統 2

2018年04月30日 04時55分01秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

今日もご登場です。おかげ横丁のお猫さま。寝てます・・・。

昨日に引き続き,古神道入門 神ながらの伝統と云う小林先生が生前に書かれた著書の中から一部を抜粋して紹介したいと思います。嬉しいことに,わたしが人物研究をして見たいと思っている南方熊楠さんのことにも少しですが,著書の中で触れております。日本で唯一,わたしの仕事上の大先輩でもあるのが南方熊楠さんです。南方熊楠さんは晩年,鎮守の森と神社護持に奔走して行きます。そのことから,私は南方熊楠さんを唯一の大先輩だと勝手に思っているのです(笑)。今日は,その第2章から書かせて戴きます。

以下,古神道入門 神ながらの伝統より。

第2章 日本文化の源泉は古神道から一部抜粋。

 脈々と流れる古代人のこころ

和歌山県出身の南方熊楠というお方は明治時代の偉人の一人ですが,古神道的な自然観を非常に強く持って,神社の社を大切にしろ,自然の森を大切にしろ,ということを一生懸命説いておられました。古神道的な自然観を西洋の生物学と融合させて膨大な著書を著わし,日本よりもかえって西洋で学者としての令名を馳せた人です。木へんに土と書いて杜,木を三つ書いて森,両方のモリがありますが,普通,神社の方は社を使います。この社という表現は地上でも特に天空高く聳える大きな杉の木とか楠木とかそういう大木です。そういう大木に神さまが御降臨なさるという信仰があるので社を大切にする。

社を守ることが古来からのしきたりになっております。ところが大正昭和となって鎮守の社にも開発の手が伸びてきたので,南方熊楠はそれを食い止めようとさかんに反対運動を行ったのです。自然を尊ぶということは世界的に普遍性のあるものです。とくに今日のように自然環境がどんどん破壊され,汚染されたりする時代は,鎮守の社を大切にするという思想,理念,意識,これを地球上に広めていかなければならないと思われます。古神道的な自然を見る力,あるいは見る観力,これを世界中に伝播して地球の破壊,環境破壊を食い止めるよう努めていく必要があります。

これは何も宗教を広めるということではなしに,うるわしき自然を後世に伝えるという意味においても,現在を生きる我々の義務でもあるわけです。事実,神社の社や古い森は植生が多様で植物学的に見ても非常に貴重な財産になっているのです。植物学者が一番推薦しておられるのは,伊勢神宮の別宮になっている瀧原の宮です。松坂から熊野路の方へ走って行きますと,約1時間ぐらいで瀧原の宮があります。そこは昔,神宮が祭られていた元伊勢のひとつですが,その瀧原宮の社は数十メートルもある高い木,中くらいの高さの木,それから灌木類というように三層の植物が群生しています。

まさに植物の共生ですね。日本各地の神社に昔の社が残されていますが,このお宮の社が最も理想的な群生の形であると学者は言われております。今の天皇皇后両陛下が皇太子同妃殿下のときに三重県で国体が行われ,瀧原宮に一晩御参籠になられて,すばらしいお宮だとおっしゃっておられた。両陛下も立派な植物の共生,群生林に感銘なされたのです。

日本人というのは,海外に出て「あなたの宗教は?」と問われますと,「無宗教です」と言う人が多いですが,決して無宗教ではないわけです。たとえ一度でも神社にお参りするというのは,神道という一つの根っこ,そういう信仰があるから初詣でに行くわけです。家庭でご先祖をお祭りするのに仏教で祭っていようが,キリスト教会に行く人であろうが,やはり初詣でには神社に行くというしきたりが古来からあります。潜在的な信仰というのが日本人にはあるわけです。

縄文の古代から大自然の運行,そういう動きを神の働きとしてとらえた古代人ですが,岩や木を拝むとか,川や海を拝むとか,そういう自然に対する信仰を西洋の宗教学者たちは,迷信にとらわれた次元の低いアニミズム信仰だという分類の仕方をします。アニミズムという定義が果たして妥当かどうかは別にしても,自然に対する畏敬の念は日本人の心から消えることはないわけです。なぜなら古神道というのは,宗教というより,自然と人が共生する生活の習慣であるからです。

あえていうなら生活信仰というものです。

深い山へ行けば古い大木に対する畏敬の念が働くのは,人間の心理としてもごく当然なことです。幸い数年前には,鹿児島県の屋久島の縄文杉が世界遺産に指定されたりして,自然保護の気運も高まってきました。たしかに,これだけ地球環境が悪化した今となっては自然保護も必要ですが,本来的にいえば,むしろ人間の方が自然の力の恩恵を受けて保護されているわけです。そういうことを意識しないで,ただ自然保護というなら,それは傲慢というものです。

樹齢7000年ぐらいの大きな縄文杉をみると,それを保護するという感覚より,伏して崇めたくなるほど立派で崇高なものです。実際,植物の生命力というのは大したもので,人間の80年,100年の生命ではなしに,何千年という長い年月を経ているわけです。そういう生命力,偉大なる生命力に対して人々は畏敬の念を持って拝む。それが御神木というふうに仰がれてくるわけです。古代人はこのようなものはすべて御神木と崇め大切にしてきたのです。

自然に対する畏敬の念というのは,小さなものにも向けられます。

たとえば,春になれば梅が咲き,梅の後には桃が咲き,桜が咲く。その自然を「見立て」て生け花をしたり,花見をする。秋になれば月見をする。こういう花鳥風月に対する人の慈しみの心が日本人の心です。大切なのはその自然の生命力をモノとして見ずに,そこに生命の根源の働きが如実にあるということを感受性豊かな心で悟って,その自然の中の生気,これを神として捉えて至信に拝むという,これが日本人の自然に対する感覚です。西洋人のように,山へ登るのは山を征服するんだという考えではなしに,山へ登らせていただくという感覚。

六根清浄を唱えながら,身を浄めながら山を汚さないように,山の霊気に触れる。巨大な岩があればそこに岩を拝む。大きな木があればそれを御神木として拝む。こういう自然に対する畏敬の念というのは,古代人から現代に受けつがれてきたものです。忘れているようでも潜在意識のなかには脈々と流れているのです。古代人が感覚的にとらえた宇宙生命のスパイラル運動,これは現代科学によっても実証されています。ですから地球時代になった今,屋久島の縄文杉のように古神道の自然観,世界観が改めて見直されているのも,時代の流れというより,自然の理ともいうべきでしょう。

以上

冒頭でも南方熊楠さんのことを書かせて戴いたように,小林先生も著書の中で,南方熊楠さんの自然観を短い言葉ですが語られております。私は個人的に,南方熊楠さんは自然に対する崇敬の念と同時に,自然から発せられる音霊「波動」を見事に観て居られていたのではないかと感じています。そのことは以前にも南方熊楠さんを記事にさせて戴いた際に書かせて戴きました。

又,日本古来の古神道がもつ思想や概念と西洋や西洋人との違いも述べられております。日本人と西洋人との一番の違いは共存共栄と云うものではないでしょうか。日本人は,共存共栄がすべての出発点にあり,和を重んじる国家です。しかし,西洋人は支配や征服に重きを置きます。そのことは科学でも医学でも法律学の面でも如実に表れています。近代の日本は,西洋の考え方が普通になってしまいましたからあまり違和感を感じないと思いますが,本来,日本人と西洋人では考え方も思想も概念も全く違うのです。

ただ,小林先生が山への入山について書かれていますが,私は少し違う考えを持っています。

それでは,今日も古神道の〆言葉で祝杯を挙げたいと思います。

日本弥栄!!

 

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これからも,2つクリック応援宜しくお願いします。 

太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


古神道入門 神ながらの伝統 1

2018年04月29日 04時19分20秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。上の画像は,おかげ横丁のお猫さまです。むかし,このようなオバちゃんと会った気がします(笑)。

最近,保守系のブロガーさんの記事を読んでいると天皇家や天皇陛下の話題を掲載されている記事が増えて来ているように思います。そう言った記事の中には大変勉強になる記事もあります。しかしながら,私がいつも疑問に感じるのが南北朝時代の話をされないことです。つまり,天皇家の歴史や天皇陛下と云う祭祀の中心を論じるのであれば絶対に避けて通れない事柄が南北朝時代にあるのです。なぜ書かれないのか?それがとても不思議でなりません。書くことによって何か弊害があるのか?不知か?なんでしょう。

天皇家には2つの系統があるのです。南朝家と北朝家です。これが歴史の事実です。

ただ(笑)これをあまり深く掘り下げてみても・・・。

だって,日本人であれば,ほとんどの人が天皇家の血が流れているのです。

陰謀論を除けば,現在の天皇家は北朝家です。

それはそれとして,今日の古神道入門 神ながらの伝統と云うタイトルは,私が考えてものではありません。

ある古神道家の御方が書かれた著書のタイトルで御座います。そのある御方とは,小林美元(こばやし びげん)さんと云う元神職さんであります。小林先生は,熱田神宮・熊野本宮大社・大神神社などの神社で約37年も奉仕された御方です。今日は,その小林先生が生前に書かれた著書「古神道 神ながらの伝統」から一部を抜粋引用し紹介させて頂きたいと思います。今の時代,古神道を伝えてくれる神社の宮司さんも神職さんもほとんどいません。よって,小林先生の書かれた著書は大変貴重な資料でもあるのです。

