花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

神と人が和すること。神人合一惟神

2019年11月30日 07時50分05秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

科学や宗教,農業や医学,さらに,経済も元々は信仰の対象であったと云うことは,今までもブログで書かせて頂いてきました。たとえ私たちがそのことを忘れていても遺伝子「DNA」にはちゃんと記録(インプット)されています。

気の遠くなる祖先が経験し,体験した膨大な記録は,私たちがフッとした瞬間に蘇る機能を有しているのかのようです。上手く表現できませんが,たとえば,何故か理由は判らずとも肚に落ちるといった感覚を経験されたことがあろうと思います。途方もない歴史の中で,無数の先祖が体験してきた記録がその瞬間に瞬時に私たち子孫へ伝達されていると考えると何だか不思議な感じもします。その途方もない記録「遺伝子・DNA」の根本は,やはり「和」が基盤になっています。和に反すると,和に戻す力が働きます。

私たちが過去に生きていてくれた無数の先祖のお蔭で,私たちは様々なことを体験でき,危難に遭遇した場合にも瞬時に危難を回避する行動に移せるのだと感じています。しかし,ただ一点だけ機能不全に陥ってしまっている記録「遺伝子・DNA」もあるようです。それは,大自然「神さま」自然「精霊」と距離を取り過ぎてしまったことです。たとえば,神社や寺院で手を合わせる人は普通に居りますが,太陽や山や海,畑や田んぼに手を合わせる人はほとんど見ません。逆に,現代では奇妙に見えるかも知れません。

神社や寺院にゴミを捨てる人はあまり居ませんが,山や川,海にゴミを投棄する人が後を絶ちません。それは何故なのかであります。本来,私たちは大自然や自然と一対一の関係なのであります。つまり,自然と自分との間には何も遮る存在がいないはずなのであります。今一度,私たちは大自然や自然と合致・合一することが大切な気がしてなりません。古神道では,これを神と人が合一すると言って「神人合一」「惟神:カムナガラ」と言われて来ました。現代の宗教家でこう言った話が出来ないのは真に残念です。

神社で神主さんにお金を払って祈祷してもらった。祝詞を奏上してもらった。

お寺で住職さんにお金を払って御経を読んでもらった。供養してもらった。

だから良いことがある。先祖が成仏する。願い事が叶う・・・などなど。

これは全く違います。大切なことは直接,何も介在させずに繋がると云うことです。

つまり,自分自身が自然を崇拝し,祖霊を供養すると云う祭祀者になることなのです。

お金は,あくまでもこの世の3次元で有効的に機能する物であります。拝


急ぎ馳せ参じ候。胡坐をかいた宗教家たち。

2019年11月28日 07時30分11秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

今日も生意気にも私,花咲あさひは宗教家に物申します。

最近,たくさんの人が日本古来の古神道に触れて頂けることは素直に嬉しく思っています。古神道を理解してしまえば,今だけ・カネだけ・自分だけの宗教家やスピ何者や霊能者云々の詐欺紛いの事件も少しは減って来ると思いますし,苦しむ人々も減るからです。その前に,そう言った人たちを頼ろうとも思わなくなります。又,人としての和を重んじて行くようになるからでもあります。

そして,最後には自分の心の中の心神と云う存在に気が付きます。

ただ,なかなか腰を上げようとしない人たちもいらっしゃいます。それが,神社の宮司さんをはじめ,神職さんやお寺の住職さんたちであります。もう冷めてしまっているのか,それとも神職や住職を1つの職業として割り切っているのか,安住の地から離れられないのかは存じませんが,所謂,御座敷にあがる立場の白足袋衆がなかなか動こうとしません。神社や寺院の護持は黒足袋衆に任せておいて,自分たち白足袋衆は今すぐにでも困っている人たちや社会的に弱い立場に立たされている人々の元へ急ぎ馳せ参じ候なのに,じっと胡坐をかいたままです。ただ難しいことはなく,目の前にいる参拝者や檀家さんへ何気なく声を掛ければ良いだけです。

胡坐をかいたままで,うちの神社には参拝者が来ないとか,うちのお寺は檀家が増えないとかはただの言い訳です。

胡坐をかいたままでは参拝者も増えません。檀家も増えません。企業であればとっくに倒産しています。

今の世の中は,大変便利なインターネットなどもありますしSNSなどを使ってどんどん積極的に発信して行けば良いと思います。たとえば,ブログなどで記事を掲載して読んでもらったりするのもとても有効な手段だと思いますし,本を出版されても良いと思います。ある程度,大きな神社ならばマスコミや出版会社の人との繋がりもありますからとにかくじっと受け身ではなく能動的に活動されて見ては如何でしょうか?やはり,日本人は神社や寺院が理由もなく好きなのです。どこか心が落ち着くと申しますか安心できると申しますか理屈ではなく純粋に好きなのであります。ですから,神社が主催するイベントに多くの方が来社されるのです。

日本人が神社や寺院が好きな理由は,わたしは遺伝子「DNA」の関係がとても強く作用していると考えているのですが,いずれにしても神社や寺院が今すべきことは,日本人としての和の心を再び伝えていくことだと考えます。その伝承者たる人が本来は,神社の宮司さんをはじめ神職さんやお寺の住職さんの役割であるのであります。その役割を忘れた結果が今の神社界・仏教界の姿のように私は感じています。つまり,一般の人々に信仰心がなくなったのではなく,神社の神職さんやお寺の住職さんたちに信仰心がなくなったのです。その結果,スピ何者や新手な霊能者云々が跋扈するようになって行ったのです。これは宗教家の責任であります。

何かと云えば御利益御利益と言って来たと思いますが,もう若い人たちにはそんな話は通用しません。

若い人たちは,本当のことが知りたいのです。御利益とかそう言ったことでは無いのです。

たとえば,わたしもいろいろな人から「あさひちゃん。なにかおススメの本はない?」とよく聞かれることがことがあります。そんな際に,私が必ずお勧めする本は,このブログでも何度も書かせて戴いて来た春日大社の元宮司さんでいらした葉室頼昭先生の著書です。今でも葉室先生の本は人気があり,古本市場でも入手が困難な状態です。宗教や信仰は嫌いと言う人でも葉室先生の書いた本は人気があります。いまだに葉室先生の言霊は本の中で生き続けています。特に現代の会社経営者は必読書だと思っています。

それは何故でしょうか?難しい宗教用語や意味不明な言葉や理解できないような話がほとんど無いからだと私は思っています。又,以前,葉室先生の本を紹介したあるお寺の住職さんは,葉室先生の本を読み態々,関東地方から奈良の春日大社まで参拝に行かれた程です。その後,なんとそのお寺の住職さんは,檀家さんをはじめ親類縁者に至るまで困っている人の役に立とうと決心し,活動を開始されています。まさに,山を下りた観世音菩薩の後を追った宗教家の御一人です。檀家数の少ない田舎にある小さなお寺ですが,住職さんの心意気は大寺院にも負けないほどです。それだけ,真の宗教家の伝える言葉と云うものは大切なのであります。大袈裟と思われるかも知れませんが,人の人生に大きな影響を与えるほどなのです。そのことをもっと自覚して頂きたいと思います。

