花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

古(個)神道で生き活きと。

2018年03月22日 19時12分05秒 | 感謝の心柱

こんにちは。上の写真は,北陸に出張した際に撮影させて頂いた早朝の太陽神で御座います。

わたし達の先祖を辿り辿ると誰であっても,みな同じ祖先に辿り着き,その先には神さまの存在に行き当たります。つまり,誰であっても人は神さまの子孫であると云うことになるのです。わたし達の心の中に神さまの分魂が宿っていると云われる所以でもあります。古神道で言うところの分魂・分霊思想です。わたし達は,どこに居ても,どこで何をしていても神の愛しい御子であることに変わりはありません。だからこそ,大自然と自分自身が他人を介在させずに直接つながることこそ大切なのであります。

ただ目の前に存在する大自然に素直に感謝を奉げる。感謝は森羅万象の中心の座に位置します。その感謝の気持ちを言葉に表した言葉(言霊)が「あ・り・が・と・う」であるのです。そのことは,先日も記事にさせて戴いた通りであります。大自然と繋がると云うことは,巷で言われている一般の人には解からない様な霊的云々,スピリチュアル云々とはかけ離れたもので,全く別のものなのです。それどころか,あげくの果てに絶対禁足地にしなければならない御神体に集団で登り,場を穢し,神さまを商売に使って買収するような姑息な手段を用いる輩まで登場して来ているのです。本来,御神体に入山できるのは祭祀者と清掃者だけなのです。

こちらが,先日書かせて頂いた記事です。

ありがとう。これが森羅万象の中心です。 ありがとう。これが森羅万象の中心です。2

一般人のわたし達は,御神体の麓で遥拝(遠拝)することが丁度良いのです。そう云った理由から,わたし達の祖先は御神体を穢さないようにと麓に神社を建立して来たのであります。つまり,後世の子孫たちが,御神体に入山しないように麓に神社を建立し拝殿を設けたのです。それにもかかわらず,絶対禁足にすべき御神体を神社が金銭との引き換えで,御神体への入山を認めているのですから恐ろしいことです。このようなことを書き込むと神社関係者の方から「入山を認めなければ神社に参拝者が来ない」とか「資金がなければ神社を運営できない」などど言われると想像しますが,だから,神社の神職が政体事に明け暮れるとダメなのです。

神社の運営・制度の整備・資金の管理と云う政体事は「氏子崇敬者」の役割なのです。これを護持と申します。

その中でも特に注意が必要なのは「お金」です。私もこれまで,これでもかと云うくらい宗教家対宗教家,宗教家対一般人の争いを見て来ました。その時に「お金には別の人格が入り込む」と強く感じたことがありました。人格そのものが変わってしまうのです。これは何も宗教家だけに限った話ではありません。わたし達一般人も同じように「お金には別の人格が入り込む」と頭の片隅に置いておいた方が良いと思います。お金の取扱いにミスや間違いが生ずるとやがて紛争になります。そこに待ち受けているのが修羅の世界で暮らす住人たちです。ようこそ。修羅道へと案内されて行きます。冷たく冷え切った石棺の建物へと連れて行かれます。

もはやそこには,大自然と繋がるなんて考えは到底,ありません。

私たちは,神さまの子孫であることに相違御座いません。どんな人であっても,私たち人類の本を辿って行くとイザナギの神さま・イザナミの神さまに行き当たります。肉体を持った我々の親も自分の子供どうしがいつも争い合って,憎しみ合っている姿は嫌なもので見たくもありません。あまりそう云った時期が長く続くとわたし達の肉体の親はどうするのでしょうか?おもちゃの取り合い,見たいテレビの奪い合いを繰り返している兄弟双方から喧嘩両成敗として,喧嘩の本となったすべてのモノを取り上げられたなんて経験をされた方もいらっしゃると思います。同じようなことが起きないようにしなければなりません。

みなさま。古(個)神道で生き活きと。


 

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神恩感謝に心音感謝。

毎朝毎夕祖霊に感謝。

観世音菩薩とともに。花咲あさひ 拝