このブログでも日々,書かせて戴いて来た内容も小林先生が記されている内容も同じ古神道が根本原理にありますので,ご興味のある方は,ブログの過去記事と共に読んで下さればと思います。古神道を知れば宗教に対する考えも信仰に対する姿勢も違ってくると思いますし,何よりも自分自身がどういった存在で且つ,神さまと自分との距離感が一気に縮まってくるとも感じています。

以下,古神道入門 神ながらの伝統より。

 第1章 宇宙生命の根源を尋ねるから一部抜粋。

神道は言挙げしない。

仏教はお釈迦さま,キリスト教はイエス・キリストとか,イスラム教ではモハメット,そういう創始者がおられます。宗教といわれているものには必ず初めにその教えを説いた人がいて,そのお弟子さんたちがその師の教えを1つの宗教として広めて行く。それが世界的な仏教とかキリスト教になってきているわけですが,人間が創始者ですからその人の言葉を受けた人たちが後の世に伝えていくために,経典やバイブル,コーランなどが編纂され,伝えられてきています。

ところが縄文古神道というのは,そういう教えがありません。教祖がいない,教義もない,経典もない。ほんとうに大自然が相手ですから,そういうものは一切ない。二宮尊徳翁のように,自然が教師であるというようなことを古神道は唱えていますが,他の創称宗教とはぜんぜん成り立ちが違います。自然を敬うこころから発した宗教,宗教というよりも古神道は生活の道,生活そのものが「神随ら」の道として伝えられてきています。

ですからこれを宗教の分野に入れるというのが,戦後の宗教法人法の間違いであります。

神道が仏教やキリスト教に比べて,教えが分かりにくいというのは,教えの説明がないということからきています。そのために,教えというものがなっていあいのではないかと批判もされます。とくに一神が万神を従えるというのは,多神教というようにとらえられて,外国の人たちに神道というのはまだまだシャーマニズムのレベルではないかと批判されています。

しかしそういう批判は当たりません。そうではなくて,ちょうど太陽系が銀河系に統一されているように,また地球が太陽の周りを周りながら太陽に従っているように,一神でありながら八百万の神さまを従えて統制がとられているわけです。一神教は絶対であるがゆえに排他的で,歴史のなかで繰り返し宗教戦争を起こしてきました。しかし古神道はそうした排他性のない神随らの道,大自然に融和した生活の道なのです。神道はよく「言挙げしない」といわれますが,それは他に対して包容力があるからです。だから他者を理屈でやりこめようとしたり,善悪で物事を判断しません。

こういう古神道の宇宙観,生命観というものを見ていけば,これから地球上にこの教えというよりも道をひろめていくということが,いっそう大事なことになると思います。たとえば,古神道では,天地と書いてアメツチといいますけれども,アというのは生命の発生の源で,これをアといいます。メは,目が開けたとか,木の芽がでてきたとが芽吹いたとか,生命の発生する様をメといいます。宇宙間から生命が芽生えてくる。そういうことを表現しているのです。ツは,円らな瞳のツで,丸いという意味。チというのは,モノを養育する力があるもの,たとえば体のなかを流れている血液,これは人間を養い育てていく力がある。それで血と名付けられていますが,大地の地もそうです。

地にダイコンやナス,キュウリを植えるとそこに芽が出て大きく実を結ぶ。生命を養い育てる地球の「地」を重ね合わせるとチチとなります。赤ちゃんを育てる一番大事な母親のお乳。また,父親のことをチチといいますが,家族を養い育てる力がある人という意味でチチと称するわけです。そうするとツチというのは,丸い地球ということになります。地球という言葉は昔からありませんでしたが,日本ではツチということで地球が丸いということがわかっていました。

その地球自体は神さまのお宮で,そこに柱が立っている。カイラスだとか,富士山,筑波山,三輪山だとか,各地の国に屹立している山,これは天と地を結ぶ柱,地球の神殿だという信仰が芽生えます。そうしたお山に対する畏敬の念から,古代の人々は天上の神々が地上に降りてこられる柱としてとらえています。この地上には,一番はじめに動植物が生まれ,一番最後に人間が生まれるわけですが,バイブルによると人間は神の写しとして創造されている。神によって造られたものなのです。ところが日本の古神道では,神が産みたもうたと。神が産んだ子供たちであるから,人間も神の子である。

しかも御魂を一人ひとりが受け継いできていますから,人間は御神体そのものを表現した姿である。神さまにはちゃんと手足も全部ととのっていらっしゃるお姿が仰がれる。地球は神のお宮であり,神の子である人間はその御神体であるということになるわけです。ですから,人間が心から罪とか汚れを祓いさって,本来もって生まれた本性,本質的なものに立ち還れば神になる。もともと神の性をそなえている人間が毎日,神に複帰する。

昔の年寄りはお日(ヒィ)さま,お天道さまともいって拝みましたが,神に回帰するために毎朝,太陽を拝むわけです。これを大和言葉で「カムカエル」,つまり「カム」に「カエル」わけです。太陽というのはこの地球では時間的なずれがあり,いま日本が昼であればアメリカは夜になりますし,地球上では昼と夜が半分半分の巡り合わせになっている。

一方が寝ているときは,一方が太陽のエネルギーをいただき,起きている。すべての宇宙生命に対するに畏敬の念をもって働く。こうして順ぐりに地球全体に神聖な意識波動が満ち満ちていけば,世の平安はもっと大きく前進していくのではないだろうかと思うわけです。神の性を自覚した人間が増えるのですから当然のことです。

神道ではパーティや宴会などで乾杯するとき,「弥栄」と発声します。すべてに栄えあれという意味ですが,それは太陽のようにすべての生命を平等に慈しむ心を現わしています。すなわち神の性を自覚した人間の言葉です。「清く明らか」というのが古神道の道ですが,イヤサカという明るい言葉の波動にもそれが反映されているわけです。

以上。

いかがでしょうか?これまでもブログで書かせて戴いて来た内容も多く含まれています。私たち人間は,神さまの子孫であり,それゆえに人は誰でもその胸に神さまの分魂を宿していると云うことも書かれております。又,古神道と云うのは宗教ではなく,自然を崇拝する念から発生した自然と共に共生すること,そして古神道とは日常生活の中にこそ道を求めて行くことも書かれております。

これこそが真の日本人の姿だと考えます。

今日は,古神道の祝杯で〆させて戴きます。

日本弥栄!

 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


せいじのはなしをきかせてくれ。

2018年04月28日 07時20分10秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

昨日は,お隣の韓国と北朝鮮の両首脳が国家として数十年ぶりの会談を実施したとかで,朝からニュースでも取り上げられておりました。又,保守系のブロガーさんも話題にして掲載されていたようです。私もインターネットで少し会談の様子を観ましたが特にこれと言って感想もありません。しかし,日本と北朝鮮の間には拉致問題と云う解決しなければならない重要事項があります。韓国と北朝鮮が南北統一と云うところまで進展して行くのかがこれからの大きな主題になってくると感じますし,そこには中国や米国の外交戦略も大きく係わってくるのでしょう。今年2018年,来年2019年と世界の政治と外交は活発になって来るようです。

その一方,わたし達の日本はどうでしょうか。あまり,政治についての記事は書きたくないのですが日本の政治家や官僚の話題と云えば,性非行に汚職,損得に忖度,そして暴言に不倫と云った問題ばかりが連日のようにニュースで世界中に発信され続けています。わたし達の国には,今の内にやっておかなければならない重要政策が山積しています。しかし,野党の審議拒否や与党議員の度重なる不肖事で重要な法整備が出来ないでいます。これこそ国民にとって不利益なことであります。もっと国家の行く末を憂い,国民のことを考え行動できる政治家を国会に送り出して行かなければならいのです。それには,やはり選挙でしか手段がありません。

わたしが思うに,政治家の一番の問題は世襲制にあると考えております。親の地盤を子が引き継ぎ,資金も人脈もそして名前もある大物政治家であればある程,引き継ぐ子も当選することが確実となります。つまり,政治についての勉強も資質も何も身に付けていない状況で政治家になって行くのですから世間知らずの政治家がどんどん増えて行くのは当然と云えば当然なのであります。親の七光りで政治家になって,政治家になってから政治家になるような信じられない滑稽なことが今の政治の世界ではないでしょうか。

よって,出来の悪さは増々です。

国民はことごとく疲弊して行き,待ったなしの高齢化に少子化。さらに,追い打ちをかけるように貧富の格差も凄まじい勢いを伴って進んでいます。そんなことはないと言われる右派や左派のみなさんは信憑性もない情報に振り回されず現実をもっと自分の眼で確かめると良いです。信憑性もないと書かせて戴く理由も論ずるまでもなく,改ざんに隠ぺいと国家機関の情報が誤りであるのですから,わたしたちが入手できる情報は信憑性など疑わしきものです。今のような何をするにもお金・お金・お金とお金があることがすべての様な社会はやはり異常社会です。日本人はもともとお金至上主義の民族でなないのですが,ある時代を節目に変わってしまったようです。安全な言い方をすれば明治維新が転換期でしょうし,少し冒険心を以て言えば室町時代あたりではないでしょうか。