この期に及んでなぜ,宗教家は胡坐をかき続けるのか。

天はすべてを観ています。祈


神棚を設け 神さまを迎え お祀りをする。

2019年11月27日 07時00分11秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

以下の記事は,再掲載です。

こんにちは。

すっかり,暖かくなって過ごし易くもなって来ました。先日,春の祖霊感謝祭(お彼岸)も無事に終了することが出来ました。

しかし,まだまだ日毎,寒暖の差が激しいので,皆さま御身体ご自愛下さい。

今日は,私が神社や寺院の護持に携わるようになって不思議に感じていましたことを書きたいと思います。

その内容とは,これまで,神社や寺院を通じて多くの方々と出会うことがありました。

人と人との出会いを「一期一会」と表現したり,「袖振り合うも多生の縁」などと申し上げることもあります。当然,私の職上柄,奉仕させて頂いている神社や寺院を通して知り合うわけですから,神仏に対する崇敬の念をそなえた方々でもあります。そう云った方々の中でも特に,会社を経営されている経営者や個人で商店を営んでおられる個人事業主さんに共通していることが御座います。

それが,会社の事務所や社屋,そしてご自宅おいても神さまや仏さまを丁寧にお祀りされていることであります。理屈では到底説明のつくことでもありませんが,私は,いつもそこに不思議さと申しますか,何か特別なものを感じていました。なぜ,会社や商店では神棚を設け,神さまをお迎えし,お祀りするのか?その理由は,ただ単に商売繁盛や千客万来と云った所謂,祈願信仰や自分だけの願望を叶えて貰うことへの現われだけではないと感じることが度々あります。

その理由を理論的に説明しろと言われても説明のしようがありません。

それは,神さまをお祀りすることに論理や理屈は必要ないと私自身が考えているからでもあります。その証拠に,現実的に多くの企業や個人商店,一般のご家庭においても神さまや仏さまを丁寧にお祀りしています。それどころか,行政官庁でも神さまをお祀りしているのです。神仏をお祀りすることに理屈は必要ないと考えますが,皆さま方は如何でしょうか?

それでは,神棚を設け,神さまをお迎えし,お祀りする意味とはなんでしょう?

私なりの解釈ですが,会社の経営者や個人事業主さんであれば,お客さまとの出会い,取引先とのご縁,そして共に働く仲間たちへの感謝の気持ちが根底にあるからではないでしょうか。すべてに感謝すると云うことは,企業や個人商店の経営にも通ずることだと考えます。それと,きっと,私たちの日本人の独特な宗教観と申しますか,日本人特有の信仰心なのかも知れません。

我々の遠い祖先から脈々と受け継がれて来たDNA(遺伝子)による働きでもあるようです。私たちの先祖が大切に受け継いで来た神さまへの神恩感謝への想い(精神)は,私たちから次の世代へと継承して行き,未来永劫絶えることのないよう願うばかりです。


神棚は神さまへ向けた意識の顕れです。

2019年11月26日 07時35分37秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

ご自宅の神棚で神宮大麻や氏神さま,ご自身が崇敬されている神さまをお祀りしている方も結構,いらっしゃることだろうと思います。つまり,マイ神社であります。すべては,自分の想念の顕れと云う考えに基づいて言えば,自宅で神棚にお祀りしている神さまは心柱神社の顕れであるとも言えます。自分の心の中の心柱神社が具現化したものが,神棚でお祀りしているお宮であるのです。特別,神棚が大きいから良いとか小さいから悪いとかそういったことが問題ではなくて,自分自身の意識が神さまへ向くと云うことはとても良いことだと思います。ところで,神棚の御宮は伊勢神宮の外宮・内宮でも授与させて頂けることをご存知でしょうか?

伊勢神宮の外宮・内宮の社務所で申し込めば後日,郵送で送って頂ける仕組みになっております。御宮の種類もたくさんあって,中には茅葺屋根の御宮も御座います。実際の現物が社務所に展示してあります。私も伊勢神宮の外宮で授与させて頂きました。伊勢神宮の神棚「御宮」は,伊勢神宮が管轄する工作場で製作されている御宮です。御宮に使われている檜(ひのき)も式年遷宮の御用材の残材であったり,旧御社殿を撤下したさいの御用材であることがあります。綺麗にカンナがけをしているので古さ「時代」を感じることはありません。値段も1000円くらいの御宮から数万円と値段の幅はありますが気持ち「想念」ですからあまり気になされない方が良いと思います。そういったことよりも自分自身の意思で自宅で神さまをお祀りさせて戴きたいと云うことが大切です。

それと,せっかく神さまを自宅でお祀りしていても単に飾っているような神棚もよく見かけます。会社などでも神棚で神さまをお祀りしていることがありますが,ホコリまみれで御水の交換や榊が枯れっぱなしで放置している会社や人もいます。これは絶対にしてはならない最悪な状態です。もし,神棚の護持「お手入れ」が出来ないのであれば,神札を近くの神社へお返して,神棚も撤去された方が未だ良いと言えます。会社や自宅の神棚で神さまをお祀りすると云う行為は,日々の護持「御水の交換など」にあるのです。

そして,その実践的な行動と行為に神さまの神気が寄るのであります。祭祀の本質と言っても過言ではないと思います。祝詞を奉げる事だけが祈りではなく,御水の交換や掃除は欠かすことの出来ない超重要な神事であります。したがいまして,ホコリまみれの神棚に寄る存在も同じような存在しか寄ることが出来ません。祖霊をお祀りしている仏壇などでも同じです。埃や塵が発している波動「電気」が良いものを寄せ付けないのです。何日か前の想念がすべてを具現化すると云う記事を想い出して戴ければと思います。

簡単に言ってしまうと,類は類を呼ぶと云う法則が働き出してしまいます。普段の何気ない行為や行動が実は,自分自身の心の模様「想念」を映し出していると云うのが真実であることがあります。会社や自宅にて神棚で御宮を設けて神さまをお祀りすると云うことも心柱神社が具現化された1つの顕れだと考えることが出来るのではないでしょうか。したがいまして,神棚を掃除することも水玉や榊の水を交換することも自分の心の中の心柱神社を綺麗に掃除していると同じことなのであります。とにかく掃除が第一です。

はじめをはじめとし もとをもととする。by 倭姫命 


祭りを忘れた日本人

2019年11月25日 02時15分51秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

最近のニュースを見ても,新聞を読んでも暗くなるようなものばかりが報道され続けています。政治の世界でもそうですし,宗教界でも同じであります。ほとんどが性非行か金銭的な事柄です。なんだか暗くなるようなニュース以外は報道しないようにしているのか?と思えて来てしまうような社会になってしまいました。これは,私たち個人に与える影響は良くないものであり,まして子供たちのことを考えると複雑な気持ちになって来てしまいます。そうかといって,事実を報道しないと云う報道姿勢ではいけません。