軍産複合体と云う言葉を聞いたことがあると思います。世界は金融と戦争の上に成り立っているのです。わたし達も金融と戦争の上にある現在の生活基盤です。本当の豊かな暮らしとは金融と戦争の上に成り立っているのでしょうか?そんなこと私には関係のない話と想われるかも知れませんが,関係のない人は誰一人としていません。すべての人が関係しています。ジャングルなどで自給自足で生活している人以外は誰でもです。その戦争を終わらせる方法は金融にしか出来ないと私は思っています。戦争を戦争で終結させることは出来ないからです。もはや軍拡競争の時代ではありません。核兵器の開発・実験・配備が整ってしまったのです。さらなる軍拡競争があるとすれば,それはAI「人工知能」を搭載した軍事兵器だけです。永遠に戦い続ける死なない兵士たちです。

ただ,金融が大変革できれば戦争はなくなると思いますが,今度は食糧難の問題が深刻的になって来ます。

おほみたからにいなるまで かしこみ かしこみ もうす。

せいじのなはしをきかせてくれ。拝

 

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これからも,2つクリック応援宜しくお願いします。 

太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


はやくおうちにかえりましょう。鬼が出て来ますよ。

2018年04月27日 08時10分55秒 | 怒りの心柱

 

こんにちは。今日は,怒りの心柱です。

先日,わたしの家に,とある新興宗教の信者さんが勧誘に来られました。よくあることですが,片手に教団が発行している新聞紙を持って私に教団の説明やら宗教の話しやらいろいろと話をしながら教団に入信しませんか?と云うことを言いたいのでしょう。女性二人でやって来ました。あとで,わたしも考えて見てみるとどうやら宗教の勧誘には戦略を以て活動されているようです。勿論,戦術ではなく戦略ですから目には見えません。その戦略とは何か?それは,企業のマーケティングを参考にしているのではないかと想像しています。いろいろと教団で策を考え,宗教勧誘が上手く出来そうな場所や人を見つけ出しターゲットにしているようです。

わたしもワザといろいろとその二人の女性に質問してみたりして見ましたが,全然お話にならないレベルです。聞いていて私の方が説法してやりたくなるくらいで,言葉に重みも説得力も説明力も無くすべてがダメです。そんな薄っぺらい言葉で,勧誘している自分自身が内容も理解せず,教団新聞に書いてあることすら解からない人がと言ってやりたいくらいでした。自分の言葉にもなっていない言葉で,書いてあることをそのまま文字図らで朗読されてもそもそも気持ちも何も伝わって来ません。そんな魂の宿らないような言葉ではなく,自分自身の言葉で宗教とはなにか?信仰とは何かを語ってもらいたかったのですがまったく期待外れでした。

一般人には理解できないような仏教用語で長々と何かを話している様子に思わず一度,永平寺にでも行って若い雲水の伽藍説明でも聴いてくれば良いですよと言ってやりたくらいでした。永平寺とは,禅の根本道場でもある福井県にある雲水さんたちの修行道場ですが御存知の方も多いと思います。その永平寺に参拝すると,伝承部と云うところから若い雲水さんが独り来て参拝者に七堂伽藍を案内して回ります。いろいろと施設の話を雲水さんがしてくれるのですが,実は,この雲水さんの話しは,雲水さんの大事な修行でもあるのです。つまり,自分の考えや思いを相手に伝えるためにはどういった言葉を選べば良いのかを修行しているのです。

相手に何かを伝える。その為に,私たちは言葉や文字を使います。普段の生活でも仕事でも誰でも同じです。その際に,自分だけのことしか考えずに何かを伝えたい相手と対話していたらどうなるのでしょうか?相手に解かる伝え方をすることは対人関係でもとても大切なことだと以前,永平寺で修行中の雲水さんを観ていてそう感じました。どうすれば永平寺に来寺して下さった参拝者の人に分かり易く,限られた時間の内に伝えることができるのか?これも禅の根本修行のひとつです。つまり,言霊信仰でもあります。

自分でも解かっていないお題目を何万遍唱えるよりも何倍もまだ行く価値があります。

口を開けば,やれ,安倍政権がどうした,お釈迦さまがどうした,日蓮さんがどうした,教団に入信しない人は地獄へ落ちるだの独り寂しく暮らしている高齢者の人にも同じように勧誘していると想像しただけで,心の鬼が太鼓を叩きはじめ,舞を舞い出してきました。これ以上,話をしていると本当に鬼が出て来てしまうので「お題目も唱えません」「入信もしません」と言って帰って頂きました。あんな言葉に易々と新興宗教に入信してしまう人がいる事に,私はある意味とても危機感があります。ご注意ください。

日蓮さんを崇敬する新興宗教信者のみなさん。

日蓮さんは,伊勢神宮の外宮で宗教家になる決意を宣べました。

それが,3つの言葉です。今の教団に日蓮さんの魂は宿っていません。

愛する人がお家で待っています。はやくおうちにかえりましょう。喝!

 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


あの日。志摩で誓った想い,今も忘れず。

2018年04月26日 13時01分15秒 | 勇気の心柱

こんにちは。上の写真は,伊雑宮の御神田で御座います。日拝をされている方には,是非ともおススメです。

ちょうど,8年くらい前に,神社の氏子さんや崇敬者さんとお寺の檀家さんを対象に孤独死や孤立死,幼児虐待を何とか防止出来ないかの起案(立案)していた時期がありました。8年を経過した現在も立案作業は進めていますが,もしかすると応用として昨日の記事のような事柄でも効果が期待できるのではないかと想い,そのことを今日は書かせて戴きたいと思います。日本人であれば,政治家であろうと政策の立案を担当する官僚であろうと公務員であろうと又,私たち国民であろうと社会のさまざまな問題点を何とかしたいと考えていることがあると思います。これは,理屈ではなく心情として誰でも理解できるのではないでしょうか?

しかしながら,一昨日も記事に書かせて戴いたように人それぞれが置かれている様々な現在の状況と真実「真理」と事実「現実」を踏まえて考えて見ると様々な問題を各人がそれぞれ承知で来ていても具体的に何か手段や方法を用いて出来るかと云うとなかなか難しいのが事実つまり,現実ではないでしょうか?あったらいいな。やれたらいいな。それは誰でも心中では同じであると私は考えております。よく,宗教家の方々と議論や協議をしているとやはり同じように「このままでは神社やお寺はなくなってしまう」と言われることがあります。私もその気持ちは理解できる面もあることは確かです。ただそう言った危機感を感じているのであれば,先ずは,宗教家自身が自分から自ら手を挙げ率先して行動に移さなければなにも変わらないのではないかといつも感じております。

危機に直面したら神仏に願いを掛ける。神仏に手を合わせればこの世の幸せをたくさん享受できる。祈れば大丈夫。おそらく,多くの宗教家がこのように考えていると思います。そう言った意味においては,宗教家だけではなく,わたしたち一般の人々も同じかも知れません。神仏に祈れば,神仏が助けてくれる。だから日本全国のパワースポットと呼ばれる場所に出掛けに行く。そこが,祭祀場であろうが,御神体であろうが,鎮守の森であろうが,磐座であろうが何ら躊躇することもなく集団で御神業だと言っては神域に入って行く。実際に,私もこれまで宗教家の方々に神仏に祈れば神仏の加護が得られるのだと聞かされることが多々あります。

これまでもブログの記事を通して,神さまから授かったリスクマネジメントと云う最強の手段と手法を書かせて戴いて参りました。わたし個人的には,この縄文時代から続くリスクマネジメントに勝る論法もないと考えています。そもそもリスクマネジメントと云う手法は,西洋諸国の考え方と思われている方も多いのですが,実はリスクマネジメントは日本が本家本元なのです。既に,縄文時代には高度なリスクマネジメントが確立していました。カタカナ文字にカタカナ言葉に日本人は弱いですから,きっと,リスクマネジメントは西洋の考え方であると据えられてしまったのだと思います。それでは,リスクマネジメントを一言で云うと何かと申しますとそれは「和の仕組」です。この和の仕組みを創り上げる事が出来る方法と手段はリスクマネジメント以外にはありません。

どれくらいのことが出来るのかは解かりませんが,神さまから授かったリスクマネジメントを駆使して,神社やお寺の護持を通じ,既計画案に応用させて見て行きたいと思います。リスクマネジメントは,どんな事にでも応用が利くところに凄さを感じてしまいます。少し,リスクマネジメントの基礎基本を書かせて戴きます。リスクマネジメントの起案作業における骨子は3つだけです。先ず,リスクマネジメントの基礎基本は①何の為にするのか?「目的と趣旨」が大前提となります。②次に,誰が何をするのか?「手段と役割」が小前提となります。③そして最後に,その事で誰が又は何がどうなるのか?「結果や効果」が結論になります。要は,大前提に小前提を当てはめて結論を導きだすのです。誰にでも簡単に出来ますので,身近なことに当てはめて見て下さい。

理想と現実の狭間にて 志摩で誓った想い忘れず。拝

 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


大岡越前守に訊け。大岡裁きは復活するのか?

2018年04月25日 05時07分15秒 | 怒りの心柱

こんにちは。

今日は,とても厳しい社会の現実的なお話を書かせて戴きたいと思います。

これは,決して他人事ではなく,国家として取り組んで行かなくてはならない重要な課題でもあると想っています。決して自己責任論だけで終わらせて良い問題ではありません。明日は我が身であります。政治家や公務員には是非とも何度も読み返して頂きたいと思います。わたし達の国家には,やらなければならないことが山積しているのです。政治家ひとり一人には,その現実を直視して政務活動をして戴きたいです。もう待ったなしのところまで来ていると云うのに・・・。厚生労働省によると要介護(要支援)認定者数は620万人と推計されているのです。この現実を日本人は少子化の中で乗り越えて行かなければならないのであります。

こちらも見て下さい。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8B%E8%AD%B7%E6%AE%BA%E4%BA%BA

本当に自己責任論と云う抽象的な言葉だけで良いのでしょうか?

下記記載の引用元は「デイリー新潮」2016年11月16日掲載分(全文)からです。

https://www.dailyshincho.jp/article/2016/11161130/?all=1

地裁が泣いた介護殺人 10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末

2006年2月1日、京都市伏見区の桂川の遊歩道で、区内の無職の長男(事件当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害、自身も死のうとしたが未遂に終わった「京都・伏見認知症母殺害心中未遂事件」をご存じだろうか。

一家は両親と息子の3人家族だった。1995年、父親が病死後、母親が認知症を発症。症状は徐々に進み、10年後には週の3~4日は夜間に寝付かなくなり、徘徊して警察に保護されるようにもなった。長男はどうにか続けていた仕事も休職して介護にあたり、収入が無くなったことから生活保護を申請したが「休職」を理由に認められなかった。

母親の症状がさらに進み、止む無く退職。再度の生活保護の相談も失業保険を理由に受け入れられなかった。

母親の介護サービスの利用料や生活費も切り詰めたが、カードローンを利用してもアパートの家賃などが払えなくなった。

長男は母親との心中を考えるようになる。

そして2006年真冬のその日、手元のわずかな小銭を使ってコンビニでいつものパンとジュースを購入。

母親との最後の食事を済ませ、思い出のある場所を見せておこうと母親の車椅子を押しながら河原町界隈を歩く。

やがて死に場所を探して河川敷へと向かった。

「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」という息子の力ない声に、母親は「そうか、あかんのか」とつぶやく。

そして「一緒やで。お前と一緒や」と言うと、傍ですすり泣く息子にさらに続けて語った。

「こっちに来い。お前はわしの子や。わしがやったる」。

その言葉で心を決めた長男は、母親の首を絞めるなどで殺害。

自分も包丁で自らを切りつけて、さらに近くの木で首を吊ろうと、巻きつけたロープがほどけてしまったところで意識を失った。それから約2時間後の午前2時ごろ、通行人が2人を発見し、長男だけが命を取り留めた。

 京都地裁は2006年7月、長男に懲役2年6月、執行猶予3年(求刑は懲役3年)を言い渡した。

裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べた。

殺害時の2人のやりとりや「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、目を赤くした裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

判決を言い渡した後、裁判官は「裁かれているのは被告だけではない。介護制度や生活保護のあり方も問われている」と長男に同情した。そして「お母さんのためにも、幸せに生きていくように努力してください」との言葉には、長男が「ありがとうございます」と応え、涙をぬぐった。

この事件が一地方ニュースに留まらず、ネットなども通じて「地裁が泣いた悲しい事件」として日本中に知られることになる。

親子の境遇や長男に同情する声や温情判決に賛同する声などが広がった。

それから約10年後の2015年。毎日新聞大阪社会部の記者が、介護殺人に関するシリーズ記事の一環としてこの長男への取材を試みた。しかし弁護にあたった弁護士も行方を知らず、数少ない親族を探し出して訪ねると、彼はすでに亡き人になっていた。

事件の後の足跡について親族は口が重く、なぜ亡くなったのかも不明のまま。行き詰った末に探し当てた長男の知人という人に彼の死を告げると、絶句して、判決後に長男が落ち着いた先の住所を告げた。

やがて判明した死因は自殺だった。

琵琶湖大橋から身を投げたという。所持金は数百円。「一緒に焼いて欲しい」というメモを添えた母親と自分のへその緒が、身につけていた小さなポーチから見つかった。地獄を味わった彼の言葉やその後の人生が、在宅介護に限界を感じ、絶望している人への何らかの助けになるのではないか。そう考えて必死に動いた記者を待っていた、悲しすぎる結末だった。

厚労省によると、要介護(要支援)認定者数は620万人。要介護者を抱える家族が増える一方、後を絶たない介護苦による悲しい殺人事件。なぜ悲劇は繰り返されるのか。どうすれば食い止めることができるのだろうか……。

引用記載「全文」は,以上です。

自己責任と云う言葉に分霊は宿りません。

古神道の言霊に自己責任と云う言葉はありません。

祝語である日本語でもありません。

 

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互いに支え,助け合い,足りないとこを補い続け,共に手を取り,手を握り,

互いの違いを認め合い,互いの違いを尊重し合う。

如何なることにも先ずは感謝を。

謙虚さ忘れずこうべを垂れて,自ら手を挙げ名乗り出る真の勇気と素直さと,

時には省み反省し,人への奉仕を忘れずに,歓びもちて結びとすれば,怒りの心も鎮められん。

心柱「こころのみはしら」祝詞 前段より一部抜粋。


真実と事実。バランス意識が大事です。

2018年04月24日 06時18分28秒 | 歓びの心柱

こんにちは。

真実と事実と云う言葉。今日は,この2つの言葉の意味を書かせて戴きたいと思います。わたし達が日々の生活をして行く上でよく耳にする言葉であります。この真実と事実のもつ言葉の意味を最近とても考えていたりしておりました。つまり,真実と事実の違いはどこに在るのだろう?と云うことです。事実と云う言葉には,真実が果たして含めれているのか?反対に真実と云う言葉には事実が含まれているのだろうか?なんだか考えれば考えるほど奥が深く似ているようで似ていない言葉であると大変興味がありました。

たとえば,事実と云う言葉を「現実」と云う言葉に置き換えて考えて見るとより分かり易いように思います。この「現実」と云う言葉もよく耳にしたりする言葉でもあります。「これが現実」など人との会話で使うように。次に,真実と云う言葉を「真理」と云う言葉に置き換えた場合はどうでしょうか?「真理」と「現実」と云う言葉どうしでは,その言葉のもつ意味は全く違うことが解かり易くなります。事実とは目に見えるカタチの現象的な事柄であって,真理とは目には見えない非現実的な心で感じる事柄のように感じています。要は,誰にでも共通した普遍的・不変的なものと考えることが出来るのです。真理は1つと云う言葉もよく聞きます。

そこで,真実と云う言葉を真理と置き換え,事実と云う言葉を現実と云う言葉に置き換えて考えた場合,自分の人生をより良く生きるとは,まさにこの真実と事実の中間地点「中心」に立つことではないかと思い当たりました。真実にも事実にもどちらにも偏らない生き方が,この世界では生き易さを感じて行けることなのではないと考えた次第であります。たとえば,気の合う仲間同士で,いろいろな夢や希望をお互いに熱く語り合い無我夢中になり過ぎて時間を忘れていたと云う方々もいらっしゃると思います。

しかし,いくら自分の夢や希望をどんなに熱く夢中になって語り合ったとしても事実「現実」を考えると無理だとか難しいと云った急に先程まで語り合っていた話が空想話に変わってしまいます。わたしは,これが真実と事実の違いに想えてくるのです。実は,昨日,関東地方の千葉県成田市に御鎮座されます麻賀多神社と云う東日本一の大杉「御神木」を有する神社に久しぶりに参拝をさせていただきました。御存知の方も多いと思いますが,この麻賀多神社は日月神示と云う御啓示が降ろされた神社としても有名な神社で御座います。※正確には,麻賀多神社の境内に御鎮座される天日津久神社(あめのひつくじんじゃ)の御祭神とされています。

その日月神示(ひつきしんじ又はひつくしんじ)の中に,先ほどの真実と事実を考えさせるような言葉がたくさん出て来ます。たとえば「祈りだけでは祈り地獄に」「理屈だけでは理屈地獄に」にと云う言葉などであります。つまり,すべての物事と云うものにはバランスが大切であり,どちらか一方に偏ったりせずに中間地点「中心」を意識しなさいと云う趣旨だと私は感じています。とたえば,霊能云々,スピリチュアル云々に偏り過ぎて日常生活「仕事や私生活」に支障を来す様では,そんなものは神さまの御心にそうものではないと云うことです。ここを強く意識することがとても大切な気がいたします。人間には人間としての行があります。

この世の中は,お金だけではない。お金では買えない大切なものがあると云う考えがあるとします。わたしも正しい考えだと思っています。しかし,この世を生きて行くためには,お金がなければどうすることもできないと云う確かな思いもあります。つまり,この世は,お金だけではないと云う真実「真理」とこの世を生きて行く為にはお金が必要だと云う事実「現実」と解釈するとなんだか気持ちがとても楽に感じが致します。極端にどちらか一方に偏り過ぎた思考よりもバランス感覚がとても大事だと感じた日でした。

午後13時30分 麻賀多神社の境内にて記す。拝

 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


食「直会」を通じた神社の護持。

2018年04月23日 05時10分15秒 | 歓びの心柱

  