本来,私たちの国の政治も経済も祭であるのです。その祭りの意味を取り違えしてしまっている期間が少し長すぎてしまって,いつの間にか政治の祭,経済の祭を忘れてしまったようです。祭を忘れてはなりません。日本と云う国家は祭を主体とした和の國であります。食事をすることは直会(なおらい)と云う生命を維持する祭事です。お風呂に入るということは禊と云う祭事です。身を浄める・清めるとも云われています。掃除でも同じように埃や塵を払う祓事と云う祭事なのです。こんなにたくさん国民の日常生活に祭事が存在する国家は,世界中の国々をどんなに探しても日本「和の國」以外に存在することはありません。日本人は祭人です。

故に,特に西洋人には不思議な民族として見られているようです。日本人と聞くと礼儀正しく,清潔で,真面目と云う代名詞のように感じられていますが,それもそのはず。これだけ祭事が国民一人ひとりの生活の中に浸透しているのです。日本人からすると何も特別な意識すら以ていないのであります。つまり,当たり前と云う前提がそこにはあります。しかしながら,その前提がいま大きく崩れかけて来てしまっています。これは日本と云う国家と日本人と云う国民にとっての存亡にかかわることではないでしょうか。

たとえば,生命を維持するために私たちは,食事「直会:なおらい」と云う祭事をします。その食事が出来までの過程を見てみると五穀豊穣を祈る五穀豊穣祭と云う祭事からはじまり,天と地のエネルギーを十分に吸収した作物を収穫します。無事に収穫できたことを天と地の神さまに感謝申し上げます。そうして私たちは自分の身体に吸収できる訳です。食事「直会」を通じて感謝の気持ちを育むことを小さな子供のころから私たち日本人は教育されて来たのであります。それを自分の身体で表現したカタチが食事をする際の「いただきます」と云う祈りの姿です。この祈りの姿とは何を意味するものなのか?ここにも祭の重要な意味があるのです。

それは,動植物供養祭と云う祀り事です。

何気ない食事と云うことでも五穀豊穣祭からはじまり,天と地のエネルギーを吸収して育つ生育祭,そして,無事に収穫出来たことへの収穫感謝祭,さらに,私たちが食事できることへの感謝祭と生命を戴くことへの動植物供養祭と単なる食事だけでもこれだけの祭事があるのであります。しかし,こう云った祭事が日本からどんどん減って行ってしまっています。食事をするときの「いただきます」と云う言葉には動植物への供養の意味が籠められているのですが,それすら出来ない人がおります。考えて見て下さい。動物が人間の為に処分されたときの苦しみ・悲しみ。そして人間への復讐心が蓄積された念を自分自身の身体の中に入れているのです。

いただきますを単なる儀式と考えない方が身の為です。

肉食を好む人は,怒りっぽくて短気になります。たかが食事と侮るなかれ。

食事の祭事でけではありませんが,冒頭でも書かせて戴いたお風呂にしても同じであります。お風呂は禊ぎするだけではなく,自分の身と心を癒やしてくれる大切な癒し所でもあります。水への感謝の場所でもあります。最近は,湯船にはつからずシャワーだけで済ませる日本人が多いようですが,湯船につかると云うことも大切な祭事であるのです。よく落武者が戦場で負傷した刀傷を治癒するために温泉を探していたり,発見したと云う話を聞かれたことはないでしょうか?温泉は,身体の内部の病気だけに効果がある訳ではなく,外傷にも効果があることを昔の人々は知っていたのであります。現代医学でも温泉療法は有効であるとされています。

私たちの日常生活からさまざまな祭事が減って行き,消えて行ってしまうと日本はどうなるのでしょうか?このままでは,日本人が西洋人化してしまう日が本当に来ると私は感じています。企業社会では,ほぼ西洋化してしまいました。ちょっと前に,社内用語をすべて英語にすると云うことで話題になっておりました。もしかすると,戦後の占領統治政策は終わっていないのかも知れません。私たちが暮らすこの日本から祭事を無くしては決していけません。私たちが祭事を失ってしまえば,日本人は日本に住みながらにして日本人ではなくなってしまうのです。既に,西洋人化している面も多々ありますが,しかしまだ間に合うようにも思います。

日本弥栄!あなたも弥栄!

祭人 Asahi Hanasaki 


祖霊祭祀と古神道 ~ 宗教界に物申す ~

2019年11月24日 05時40分07秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんちには。

昨日は,日蓮宗の寺院に久しぶりに伺い,製作した無縁霊さん用の祭祀壇の点検を行いました。想像していたよりも多い無縁霊さんや一時的にお預かりしている御霊さまであったので少し驚きました。久しぶりに住職さんと寺族の方ともお会いしたくさんお話をさせていただいて帰って来ました。楽しい時間はあっという間に過ぎてしまいます。やはり祖霊祭祀は清々しい気持ちにさせてくれます。日々の神祀りも然り,祖霊祭祀も誰を介在しない祭事は良いものであります。直接繋がるこれは先祖供養でも同じです。

現代では,お寺に先祖の供養はお願いしているからと考えている方も多くいらっしゃいますが,これは明らかに現代風の考え方と申しますか,日本古来の祖霊祭祀と云う世界に誇れる伝統とは違います。日本人が太古の昔より脈々と続けて来た先祖供養とは,生きている子孫が直接,自分の先祖と繋がると云うことを大切にして来たのであります。そもそも,祖霊祭祀と云うものはお寺つまり,仏教にはありませんでした。何度かブログで書かせて頂いて来ましたが,祖霊祭祀「先祖供養」は,既に縄文時代には祭事として先祖供養がされていたのです。又,現代の私たちが行う例えば〇回忌と云う追善供養も縄文時代には実に丁寧な追善供養が斎行されています。縄文時代には,現在のような神社神道は存在しませんし,又,国家神道も存在していませんから古神道の役割でした。

それと,私の自論ではありますが,先祖供養は,私たちの遺伝子に影響を多大に与えていると感じています。私たちの遺伝子「DNA」には祖先が体験した膨大な記録が保存されています。その遺伝子「DNA」は,私たちが日々暮らしている生活や仕事,勉強に恋愛に結婚,そして病気に至るまでも影響していると感じているのです。わたし程度が理論的に説明することは不可能ですが真実だと根拠なく確信しています。直感です。私たちが自ら執り行う祖霊祭祀「先祖供養」には神秘に満ちた祭事です。そのことをよく知っていた縄文人は実に丁寧に祖霊祭祀を斎行していたのではないでしょうか。そこからさまざまな日本固有の思想が生まれ,現代の私たちも無意識の内に引き継いでおります。引き継いでいると云うよりも,これが遺伝子「DNA」の働きだと考えています。

つまり,祖霊祭祀は遺伝子「DNA」のお掃除だと言える面もあるのです。

このあたりの分野を研究されている御方が筑波大学の村上和雄教授です。

今ではすっかり,先祖の供養は,お寺でするものと言った固定観念が一般的になってしまっています。又,先祖供養は長男がするべきものだと云う間違った考え方が罷り通っています。普通に考えて見ても,長男次男と云う生まれた順番と先祖供養を結びつけること自体が滑稽な話でしかありません。遺伝子は長男にも次男にも存在しているからです。長男の遺伝子は長男遺伝子で次男の遺伝子は次男遺伝子なんてことはありません。長男も次男も共に同じ先祖を持つのです。子供でも解かることであります。

明治時代の家督制度や家制度が発祥なのか,私も勉強不足でハッキリとしたことは分かりませんが,いつ・だれが・何の目的で長男が先祖の供養をするものだと云うことにしたのか今後も研究して行きたいと思います。もしかすると祭祀継承者「墓守」から来ているのかも知れません。長男は本家を継ぎ,他の兄弟は分家となるから本家を継ぐ長男が先祖代々のお墓を御守りするのだと云うことから来ているかもです。自分で書いていて何だか研究するのが楽しくなって参りました。陰謀説かも知れません・・・(笑)。

しかしながら,先ほども書かせて頂いたとおり,いくらお寺で先祖の供養をしてもそれは間接供養で直接,自分の先祖と繋がっている訳ではありません。本来であれば,ちゃんとお寺の僧侶もそう言ったことを檀信徒さんへ教えて差し上げるべき大切なことなのですが話す僧侶はほとんど居りません。本当に残念なことであります。おそらく疑問にも感じていないかも知れません。現在の仏教は葬儀仏教となってしまいましたから,自宅でもちゃんと先祖の御霊を供養しないとダメだよと言えないのだと思います。

したがって,その結果,逆に神社や寺院は,資金などの運営面や氏子・檀信徒の離檀や先祖供養の稀薄さからお墓を閉じるひとが急増し減少の一途を辿っています。しかも,これからがとても厳しい時代を迎えることになって行きます。そのことで法律上,破産の申立てを余儀なくされる宗教法人も多く出てくるはずです。宗教界も社会構造の中に存在していますので避けては通れない道のようです。そんな厳しい時代の中でこそ,宗教家は道や法を説いて歩くべきと考えますが,宗教家自身に危機感がないのです。

神社界は,春日大社のように祖霊祭祀祭「先祖供養」を復活させるべきであります。拝


予科練から神風特攻。そして,ひめゆり学徒隊3

2019年11月21日 04時37分53秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

 

こんにちは。昨日,一昨日と続けて書かせて頂いてきた「予科練から神風特攻。そして,ひめゆり学徒隊 」ですが,本日その3で終わりにしたいと思います。一昨日は「予科練」について,昨日は「特攻隊」について書かせて頂き,今日の最終日では,日本本土上陸で激戦地となった沖縄「ひめゆり学徒隊」を書かせて頂きます。若い世代の人たちには「ひめゆり」や「ひめゆり学徒隊」と言っても聞いたこともない人も多いのではないではないかと思います。私も自分で勉強するまで知りませんでした。ちょうど今の高校生と同じ頃の若い女子学生をひめゆり学徒と呼んでいます。なぜ,そんな若い乙女までも戦争の被害にならなければならないのか?そして,学徒隊なんて言う軍隊みたいなものに入隊しないとならないのか?戦争は男の軍人さんたちが戦うものではないのか?そのような素朴な疑問が勉強をする上でも生命の尊さを知る上でも大切な事ではないかと私はそのように考えています。

さて,それでは先ず,ひめゆり学徒とは具体的にどのような人たちで,何を任務としていたのでしょうか。昭和20年3月23日,いよいよアメリカ軍が日本の沖縄県に上陸を開始しました。よく本土上陸などと言われていたりしますね。当時の沖縄県から21の中等学校の生徒たちが動員されました。これを学徒と云います。その内,女子学徒は15歳から19歳です。主に陸軍の病院等で負傷した兵隊さんたちの看護が任務でありました。一方,男子学徒は14歳から19歳で上級生になると「鉄血勤皇隊」へ入隊を命じられ,下級生は「逓信隊」に編成されて行きました。現在の沖縄県那覇市安里にあった沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校から,生徒222名と教職員18名が沖縄陸軍病院へ動員されて看護任務を遂行することになったのです。

これを戦後になって,ひめゆり学徒隊と呼ぶようになりました。元々は,沖縄師範学校女子部を「乙姫」と呼び。沖縄県立第一高等女学校を「白百合」と呼称していて,併設された両校を漢字で「姫百合」と呼ばれていたのです。したがいまして,ひらがねで「ひめゆり」と呼ぶようになったのが戦後と云うことになります。

沖縄師範学校女子部は主に教員を養成することを目的とした学校で,沖縄県立第一高等女学校は「知性あふれる教養豊かな女性を育成」するために設立された学校でした。沖縄県で唯一,プールがあった学校でも有名で,勉強熱心で,沖縄県内から難関を突破し集まった生徒たちは恵まれた環境下で学校生活を送っておりました。しかしながら,激しい沖縄戦でアメリカ軍の猛攻撃を受け続け全てが焼失し廃校となってしまったのです。最終的に,実に136名の尊い生命が戦場で亡くなることになってしまいました。

太平洋戦争末期,日本の大本営(最高統帥機関)は,次々と特攻をありとあらゆる部隊に命じて行きます「神風」「桜花」「回天」「舟艇」「兵士」そして,あの巨大戦艦「大和」ですら特攻を命ぜられます。それほど,日本軍は連合国軍に追い詰められている状況で,沖縄県でも多くの民間人が犠牲となり,地上戦を繰り広げて行くことになりました。日本軍は,本土決戦の準備期間を何とか稼ごうとアメリカ軍を沖縄に張り付けさせ持久戦をとり,地下壕にもぐって対抗しました。しかし,アメリカ軍の容赦ない艦砲射撃,砲爆撃は3ヶ月続き,実に軍民合わせて20万人以上の尊い生命を奪い去りました。沖縄の男子,女子合わせた全学徒のうち,2000名余りが沖縄戦の激戦地で亡くなったのです。ここでもまた若い命が奪われることになってしまいました。