こんにちは。

先日もブログで記事にさせて戴いた奈良県の吉野郡に御鎮座される龍神が棲息する丹生川上神社下社と云う日本最古の水の神さまをお祀りする神社で,食「直会:なおらい」を通じた護持を取り入れているようで大変興味深く拝見させて頂きました。そもそも神道に伝わる直会とは,天の神さまからの御恵みと大地の神さまからの御恵みに感謝を申し上げ,神さまのエネルギーを自分の身体に吸収させることを目的とした日本古来の食に対する食文化の1つでもあり,現在の神社神道においても重要な神事でもあるのです。

前にも確か,京都の貴船神社で御日供講と云う護持制度を紹介させて頂いたことがあったように思います。この御日供講と云う護持も心ある不特定者から少額な資金を集め,神さまへ奉献する食事「御神饌」を調達することを目的とした護持であります。現代の金融ファンドの元になったのではないかと私は考えているのですが,そんなことは横において置いて,丹生川上神社下社では八百万神直会倶楽部と云う名称で活動を食を主題に展開されております。倶楽部会員には毎月一度,神さまへ御供えした御神饌が自宅に届く仕組みのようです。左上の写真が,その御神饌のようで丁寧に包装された御神饌に宮司さんの御言葉を添えて発送されています。

現在の宮司さんは皆見元久宮司であります。

皆見先生は,今に感謝と云う信念で神社の宮司を務められているようです。又,皆見先生が倶楽部の代表発起人となって設立された八百万神直会倶楽部も設立時の理念は「人は,人の為に生き生かされる」を根本理念として取り組まれているようです。わたしは個人的に,皆見宮司は,古神道家でもあると感じていますので,今ではとても珍しく貴重な宮司さんでおられると想っています。

御利益を説かれる宗教家はたくさん居ますが,森羅万象の中心の座が感謝であることを理解されている宗教家となるとほとんど存在しませんから,私にとっては古神道家と言えるのです。奈良県の吉野と云う山深い祭祀場所から人はなぜ生きるのか?と云う人間の最大のテーマでもある事柄に真正面から真っ直ぐに向き合われている御様子です。その丹生川上神社下社が現世に生きる私たちに何を伝え,又,後世の子孫に何を伝え残すのかとても楽しみであります。右上の画像は,皆見元久宮司が書かれた著書であります。

感謝の心を主題としているようです。

八百万神直会倶楽部の内部のことまでわたしも詳しい事はよく存じませんが,通常の神社内に設置する崇敬会と同様の神社直轄の組織体ではないかと想像しています。いずれにしても,人間が生きて行く上で欠かすことの出来ない食を主題に神社の護持も考え,神さまの御心を倶楽部会員の皆さまへ発信して行くと云う発想は素晴らしいことではないかと感じております。食は人が生きて行く上の根本でもあります。食生活が乱れれば,人の心も乱れ,身体にも良くありません。現代病の根本的問題は,食生活にあるとさえ私も感じています。食生活が悪化し,その上で,ストレスを多く抱える社会ですから人の身体にも良い訳がないのであります。

五穀豊穣を祈る私たち日本人が,日本で生産された農産物をいつまでも食べて行けることが出来るように,そして,若い人たちが農業に興味を持ち従事できる環境の整備と水資源を確保できる法整備を国家は,今の内に着々と進めて行かなければならないとブログでもこれまで何度も書かせて戴いて来ました。そう言った大切なことを神道を通じ,難しい言葉ではなく,誰にでも理解できる言葉で一般の人々にも伝えてくれることを祈っています。又,食を通じて八百万神倶楽部さんには頑張って頂きたいと思います。

祭祀司と護持司が共に古神道の精神「自然崇拝と祖霊祭祀」を後世に伝え続けて行くことが日本の復興に必ずや繋がると考えます。これからも皆見宮司に続く神社の宮司さん,神職さん,そして巫女さんが現れて来ることを願っています。思い切って,神社での祈祷受付の種類を神恩感謝と祖霊感謝だけにして見ては如何でしょう。神社の宮司や神職が率先してその気になり,積極的に発信して能動的に行動しならなければ一般の参拝者にも届かないと感じています。そこから創めなければならないくらいまで来ています。

わたしも大変,勉強させて頂けたことに感謝です。拝

 

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耳をすませば聞こえてくる。心と体と自然の声。

2018年04月22日 05時50分36秒 | 感謝の心柱

イランカラテ(アイヌ語で,こんにちは)と云う意味です。

昨日は,少しアイヌ民族のことを勉強していました。神学としての古神道を深く考察して行くと考古学や民俗学なども学ぶことになるのです。アイヌ民族も沖縄の琉球民族の信仰は,古神道であると私は結論付けています。アイヌ民族も琉球民族も人間の能力を超えるものはすべて神としていました。たとえば,食器類においても御椀でも鍋でもシャモジでもみんな神さまの分霊が宿っていると考えていたのです。さらに,役割が終わった食器類に対しては丁寧に供養までしていたのであります。まさに古神道の分魂思想そのものです。自然崇拝と祖霊祭祀を根本とし,この世のありとあらゆるものには神さまの分霊を宿していると云う基本概念です。

アイヌ民族の先祖も琉球民族の先祖も和人の先祖もみんな縄文人です。

だから日本人は,大きな和。大和の民となって大和民族となりました。

人と云うのは本当に不思議なもので,はじめは自分にこんなこと無理だと不安に感じていたことが,いつの間にか熟せるようになり,振り返ると懐かしく感じることがあると思います。それだけ自分自身が成長したと云うことで宜しいのではないでしょうか。成長するまでの間,たくさんの人に支えられ,多くの人に鍛えられ,今の自分が存在しています。すべてに感謝を奉げるとは難しいことではないようです。祈りの本質は「感謝」にあります。アイヌ民族のことを勉強していてあらためてそう感じていました。

いろいろ難しいことは,偶には横において置いて。生きる目的を見失ってしまったり,日々の生活に疲れてしまった時などは,自然に触れて見ては如何でしょうか?きっと,目の前にある大自然と直接,自分自身が繋がることによって何かを想い起させてくれるように感じています。都会に住んでいる方は,自然と触れ合う機会があまりないようにも思いますが,そんなとき時間に余裕があるようであれば少し遠くに出掛けてみるのも良いかも知れません。だって,わたし達は,自然の一部なのですから自然から離れてしまえば心にも身体にも良い訳がありません。神社や寺院で祈願信仰に奔走するよりもいろいろな意味でも余程,良いと思っています。

それを心と体が教えてくれているのです。

耳を塞がず,目を閉じず,そのことをいつも私自身も思いながら大自然(神さま)に活かされながら自然(精霊)と共に生きています。上の写真は,北陸に出張に行った際に撮影させて戴いた早朝の太陽神で御座います。この日の太陽神の輝きが未だに忘れられずにおります。何と申しますか,辺りが朱色なのかピンク色なのか解かりませんが,急にとても大きな光の球体が現れたのです。しばらくボーッとしてしまうほどの美しさと何とも言えない優しさに包み込まれるような感覚でした。うまく言葉では言い表すことが出来ないのが残念ですが,毎日,早朝に祈る太陽神ではないと今でもあの太陽は何だったのだろうと想い出すことが偶にあります。

それも古神道「個神道」の醍醐味でもあり,楽しみでもあるのです。

ニフェーデービル(琉球語で,ありがとうございます)と言う意味です。

大自然に感謝。拝

 

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私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

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怪物くん現る。藍足袋衆の存在を恐れる白足袋衆。

2018年04月21日 08時39分00秒 | 勇気の心柱

  

こんにちは。

今日は,怪物くん現るのお話です。

昨日の記事の続きではありませんが,少し藍足袋衆のことについても触れておきたく書かせて戴くことに致しました。

その藍足袋の衆たちは,8割を持たず,相続をしらない。そして,集団としての纏まりがなく,個々別々に存在し任務を果たして行きます。さらに,藍足袋の衆は,白足袋衆にも黒足袋衆にもなることが出来ます。しかし,藍足袋衆は,自分の身を人の上に置くことを拒絶しますし,何よりも集団や目立つことが嫌いなようです。でも,国家に危難が及ぶと誰よりも先に駆けつけるのもこの藍足袋の衆たちです。藍足袋の衆を探すのは難しく,失われたアークを探し求めて行くことと同じことです。つまり,存在することは判っていても,どこに存在するのかは解からないのです。心の森の奥深くから,虎視眈々と今の世の中を観ていることでしょう。

藍色「スサノオブルー」の足袋を履く藍足袋衆。そして,藍足袋衆を恐れる世界中の白足袋衆。

藍足袋の衆たちは,8割「職歴や学歴などの経歴と相続」を持ちませんので,今の世の中で社会的に高い地位にいることはありません。つまり,社会の中のとても厳しい環境に置かれている人々の中に多く存在します。又,親からの資金的な所謂,経済的な支援や援助と云ったものもなく,相続も知りませんので,自分自身の経済力だけで人生を築きあげて行かなければなりません。これは大変なことだと思います。はたして,親からの資金的援助をまったく得ないで,相続も予定されず,自分の経済力だけで人生を築き上げている人がどれくらいいるでしょうか。その上に,たとえば親を養い,家族を養っている人となると皆無のような気がしています。