そうしていよいよ撤退と姫百合学徒の解散命令です。これを南部撤退と呼んでいます。

既に窮地に追い込まれていた沖縄で,アメリカ軍は日本軍司令部のある首里に迫っておりました。日本軍は,何とかアメリカ軍の本土上陸に徹底交戦するため持久作戦を決断します。沖縄本島南部へ撤退を開始したのであります。当然,ひめゆり学徒隊が任務を遂行している陸軍病院にも撤退命令が発令され,ひめゆり学徒たちは歩ける患者たちを連れて,傷ついた友人を担架で運び,薬品や書類を背負い砲弾が飛び交う中を本島南部に急ぐことになりました。しかし,連日の爆撃と降り続く雨で道路は泥沼化して行き,本島南部への道は撤退する住民や兵士であふれ,無数の死体が転がり,手足のない重傷者たちが泥の中を這いずり回っている惨状であります。各病院では,自力歩行できない重傷患者には毒物を与え,2人の学友は動くことすら出来ず,南風原に残さざるをえませんでした。その時の学徒さんたちの気持ちとはどんな思いだったでしょうか。これこそまさに地獄絵図そのものです。

6月18日の夜半に,陸軍病院において「ひめゆり学徒」に解散命令が出せれました。しかし,ここからが語り継がれる「ひめゆり学徒」そのものでした。アメリカ軍が自分たちの目の前まで迫って来ており,砲弾が飛び交う中,学徒たちは自分たちで地下壕などから脱出し,自分たちの考えで行動しなくてはなりません。つまり,指揮官が戦場でいないことになります。情報もなにもありません。そして6月下旬,激戦地では,沖縄守備が壊滅し,牛島司令官は生き残った全兵士に対して降伏することは許さず,最後の最後まで戦うことを命じて自らも自決することになります。牛島司令官は,とても教育熱心な御方であったようです。

牛島司令官の自決後も兵士たちはアメリカ軍の凄まじい攻撃から逃れることも出来ず,ここでもまた多くの地元住民と兵士が亡くなりました。3月の学徒動員から解散命令が発令されるまでの90日間,ひめゆり学徒の犠牲者は19名であるのに対し,解散命令後のわずか数日間で100名あまりが亡くなることになったのです。指揮官を失い,自分たちの周囲はすべてアメリカ軍の兵士たちです。そして,行き場の無くなった学徒たちは父親と母親の名前を叫び続けて自ら命を絶つ学徒が続出し,学徒たちはアメリカ軍に捕まることを最も恐れ,手りゅう弾で自決した学徒さんもおりました。

戦争は,軍人だけが戦う訳ではありません。それを沖縄戦が後世の私たちに教えてくれています。このひめゆり学徒隊の悲劇から私たちは何を学ぶことが出来るのか,そしてその想いを後世の人へ伝え残す役割があるのだと考えています。

そして,本日,正午より天皇陛下,皇后陛下の見守る中,日本武道館にて全国戦没者追悼式が斎行されました。

激しい沖縄の激戦地で犠牲になられてしまった御霊に心より供養させて頂きたいと思います。

大 々 合 掌


予科練から神風特攻。そして,ひめゆり学徒隊 2

2019年11月20日 03時37分50秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

 

こんにちは。昨日は「予科練から神風特攻。そして,ひめゆり学徒隊 1」を書かせて頂きましたので,今日は続きを書かせて頂きたいと思います。以下の黒文字は昨日の記事の一部です。

>しかし戦局は悪化の一途を辿り,敵が本土に迫った時,そのほとんどが神風特別攻撃隊員となって,一機一艦必殺の体当りを決行したのです。名も命をも惜しまず何のためらいもなく,ただ国を救うことのみに無限の未来を秘め祖国と家族を守るために尊い命を捧げたのであります。創設以来終戦までの予科練の歴史は僅か15年3ヶ月に過ぎません。しかしながら,祖国の繁栄と同胞の安泰を願い,たくさんの少年たちが全国から志願し,その予科練卒業生の8割が未曾有の国難に殉じ特攻による戦死をしたのです。私たちの今の生活があるのは,先の大戦で決死の覚悟で戦った英霊の御蔭であることは言うまでもありません。拝

昨日の記事では,予科練と云う神風特攻隊に入隊することをほぼ前提とした若い14歳から17歳の少年兵について書きましたので,今日は主に予科練を卒業し,特攻隊へ入隊してから出撃するまでの内容を書かせて頂きます。予科練を卒業した予科練習生の多くは特攻隊へと入隊することになりましたが,特攻隊が本格的に部隊として編成されたのは昭和19年10月でした。アメリカ軍のレイテ島上陸作戦により,日本軍の最高統帥機関であった大本営は「捷一号作戦」を発令しましたが,フィリピンのマバラカット飛行場では第10期生を主軸とした特攻隊員13名が自ら志願し,第一次神風特別攻撃隊として4つの隊が編成されました。その4つの隊とは「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」であります。特攻一番機は第一次神風特別攻撃隊の総指揮官で且つ,敷島隊の隊長でもあった関行男大尉でありました。その戦果はアメリカ海軍の護衛空母であるセント・ローを特攻により撃沈しました。

今現在でもフィリピンでは,日本の神風特攻隊は英雄とされお祀りされていて祭祀施設も建設されております。

第一次神風特別攻撃以後,終戦に至るまで,航空機による敵艦船に対する攻撃は,主として20才に満たない予科練出身の少年たちの特別攻撃に依存せざるを得ない状況になっていました。また,日本軍はありとあらゆる特攻兵器を開発して行きます。たとえば「人間ロケット:桜花」「人間魚雷:回天」などは御存知の方も多いことだろうと思います。そして,この特攻兵器を操るのは未だ少年の域から抜け出ない若い10代の特攻隊員でした。当時,大本営は昭和天皇に特攻隊の戦果を報告すると,昭和天皇は「そこまでせねばならぬか」と大本営参謀に話されていたようです。一方,アメリカ海軍などの連合国軍は,日本の特攻隊と特攻兵器について正気の沙汰ではない。日本軍の上層部は何を考えているのか?まだ子供で若い兵士をしかも特攻させるなんて信じられないと驚愕していました。この特攻はアメリカ海軍にもの凄い恐怖を与えていたようです。特攻が決行された後の艦上は火だるまとなり,搭載されている爆弾や弾薬が四方八方に飛び散り,死傷したアメリカ兵の損傷状況があまりにも酷い状態であったようです。

以上,特攻隊のほんのごく一部を書かせて頂きました。現代は,インターネットなどでも予科練や神風特攻隊のことはたくさん勉強できますので是非,若い人たちは少しでも学んでほしいと思います。史実や歴史に学ぶことはとても素晴らしいことでありますし,社会に出ても必ず役に立つ時が来ると感じております。そして,自分の頭で考え,自分の心で感じ取り歴史から何を学ぶかでその後の生き方に良い意味で影響することであろうとも考えています。特に,先の大戦から学ぶことはとても多いはずです。