しかし,いるのです(笑)。スサノオブルーの輝きを放ち,藍色の足袋を履く衆たちが。

私も仕事上でよく知る知り合いでも藍足袋衆の御方を存じております。おそらく,人に話しても「そんな人間いるのか?」と都市伝説のような話し程度にしか受け取れないような怪物くんみたいな人が本当にいるのであります。その私の知る藍足袋衆の特徴は,とても優しくて信じられない程の天才的な頭脳を有し,その上,友人や知人に何か困ったことがあると誰よりも早く,そして,最後の最後まで寄り添う人であるのも大きな特徴の1つでもあります。しかし,その本人はまったくそんなことを感じてはおらず,むしろ自己肯定力が低く,いつも自分自身をじっと見つめています。小さな子供の頃から普通では考えられないような苦労の連続であったようなのです。ですが,その御方を知る白足袋衆も黒足袋衆も皆さん共通して言われるのが「あの頭脳は是非とも欲しい」と云うことをその人と対話した人は皆さんおっしゃいます。実際に,私が何を訊いてもこれまで答えられなかったこともありません。

しかも,藍足袋衆であるご本人は勉強など全くして来なかった中学しか出ていない生粋の中卒であります。どうやら,文字を読むことがとても苦手で,最近,自分は失読症なのだと認識されたようです。又,中学生(14歳か15歳)の頃に交通事故に遭遇し入院通院を含めると5年間ほど療養をされていたとのことです。その後,働くにも中卒では働き口があまりないので,友人の紹介で下水工事を専門にしている土建業で働き出したのが最初のようです。いつも,ドブの中に手を入れて作業していたと話されています。

私の友人の弁護士とその奥さまが,あの人には,答えられないことがないと不思議そうに話をしていました。

宇宙人説まで出たほどです(笑)。UFOは目撃したことはあるようですが,友達ではないと話していました。

今風に言うと神ってるとでも云うのでしょうか?その人の仕事柄,周囲には白足袋衆「元裁判官や弁護士,医師,公務員など」の人たちが多いのですが,あの人の頭脳は凄いと必ずと言って良いほど絶賛されています。先日も仕事でお会いしましたが,自分の身を人の上に置こうとはせず,ご本人は,自分は世界で一番の幸せ者だと話されておりました。自分ほどさまざまな事を経験してきた人間は世界中を探してもいないとも云われておりました。そして何よりもすべてに感謝をしながら,大自然の中で自然と共に共生し生かされて行くことを学問として身に付けた訳ではなく,自分自身の体験によって沁み込ませた人生観は妙に納得してしまいます。

今日は,そんな怪物くんのお話でした。

まだ40代ですからこれから先がとても楽しみです。

 

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菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

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白足袋衆の衰退と黒足袋衆の復活と逆襲。

2018年04月20日 06時20分55秒 | 勇気の心柱

こんにちは。

日本の伝統的な履物に足袋があります。わたしも本業では作務衣を着て,足袋を履くのが制服でもあります。その足袋には白色と黒色がありますが,そもそも白色の足袋と黒色の足袋で何か違うのか?今日は,そんなお話を書かせて戴きたいとおもいます。白足袋衆(座敷にあがる人)と黒足袋衆(座敷にあがらない人)こんな言葉を書くとなんだか変に想われると感じますが,実は,わたし達の国は長いこと白足袋衆と黒足袋衆と云う2つに別れていたのです。この考え方は,後に外国へ渡り普及して行ことになります。ブルーカラーやホワイトカラー・ブルーヘルメットとホワイトヘルメットと云う言葉をどこかで聞かれたこともあると思います。

日本人が外国へ渡って広め伝えたものなのか?それとも外国人が日本から持ち帰ったものなのか?

そこまでは知りませんが,私は室町時代か少し前の平安時代末期に大きなことがあったのではと感じています。

日本では背広組に制服組とも云われますね。この白足袋衆に黒足袋衆と云う言葉自体は,わたしの造語でもあるので聞いたことはないと当然思いますが,わたしには白足袋衆に黒足袋衆と言った言葉の方が日本の伝統も文化も差別も区別も端的に表しているのではないかと思っています。白足袋衆と云うのは御座敷にあがる人ですから神職さんも住職さんもそうですし,稽古ごとの先生なんかも皆さん白足袋の衆です。今度よく足元を見てみて下さい。御座敷にあがる人々は白足袋を必ず履いています。無知故に白足袋を履いている人がほとんどだと思います。あちらこちらでいま様々な問題がありますが,問題を引き起こしているのも白足袋衆です。

ハイハイしながら,バブバブ言いながら女子に近づいてくる輩の性非行者は,だいたい白足袋衆です。

先日も1人。手を縛って云々のSM倶楽部のオヤジさんも仕事辞めちゃいましたね。単なるエロオヤジなんですけど。

 ハッキリ言ってキモイんです! 自分の奥さんに縛ってもらえばいいじゃないか!

こう言った考え方は,今の日本でもあります。つまり,階級社会には根強く残り続けていますが,どうやらこの考え方にも終わりが近づいて来ているようなのです。しかし,終わり方があまりよく解からないので話になることもあまりないのではないでしょうか。たとえば,労働集約型産業「肉体労働」の業界では,もう既に白足袋衆に力はありません。黒足袋衆の力が増々勢いづいて来ています。それが所謂,若い人たちの就業不足でもある人手不足にあります。白足袋衆がいくら力を保持しようとしても,又,力を誇示しようとしても一昔前の様な思い切ったことは出来ないと感じています。わたしも黒足袋衆ですから現実をよく把握しています。

頭の良い白足袋衆の中にはそのことを早くから察知している人もおります。

わたし達の国の史実(歴史),つまり,日本史を学んでいると本当に面白いことや不思議に感じることさまざまあります。日本の歴史ほど興味深い国は世界にないのではないかと思うほどであります。大変興味深いところでもあるのですが,その中でも,黒足袋衆と云われる人々が復活してくるような感じもしています。特に経済や社会生活の中で大変革を起こせるのは黒足袋衆しかいないのではないかと私はそう考えています。しかし,大変革の大役を担っていても黒足袋衆が祭祀の座や統治に居座ることはありません。

なぜなら,それが,藍色「スサノオブルー」の足袋を履く,藍足袋衆の出現です。

気は強いが力持ちの心優しき黒足袋衆とすべてを兼ね備えた藍足袋衆。

その藍足袋の衆たちは,8割を持たず,相続をしらない。そして,集団としての纏まりがなく,個々別々に存在し任務を果たして行きます。さらに,藍足袋の衆は,白足袋衆にも黒足袋衆にもなることが出来ます。しかし,藍足袋衆は,自分の身を人の上に置くことを拒絶しますし,何よりも集団や目立つことが嫌いなようです。でも,国家に危難が及ぶと誰よりも先に駆けつけるのもこの藍足袋の衆たちです。藍足袋の衆を探すのは難しく,失われたアークを探し求めて行くことと同じことです。つまり,存在することは判っていても,どこに存在するのかは解からないのです。心の森の奥深くから,虎視眈々と今の世の中を観ていることでしょう。

どこで,どのようにして,その雄姿を現してくるのか楽しみです。

鎮守の門が開くとき,門が開けば鳥居が残る。拝

 

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私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


吉野と云えば金峯山寺 金剛蔵王大権現

2018年04月19日 08時44分33秒 | 奉仕の心柱

こんにちは。

南朝の本拠地である吉野。そして,ちょっと季節が外れてしまいましたが,吉野と言えばやはり,千本桜で有名な吉野さくらを連想されると思いますが,吉野の桜は信仰の力によって産み出されて行ったでのあります。その吉野山には修験道の総本山が御座います。その名は金峯山寺と云う神道と仏教を今も伝える神仏習合の寺院で御座います。上の動画は,吉野山旅館組合さんの動画サイトからお借りした動画ですが,おそらく早朝の御勤め中だと思いますが,声明真言と云うわたしも大好きな独特な節回しが聴けます。

この金峯山寺と云えば,金剛蔵王大権現さまでも有名な寺院で,現在,国宝仁王門の大修復工事祈念として特別御開帳が時に一定期間,開催されていたりしております。今年の春の特別御開帳は平成30年3月31日(土)5月6日(日)までと云うことです。私もこれまで何度か金峯山寺さんへ参拝させて頂いたり,少ないですが毎月仕送りをさせて戴いて参りました。国宝仁王門の修理に掛かる費用「総工費」は20億円と云うことですから,何年も前からその準備で大変であったのではないかと感じております。

金峯山寺さんのホームページで公開されている仁王門修理に関する趣意書を拝見しますと工事に着手するのは,今年2018年の秋頃となっており,その後10年間の工事期間を経て2028年の完成を予定されております。したがいまして,護持と云う観点から云えば,国宝仁王門の修復の起案から工事完成までの期間は15年から20年間ではないでしょうか。段取(準備)に5年から10年,そして工事に10年と云う一般的な復興よりも長い中長期計画です。もしかすると,国宝級ですからもう少し起案に時間が掛っていたかも知れません。国宝や重要文化財級になると神社や寺院の考えだけでは修理も修復も好き勝手には出来ないのです。

たとえば,通常の(自然災害などの被災した場合を除く)祭祀施設の護持(建築工事開始まで)を起案する場合,ざっくりと①起案を開始(計画の立案)②総代会にて議案提出。③実行委員会や建設委員会の創設。④趣意書の作成。⑤寄付金募集の開始。⑥建設業者の選定。⑦工事着手です。とても大まかに書きましたが,ざっくり言うとこんな感じです。わたしも護持司ですから,その係わる大変さは身に染みてよく解かっております。計画を立案しても計画通りに上手く物事が運ぶなんてことはほとんどありません。祭祀施設の護持には多額の資金も必要になりますし,資金の集め方にもさまざまな方法が御座います。地道にコツコツと起案して来たものなのか?突発的に計画したものなのか?それともただのお金集めなのか?計画の趣意書(主文)を観ればよく解かるのです。

ちなみに,一番長い長期計画で言いますと200年と云う超長期計画も御座います。それは伊勢神宮の神宮再生200年プロジェクトと云う計画であります。この計画は,伊勢神宮の式年遷宮で使用される木材を神宮の森からいただくと云う趣旨であります。

天河神社の記事でも書かせて戴いた通り,神社や寺院の護持の中でもっとも資金が必要となるのが祭祀施設の建築物であります。資金調達と言っても何年も前から積み立てなどをしながら計画して実行して行きますが,今の時代は本当に厳しい経済環境ですからなかなか計画通りに資金が調達できると云うことはありません。ほとんど目標金額に達することが出来ないのが現状なのであります。

又,古神道(自然崇拝と祖霊祭祀)の観点から言っても,先日から書かせて戴いて参りました天河神社も丹生川上神社下社も御水から教えられることが多いのですが,ここ金峯山寺では,修験道の総本山でもありますから,何と言っても山であります。その吉野の山から金峯山寺は,山岳信仰を通じて,わたしたち人は自然と共に生きることの大切さを伝え続けている神仏習合の寺院です。拝

 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


天川行ったらこっちも寄ってよ。丹生川上神社下社。2

2018年04月18日 05時00分18秒 | 美しき水の国

こんにちは。

わたしが個人的に感じている丹生川上神社下社は古神道の祭祀場です。

古から伝わる古神道(自然崇拝に祖霊祭祀)を伝える神社もそして宮司さんも神職さんもすっかり存在しなくなってしまいました。神社に行ってもお寺に行っても御利益の話しや祈祷の受付ばかり大きくなって行き寂しい感じもしています。もうこれ以上,任せてはおけぬとすべての衆生を救うまで我,仏界には戻らずと救済の為に,山を下りた観世音菩薩は今でも裸足だと云うのに・・・。しかし,その様な中でも希望もあります。それは,最近の若い人たちが本来の日本信仰に目覚めはじめて来ていると云うことです。もしかすると,現在の宗教家よりも一般社会に居る若い人々の方が宗教家と云えるのかも知れません。わたしは個人的に古神道系の神社に期待している部分もあるのです。古神道を後世に伝えることで日本人の魂に再び息を吹き込めるのではないかと真剣に考えてもいます。このままでは日本人としての誇りだけではなく,民族そのものが存続できるかと云うくらいのところまで来ているように感じています。勿論,そんなことがあっては絶対にいけません。しかし,私たち日本人は少し資本主義に浸かり過ぎた感じもします。

それでは,昨日の続きです。

龍は,人間どうしの争いをとにかく嫌います。どうやら騒がしいのが苦手なようなのです。心優しい龍は,争いを嫌い里山の奥深くにその身を隠していると云う伝説もあります。人間が放つ憎しみや恨みや辛みの気が龍の身体を傷つけているようなのです。龍は,清らかな水を好みます。しかし,人間の激しい気が水の結晶を壊してしまっています。すると,龍は清らかの水を呑むことが出来なくなると云うわけです。丹生川上神社下社を数千年も前から守護している龍神も同じようにその身を隠してきた龍かも知れません。

龍は,清らかな水を呑むと書きましたが,正確には水の結晶を食べているのであります。ですから,人間の争う気などで水の結晶が破壊されてしまい,龍は水の結晶を食べれなくなってしまうのです。話しが少し逸れますが,上の画像は,お馴染みのデンデン坊やと龍神です。このデンデン坊やですが,わたしは京都に御鎮座される神社の御眷属ではないかと思っています。つまり,賀茂の雷童子です。その証拠に太鼓を持っているでしょう。そこに描かれている三つ巴の御紋は,神のお社を示す御神紋であります。

その後,数か月後にふたたび天河神社から今度は正式に参拝をさせて頂こうと予め予定して丹生川上神社下社へ向かいました。予定通り,神社の参拝者駐車場に車を止めて鳥居から境内に入ると「これか!」と思わず息を呑んでしまったのです。それは何かと申しますと龍神の正体が解かったのです。龍神の正体は建築物にありました。わたしは神社の建築物を撮影することができないので残念ですが写真はありませんが,龍神の正体は建物全体が龍神の身体になっているのです。つまり,拝殿が龍神の口に相当します。

そして,拝殿から裏手にそびえる御神体中腹に御鎮座される本殿まで続く階段が龍神の同体になります。したがいまして,拝殿の中に入ると龍の口の中へ,そして,本殿へと続く階段を登ると龍の同体の中に参拝者はいる事になります。これを観たときは正直,ビックリしたと云うか古来の宮大工の棟梁の霊性と霊格の高さを目の当たりにしました。さらに,完全(観世)に音霊を上手く観て建築されたと感服しました。ここまで正確に音霊「波動」を観れる人は,今では滅多に存在しません。ただ御見事の一言です。

まさに「世」の「音」を「観」る。観世音菩薩です。

わたしも若気の至りで棟梁に負けじと神社から放たれている音霊「波動」を集中して観てみました。すると,現在の拝殿の建築は比較的新しく,元の拝殿は今のような形状ではなく,龍神が大きな口を開けているような唐破風の拝殿であると確信しました。そして,後日,昔の拝殿を調べてみたところやはり,昔の拝殿は唐破風の構えをされていたようです。神社の建築物にも神さまの祈りが籠められております。丹生川上神社下社では大きな龍神が大きな口を開けて真の前の川をの水を呑みに行く姿を宮大工の棟梁が感じ取って建築されました。又,天河神社でも建築物に天河神社の神さまの祈りがちゃんと籠められています。天河神社の拝殿と本殿は親が子供を見守る姿を建物を通して表現して居るはずです。ですから,天河神社へ参拝すると母性を感じてしまうのでしょう。

そんなことを感じさせてくれる神社がこの丹生川上神社下社であります。

参照過去記事です。

狙われる私たちの郷土 ~美しきかな水の国~ 15 

天川村や天河神社に行かれることがあれば,是非とも参拝されてみて下さい。

大きな龍神さんが,大きな口を開けてわたしたち参拝者を歓迎してくれています。拝

 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


天川行ったらこっちも寄ってよ。丹生川上神社下社。

2018年04月17日 05時05分05秒 | 美しき水の国

こんにちは。地震が少し気になっています。防災意識を高めて行きましょう!

昨日まで書かせて戴いて来た,奈良県吉野郡天川村とその天川村に御鎮座される天河大弁財天社「通称:天河神社」をご紹介させていただいたら,やはり,ここの神社もご紹介させて戴かなくてはなりません(笑)。そして何と言っても,宮司さんと神職さんが素晴らしい御方なのです。宮司さんは,古神道タイプの御人ですから御蔭信仰や祈願信仰などの所謂,ご利益話などは一切されない方です。これまでの宮司歴で言いますと近畿圏の名立たる神社の宮司を歴任した後,平成21年の秋に丹生川上神社下社に赴任することになりました。上の動画に宮司さんのお話を貼り付けていますのでご覧になって下さいませ。笑顔が素敵な宮司さんです。

あっ!すみません。神社名を書き忘れておりました。失礼いたしました。

日本最古の水の神さまをお祀り申し上げる。丹生川上神社下社で御座います。

ここ丹生川上神社も凄い神社で,国家の重大事や天変地異などの国家に危険や危難が及ぶと朝廷から特別な奉幣を賜る国家にとってはなくてはならない重要な神社で,神社の社各を示す二十二社中の一社であるのです。何回かブログでも記事にさせて頂いてきた神社でもあります。わたしが初めてこちらの丹生川上神社下社を目にしたのは,やはり天河神社への参拝後,秘水ごろごろ水を採取した帰りがけに何気なく自動車を走行中に目に飛び込んできた神社でした。今でもその時のことをハッキリとよく覚えております。

天川村から国道か県道を自動車で走行し,室生龍穴神社へ向かっているときでした。その日はわずかながら小雨が降っていました。その走行中,なにげなく右側をフッと見てみると大きな龍が大きな口を開けてこっちを観ています。おもわず急いでブレーキを踏んで引き返して見てみると,そこには古神道系だと瞬時に解かる神社があり水への感謝拝礼所と書かれた立て看板が設置してありました。水と聞くと思わず身体が反応してしまう水マニアの私としては参拝させていただくしかないと思っていたのですが,室生龍穴神社へ着く時間も迫っていたので,その日は,正面の第1鳥居前から礼拝だけを済ませて室生方向へと再び自動車を走らせました。

しかし,そこからが凄い体験をしました。何かと申しますと先程まで小雨であった雨が,丹生川上神社下社を出発したとたんに大雨に変わり,さらに猛烈な雨になってしまったのです。運転するのがやっとなくらいで途中,あまりの猛烈な雨で車を停車させるほどでした。今までにあれ程の雨は経験がないほどでした。きっと,丹生川上神社下社の龍神が外出する時にちょうど私は鳥居に立っていたのかも知れません(笑)。わたしの気枯れに潤いを与えて下さっているような感じもします。その猛烈な雨は,室生の手前でピタリと止み,室生龍穴神社付近では嘘のように青空が広がっていたのであります。それにしても凄い体験をさせて戴きました。