私も特攻隊や予科練について詳細に記事にすると3日間では到底,書き切ることが出来ないのでこの辺りで次回へ譲りたいと思います。特攻隊の多くの隊員が出撃の前に愛する家族に宛てた手紙や遺言があります。又,出撃する直前には七生報国と書かれた鉢巻をされておりました。この七生報国の意味は多くの方がご存知であると思いますが,特攻隊員がしていた七生報国の真の意味は「七たび生まれ変わっても祖国と家族を守るためならば,あと七回来てやる」と云う意味だと私はそのように思います。毎年,この8月15日前に政治家の靖国神社の参拝がテレビなどのニュースで騒がれます。毎年です。先般,防衛大臣に着任された稲田防衛大臣も靖国参拝はされないようですが,いつになったら近隣諸国の顔色を窺わなくても政治家が堂々と参拝できる日が来るのでしょうか。

最後に先の大戦後に各国の要人や著名人が日本と日本人のことについて述べているものをいくつかご紹介させて頂きます。

●ハーバート・フーバー(元米国大統領、ルーズベルトの前任者) もし我々が日本人を挑発しなかったら、日本人から攻撃を受ける事は決して無かったであろう。

スカルノ大統領 我々が(オランダから)独立を勝ち得たのは,日本があれだけ戦ったのに,同じ有色人種の我々に同じことが出来ない 訳はないと発憤したからである。

朴鉄柱(韓国 韓日文化研究所) 大東亜戦争で日本は敗れたというが,敗けたのはむしろイギリスをはじめとする植民地を持った欧米諸国であった。彼らはこの戦争によって植民地をすべて失ったではないか。戦争に勝った敗けたかは,戦争目的を達成したかどうかによって決まる,というのはクラウゼヴィッツの戦争論である。日本は戦闘に敗れて戦争目的を達成した。日本こそ勝ったのであり,日本の戦争こそ”聖なる戦争”であった。ある人は敗戦によって日本の国土が破壊されたというが,こんなものはすぐに回復できたではないか。二百数十万人の戦死者は確かに帰ってこないが,しかし彼らは英霊として靖国神社や護国神社に永遠に生きて,国民尊崇対象となるのである。

以下は,特攻隊員の遺言です。

大日本帝国海軍 林 市造少尉(大正10年生まれ 昭和20年4月12日 沖縄方面にて特攻戦死 24歳)
母への便り その後元気の事と思ひます。 私達の名前は神風七生隊です。本日その半ばが沖縄沖の決戦に敵船団に突入しました。私達の出撃も二,三日中に決まっています。 お母さん,私が死んでも淋しがらないで下さい。名誉の戦死,それも皇国の興廃をかけた戦いに出て征くのですから有難いです。 飛行機で九州に入ってから博多の上は通りませんでしたが,腹一杯歌を唱ってなごりを惜しみましたよ。

もう余り思いのこすことはありません。

出撃の服装は飛行帽に日の丸の鉢巻をしめて,純白のマフラーをして,義士の討入りのようです。 お母さんの千人針は右に万人は左に,たおるとも・・・の書いてある国旗も身につけてゆきます。 お母さん達の写真をしっかりと胸にはさんで征こうと思っています。お母さんが見て居られるに違いない。祈って居られるに違いないのですから,安心して突入しますよ。 お別れには,いなりずしと羊かんがつきますよ。弁当をもって征くのもなかなかよいですね。立石さんからもらったかつおぶしもお守りと一緒に持ってゆきましょう。お母さんのとこにゆくのに一寸海の中をほってゆかねばならないのですから。

何だか夢のようです。明日はいないのですからね。

お母さん,ぐちをもうこぼしませんから、お母さんも私についてこぼさないで下さいね。泣かれたとてかまいませんが、泣いて下さいね。やっぱりあんまりかなしまないで下さい。 私はよく人に可愛がられましたね。私のどこがよかったのでしょうか。こんな私でも少しはとり得があったんだなぁと安心します。ぐうたらのまま死ぬのは、やはり一寸つらいですからね。 私は甘やかされましたね。今から考えると勿体ないです。境遇のよかったことは私の誇りです。この誇りを最後まで保持しようと思います。私から境遇を引いたら零です。随分ぐうたらですが、一人前で人の前に出られたのが有難いです。なにか変な話になりましたが、今日は一寸ねむいです。又時間があったら書き加えましょう。 もう余りなごり惜しまなくてもよいですね。ここらでお別れ致しましょう。なごりはつきませんね。お別れ致しましょう。

市造は一足先に天国に参ります。天国に入れてもらえますかしら,お母さん祈って下さい。

お母さんが来られるところへ行かなくてはたまらないですから。

お母さん さようなら。

英霊の御魂が天国で安らかでありますよう心より御祈念申し上げ,私たち子孫を見守り続けて頂けるよう励んで参ります。

花咲 あさひ 拝


予科練から神風特攻。そして,ひめゆり学徒隊 1

2019年11月19日 06時37分19秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

 

こんにちは。

この2日間,昭和天皇に関する過去記事を掲載させて頂いてきたので,本日も過去記事を掲載させて頂きます。

以下,過去記事です。

こんにちは。先日,千葉県の成田市に御鎮座されます麻賀多神社へ参拝させて頂きました。御存知の方も多いと思います。麻賀多神社は,あの日月神示「ひふみ神示」が降ろされた天日津久神社があるところです。その帰り,隣の茨城県に仕事の用事があったので自動車で向かっている途中,阿見町と云うところを通過したときにあることを思い出していました。それは,2008年頃から研究していた神風特別攻撃隊「特攻隊」についてでした。この茨城県にある阿見町には,特攻隊への入隊を前提とされていた14歳から17歳までの若い人たちで構成された予科練があった場所です。私の大叔父も予科練から特攻隊へ入隊し,出撃の数日前に終戦を迎えました。今日と明日と明後日の3日間は,ただ純粋に国の為に朝夕と厳しい訓練に励んでいた予科練習生,愛する国と故郷,家族の為に尊い命を捧げた特攻隊員,そして,本土決戦で激戦地となった沖縄ひめゆり学徒隊を記事にさせて頂きます。いよいよ明後日,8月15日は71回目の終戦祈念日を迎えます。いま私たちに出来ることは,後世に伝え残すことだと考えます。

先ずは,下記の予科練から神風特攻隊として出撃される前にお母さんへ向けた遺言書をご覧ください。

僕はもう,お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。 お母さん,良く顔を見せて下さい。 しかし,僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。 十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを 泣かせるからです。 お母さん,僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。 それが僕のあいさつです。母上様。

(資料出処:予科練平和記念館)

この遺言は,予科練から特攻隊へ入隊し,昭和25年5月4日に弱冠19歳と云う若さで,特攻作戦のため出撃され沖縄で特攻戦死された福島県出身の茂木少尉が大好きな母上様に宛てた最後の御手紙であります。