そんな初めての体験をさせて頂いたのですが,家に帰っても丹生川上神社が気になって仕方がありません。そこでいろいろとあの神社の醸し出す雰囲気は何だろうと調べてみると,なんと二十二社中の一社であることが判ったのです。これまでも丹生川上神社下社と云う名称は二十二社の一社でもあると云うことでよく知ってはいたのですが,まさか天河神社の帰り道に存在するとは思ってもいませんでした。しかも,あれほどの強烈な気を放つ神社ですから,時代の古さと先人たちが如何にして神社を護持して来たのかを感じさせます。(創建は飛鳥時代)数千年と龍神が守護する正真正銘の水の神さまをお祀りする神社だと思いました。

龍は,人間どうしの争いをとにかく嫌います。どうやら騒がしいのが苦手なようなのです。心優しい龍は,争いを嫌い里山の奥深くにその身を隠していると云う伝説もあります。人間が放つ憎しみや恨みや辛みの気が龍の身体を傷つけているようなのです。龍は,清らかな水を好みます。しかし,人間の激しい気が水の結晶を壊してしまっています。すると,龍は清らかの水を呑むことが出来なくなると云うわけです。丹生川上神社下社を数千年も前から守護している龍神も同じようにその身を隠してきた龍かも知れません。

そして,2回目に参拝したとき,その龍神の正体が解かりました。

明日に続きます。拝

 

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太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝


知って下さい天河神社。行って見ようよ天川村へ。8

2018年04月16日 05時27分30秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。エメラルドグリーンに輝く天川村の天ノ川です。ちょうど撮影しているとき,野生の鹿と出会いました。

天川村と天河大弁財天社「通称:天河神社」をテーマにした記事も今日で「その8」になりましたので,末広がりと云う意味でも今日で結びにしたいと思います(笑)。そして,その1からその7まで長々とダラダラと書いてしまったのでその内容を少しだけ整理しながら今日も書かせて戴きたいと思っております。インターネットなどで天河神社を検索するとさまざまな情報を入手できますが,難しいことはさて置き天川村一帯と天河神社は古神道の神域中の神域であると云うことです。参拝すれば何か良いことがあると云った次元ではありません。私はむしろそう云った所謂,願掛け信仰では参拝されない方が良いのではないかとさえ感じています。

南朝の天皇家が吉野を本拠地とした理由もここに在るのかも知れません。

そして,役行者さんや空海さん,日蓮さんの最大の修行の場となったのも解かるような気がします。

大自然や自然のエネルギーが強いところほど本来,易々と人間が立ち入って良い場所とは限らないのです。このブログでもこれまで書かせて戴いて来た御神体への入山にしてもそうです。その証拠に天川村一帯からは平安時代以前の遺跡物が見つからないと言われている所以なのです。流行りのスピ云々,霊能云々と云った御一行での興味本位の参拝はくれぐれもご注意された方がご自身の身の為です。さわらぬ神に何とやらと云う言葉もありますから。願いを掛けるという「願掛け」の言葉を一旦,ぜんぶ「ひらがな」にして,ご自身で別の漢字を当て嵌めて見て下さい。漢字を当て嵌めると本来の言葉の意味とは全く違うものとなることもあるのです。

それでは,その1からその7までの記事を整理しながら書かせて戴きます。

その1では,奈良県吉野郡に天川村と云う自然に恵まれ,水の聖地があると云うことを書かせて戴き,その水の聖地には太古から水の神さまをお祀りしている天河大弁財天社「通称:天河神社」と言う古神道系の神社が今も御鎮座されていることをご紹介させて頂きました。又,たくさんの芸能人や芸能関係者,企業経営者の参拝者も多く,神社を運営する為に必要な資金が不足しているようにも感じていましたので,神社を運営するには護持を司る総代会の組織を改革し,崇敬者さんの中から総代会に参加してもらい一般の参拝者とともに古神道の成り立ちや歴史,国家神道と神社神道の違いを学べる機会を設けることを強調させていただきました。

その2は,無視して頂いて結構です。つい,私事を書いてしまったので,あまり面白い話でもありませんので(笑)。

その3では,天河神社だけに限った事ではなく,現在,神社の運営は実に厳しい環境下に置かれていて,これからも人口の急激な減少も相まって増々,神社を運営して行く環境は厳しい状況下におかれて行くということを書かせて戴き,記事の最後に神社を運営・護持して行く上でもっとも資金が必要になるものが神社の祭祀施設「建築物」に在るのだと云うことも書かせて戴きました。

その4では,上記,その3の内容に基づき,特に自然災害のような場合になると突発的な資金的困難に陥ることがあるので,そういった困難な事柄に直面した場合,はたして氏子さんだけで神社を護持「御守り」することが出来るか否かと云ったことを問題提起させて頂きました。その為には,やはり全国に存在する崇敬者さんの力添えがなければ難しいと云うことも書かせて戴きました。

その5では,あらためて天川村と云う場所の素晴らしさを伝えさせていただきました。星々の輝く光がとても強く,わたし達の祖先は,天空に光り輝く星々で水の聖地であることを感知していたのではないかと云う私なりの感想も書かせて戴きました。天川村は世界に誇る水の聖地であります。そして,神社の護持には3つの役割「柱」があることをご紹介させて頂きもしました。3つの護持とは「神社本体の運営」と「祭祀施設でもある建築物」そして何よりも大切な「氏子崇敬者と一般参拝者」の3つの護持でした。

その6では,上記の3つの護持をバランスよく意識して神社の運営に役立てて行くことが大切なことであり,さらに,人の護持をより具体的に具現的にするために法律家などの専門家と提携して,予め氏子さんや崇敬者さんの生活に万が一の不測の事態が起きた場合も事前に想定し対処できる仕組みを書かせて戴きました。そして,不定期ですが法律家による無料法律相談会を開催することを提起させて頂きました。これはとても大切なことで,わたしも実際にお寺ですが実例が幾つか御座います。最後の方で少し,神社が護持を司るようなことはせずにあくまでも神社の護持の主体となるのは氏子崇敬者さんであると云うことも書かせて戴きました。

その7では,護持の話をメインに,天河神社の祭祀行事に日本古来から伝わる重要な祭祀の一つでもある祖霊祭祀を神道に復活させてはどうかと云うことを書かせて戴きました。祖霊祭祀「先祖供養」は,本来お寺の役割ではなく,神道の役割であったと云うこともお伝えさせて頂きました。そして,祭祀の祭は氏子さんや崇敬者さんが担う護持にあり,祭祀の祀は神社の宮司さんや神職さんの役割であると書かせて戴きました。つまり,祭祀には祭と祀と云うそれぞれ別々の役割があるということをお伝えいたしました。

ざっと,その1から昨日のその7までを少しだけ整理しながら再度,書かせて戴きましたが,やはり,今の神社神道に必要なのは温故知新であります。神社本庁を頂点として全国に都道府県神社庁を傘下に置いて,各地域の神社を統括して行くような組織形態の意味はどこにあるのでしょうか?神社庁に所属している地域の神社の宮司さんは神社本庁や所属する神社庁の顔色ばかり窺いっているのではないでしょうか?ましてや,政体「統治」を司る政治に口を出したり,一方,政治家が祭祀に口を出すような姿勢は,日本本来のまつりごとではありません。宗教団体が政治政党を結成し,国政に関与すると云うことがどう言ったことであるのか?

以前にもこのブログで天皇陛下の国体論と政治家の政体論を書きましたので宜しければ参考にお読みください。国体とは「祭祀」であり政体とは「統治」を意味します。この2つが合わさって結びとなります。なにか国体と政体と云うと概念が大きいですが,たとえば神社「祭祀」と氏子崇敬者さん「統治」の関係も同じであります。祭祀を執り行う国体には国体としての務めがあります。統治を行う政体にも政体としての役割がちゃんとあります。何かその大切なことを忘れてしまっているように思えてならないのです。

声を大にして言いたいのですが「統治は祭祀に付き従い,祭祀は君臨すれども統治せず」これが日本と云う国家です。

これまで天河大弁財天社には,何度か参拝をさせて戴きましたがとても優しい波動をいつも感じています。まるで自分の母親のような波動です。京都にも天河大弁財天にとてもよく似た波動を感じる神社が御座います。それは京都に御鎮座される貴船神社であります。貴船神社の奥宮と天河大弁財天社の波動は本当に良く似ています。貴船神社も天河神社も共に水の神さまをお祀りしております。以前から,このブログでも何度か天川村の秘水でもある「ごろごろ水」をご紹介して来ました。我が家の神棚の神さまへ天川村のごろごろ水をはじめて奉納できた時の感動は未だに忘れることが出来ません。御水マニアの私としては,ここ天川村の秘水は唸るほどの名水であります。水そのものから発している波動がもの凄いのです。満天の星々がキラキラと輝き恋するほどの御水です。

近年は,山道の整備も実行されて天川村へ行きやすくなっています。

春を迎え,温かくなって来ましたのでこの機会に奈良県へ旅行などに行かれる方には是非ともおススメしたい場所であります。

水の神さまへ。感謝。

 

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それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。