上の画像は,知覧特攻平和会館に所蔵されている,燃えさかる特攻機から6体の天女が特攻隊員を救い出し,昇天の様子を描写させた画です。目で見ると確かにこの画像は,作者の鎮魂の祈りが描写させて描かせたものですが,この画のとおりのことが実際に起こっておりました。日本神界の神々様から仏界におられる菩薩様も総出で戦禍に赴いた御霊の救出と昇天をさせておりました。きっと,この画を描写した作者には,後世に伝えるために神懸りにより筆を取らせて描かせたものです。

それでは,予科練について記事にさせて頂きますが,予科練を語る前に,特攻について少し書かせて頂きます。特攻隊には幾つかの部隊が存在しておりました。陸軍や海軍に所属し,予科練はその内,海軍に所属する「海軍飛行予科練習生」のことを通称:予科練と呼んでいます。特攻隊員の多くは予科練の所謂,卒業生で卒業後はほとんどの少年が特攻隊へ入隊しています。14歳から17歳ですから中学2年生から高校2年生の未だ未成年の子供たちであります。これが少年特攻と言われる所以です。今とは想像もつかないと思いますが,これが現実でありました。特攻隊員は18歳以上の若者が出撃されたと云う風習になっていますが,私が研究している課程で元特攻隊員の方とメールですがやり取りさせて頂いた際に,17歳未満の特攻隊員も存在していたと話されていました。

いまの若い世代の人は,特攻や特攻隊と云う言葉すら聞いたことがないかも知れませんが,私たちのすぐ近くの御先祖様です。この特攻と言う言葉は,特別攻撃の略称で,航空機や水上・水中兵器に爆弾を搭載して,当初から死を持って敵戦艦に体当たりして撃破するという攻撃です。つまり,はじめから死を覚悟して出撃するのです。本格的に特攻隊が部隊として編成されたのは,昭和19年(1944年)の10月です。特攻隊員13名が志願により選出され,第一次神風特別攻撃隊としてそれぞれ4部隊が結成されました。最初の特攻攻撃の戦果が確認されたのが10月25日でした。

しかしながら,私も研究をしていて実は,特攻一番機の前に伝説となった「特攻ゼロ号」が存在していたことが判りました。敵がいなければレイテへ行きますと言って飛び立った伝説の英霊です。正式に大本営にて特攻したのかどうかの確認が出来ていないために,伝説の特攻ゼロ号と呼ばれるようになったのです。また次の機会で記事にさせて頂きたいと思います。

毎度のように話が少し逸れますが,アメリカの9.11の悲惨な出来事をまるで日本の特攻隊のようだとマスコミがニュースなどでコメントしていたり,第2の真珠湾などと言っていたりしていましたが,これはとんでもないことです。9.11のテロリストと我が国の特攻隊の御魂を一緒にするような発言は無礼にもほどがあると思います。私たちの御先祖様と一緒にしないで下さい。

話を戻しますが,予科練は,海軍飛行予科練習生で年齢は14歳から17歳の即ち,少年航空兵のことであります。この制度が出来たのが,昭和5年6月1日で,第1期生79名でした。当初は,横須賀海軍航空隊に予科練習部を設置し,その後,全国から5,800名の志願者から厳選され昭和14年3月には霞ヶ浦湖畔に移り,大東亜戦争が開戦すると航空兵の増員が急務となったのです。そして,予科練習生は優れた搭乗員としての人間形成と,厳しい訓練をものともせず,航空兵としての実力を身につけて行きました。さらにエピソードの1つとして,昭和12年8月14日,中国本土に孤立する居留民団(日本人)を救助するため,暗夜の荒天を衝いて敢行した渡洋爆撃にその初陣を飾って以来,予科練を巣立った若人たちは多くの偉勲を重ね,大東亜戦争では名実ともに日本の航空戦力の中核となり戦ってきました。

しかし戦局は悪化の一途を辿り,敵が本土に迫った時,そのほとんどが神風特別攻撃隊員となって,一機一艦必殺の体当りを決行したのです。名も命をも惜しまず何のためらいもなく,ただ国を救うことのみに無限の未来を秘め祖国と家族を守るために尊い命を捧げたのであります。創設以来終戦までの予科練の歴史は僅か15年3ヶ月に過ぎません。しかしながら,祖国の繁栄と同胞の安泰を願い,たくさんの少年たちが全国から志願し,その予科練卒業生の8割が未曾有の国難に殉じ特攻による戦死をしたのです。私たちの今の生活があるのは,先の大戦で決死の覚悟で戦った英霊の御蔭であることは言うまでもありません。


昭和天皇 終戦の詔勅に秘められた祈り 2

2019年11月18日 05時22分29秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

昨日の過去記事「昭和天皇 終戦の詔勅に秘められた祈り 1」の続きを書かせて頂きたいと思います。

その昨日の記事で,東京大空襲に纏わる内容とその作戦を計画立案した起案者についてご紹介させて頂きました。広島と長崎への原爆投下並びに東京大空襲のことについては,さらに別の機会で記事にして行きたいと思います。何ら罪もない私たちの先祖がたくさん犠牲者となった歴史の事実は伝えて行かなければならないことであります。私たちの先祖の犠牲の上に,私たちの今の日常があり,生活が存在できることに想いを寄せることは日本人であれば当然のことであります。神風特攻隊の史実もしかり,沖縄のひめゆり隊の史実も同様に後世に伝えなければならない歴史がたくさんこの国にはあります。靖國神社においてもそうです。

そこで今日は,いよいよ日本が終戦を迎えたとき,天皇陛下御自ら国民へ終結宣言がされた終戦の詔勅「通称:玉音放送,以下同様」について記事にしたいと思います。きっと,私たちくらいの若い年代の人は,玉音放送と云ってもおじいちゃんやおばあちゃんから聞いたことがあるくらいの話だと思います。しかし,この玉音放送には,昭和天皇の祈りのメッセージが込められていて,さらに,天皇家の御祖神である天照太御神そして,歴代の天皇への謝罪の意も込められている御言葉だと私は思っています。あの玉音放送を昭和天皇はどのような御気持ちで国民に向けて語られたのかを想像すると胸が痛くなります。それぞれの各人が素直な心柱で感じ取って頂ければと思っています。

その玉音放送で読まれた文書の中に「耐えがたきを耐え 忍びがたきを忍び」と云う日本の復興についての御言葉はあまりにも有名でありますが,それよりも私は「皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ」と云う御言葉がその意を表しているように考えています。つまりそれは,天津神からもっと言えば,さらに国津神からお預かりし国民「おほみたから」と歴代天皇が守り続けてきた祈りを戦争と云う形で失ってしまった。そのことを私はどのように天照太御神と歴代天皇に謝罪すればよいのでしょうかと云った,我が国の最高祭主としての悲痛な言霊でもあると感じています。そのことを想像するだけでも昭和天皇の苦悩とは想像を絶するものであったと思います。天皇はありとあらゆる祭祀を司る最高祭主であります。

以前にも記事にさせて頂きましたが数千もの間,歴代天皇は,なぜ我々国民の平穏と幸せを天照太御神へ毎日祈り続けるのでしょうか。

もし宜しければ読んでみて下さい「伊勢神宮1300年続く 永遠なる祈り」と「伊勢神宮と出雲大社 国津神と天津神 」です。

すべての祀り事,祭祀を司る立場にある最高祭主の天皇陛下が天照太御神から預かった国民「おほみたから」を戦争と云う最も神から遠く,神の神意に叶わない方法で失うことへの想いは,玉音放送にも「五内爲ニ裂ク」とありますように我が身を引き裂かれる思いであったに違いないと私も考えております。政治と云う祭り事の最高責任者と国家国民の安寧を祈り続けることを使命とする最高祭主として戦争へと突き進んでいった史実は隠された秘め事もたくさんあるのであろうとも想像しています。又,玉音放送に至るまでの過程においても様々な人の思惑や思想,信条が入り交わり終戦の詔勅が作成されたのだと考えますが,決して昭和天皇の意思のみで戦争へ突き進んだのではありません。

神道が戦争を誘起させたと云う所謂,左派の皆さんはもっと勉強して頂きたいと思います。左派の論客が主張している国家神道が戦争をさせたと言わんばかりですが,それはぜんぜん違います。一部の軍人が,天皇と神道を利用して「戦争」国家神道を確立させたのです。

そして最後の箇所に「國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ」と語りかけられております。国とそれぞれの一家の子孫にも絶えなく伝え,語り続けて行き,確固たる神の国は不滅であることを信じ,これからの復興がとても遠い道のりであることを皆が覚悟し,国家国民が総力を挙げて将来の建設に傾けて常に正しい道を歩み忘れず,世界の流れに遅れることがないように固く決意しなければなりません。ひとり一人の国民は,私の意をよく理解して行動に移しなさいと語られております。つまり,この戦争でのさまざまな出来事や事柄を将来の子供たちへ絶えなく伝え,語りかけて行くこと。そして,日本は神の国であり不滅であることを信じて,国と国民の復興を国家国民が総力をを挙げ,叡智を結集し新しい日本の建設を道徳と努力を忘れずに歩んで行くことが天皇の意であると私は解釈しています。

玉音放送「終戦の詔勅」から今年で,71年目の終戦祈念日を迎えます。戦争を経験された人もだんだんと少なくなって行き,伝え語り継ぐ人たちも少なくなっています。そんな時代だからこそ今一度,戦争の残虐性と恐ろしさをいま生きている私たちが後世へ伝えることが大切であると思っています。ちょうど現在,憲法改正の議論と集団的自衛権の議論が盛んになっています。これは,昭和天皇と先の大戦で犠牲になられた御霊からの伝え,語り続けるを忘れてはならないと云う重要なメッセージであるとも私は考えております。この国は,五穀豊穣を祈る国なのです。太古の昔から和と相互扶助が生き残る唯一の道だと云うことは過去の歴史が証明してくれています。理屈に騙されてはいけません。

学歴と偏差値,相続によって仕掛けられ来たのです。そんな仕掛けに騙されないで下さい。平和ボケだの右翼だ左翼だと云う無責任で破綻した理屈(理論)はどうでもよいことです。そう言った決めつけこそが戦争を仕掛けたい人や国民を分断したい人たちの想いや仕掛けであります。その仕組みにまんまと嵌められて行った歴史に学ぶことこそ昭和天皇の意に沿うものであると思います。それを論じる前に,私たちの先祖が尊い命を掛けて引き継いでくれた御恩は何としても忘れてはならぬことであります。

花咲 あさひ 拝


昭和天皇 終戦の詔勅に秘められた祈り 1

2019年11月17日 06時26分34秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

こんにちは。

以下の記事は,3年以上前に掲載した記事ですが、再度掲載します。

毎年,この時期になるとお中元のお届けも一段落し,8月のお盆に備えて今年の神様への御酒の銘柄選びや御先祖様への御供物の献立を考え始めます。又,他にも71年前に迎えた終戦を祈念し始める頃でもあります。日本は,世界で唯一,原子爆弾を落とされた被爆国であります。いくら戦争と言っても罪もない人たちを無差別に殺傷する残虐性にただ茫然と祈りを捧げることしか出来ない自分にもこんなので良いのでしょうかと不甲斐無さを感じてしまいます。先の大戦でお亡くなりになった御霊は天国で今の日本をどのようにご覧になっているのでしょうか。サミット後のオバマさんが被爆者と抱擁されている様子を拝見し複雑な思いが致しました。

その複雑な思いとは,こんなにも時間を必要とするものなのかと云う思いでありました。国としての姿勢や大統領としての立場,国益も考えて行かなければならないことはあるのかもしれませんが,そっと,献花と礼拝くらいは70年を待たずに出来たのではないかと思っています。戦後70年ですから原爆を体験された被爆者もどんどん亡くなってしまっています。一度でもいいからアメリカの大統領が祈りを捧げてくれる姿を観たいと感じていた方も多かったのではないでしょうか。それと,もうひとつ,東京大空襲を計画立案したカーチス・ルメイさんに対し,日本国政府は戦後,勲章を授与しています。正直言って,返して頂きたい。

戦争は人が人を殺し合うものです。そこには,兵士個人の一切の感情や人間心を持つことは出来ませんし許されないことであります。しかしながら,勲章は必要ないと私は考えます。東京大空襲の当日,東京の下町一帯にB29爆撃機が最初に決行した作戦は,下町全域を囲むように高さ数十メートルの巨大な炎の壁をつくり,住民をその炎の壁の中に封じ込める作戦を実行しました。当然,住民は逃げることなど出来ません。炎の壁の中に封じ込められた住民を次に,B29爆撃機は超低空飛行で接近し機銃掃射で目視できる住民を徹底的に射殺しました。お年寄りであろうと,女性であろうと,子供であろうと関係なしに射殺して行きました。

逃げ遅れた人々は,学校などの丈夫な建物へ避難しましたが,大空襲当日は,千葉県房総半島から入り込む強風の影響で巨大な炎の壁は猛烈な火災旋風と炎の竜巻を発生させありとあらゆる建物を焼き尽くして行きました。そうしたことも事前にカーチス・ルメイさんは本国の実験場で計算しており,下町の建物を破壊するにはどのような作戦が最も効果的で効率的であるかを繰り返し実験していました。その実験の成果は的中しました。計算通りに作戦は実行され作戦成功が本国へ届けられます。

大空襲の翌日,日本の大本営はあまりの悲惨さに昭和天皇の現地視察を拒みましたが,昭和天皇は自分の眼で現地の戦場を確認すべきとし,視察を実施されましたが焼き尽くされた人々を軍関係者の手によって大きな穴を掘り,その穴に無雑作に放り込みしたのです。その遺骨が未だに道路工事で重機を使い穴を掘ると発見されています。戦後71年を経過した今でもです。

戦後しばらくした頃だったと思いますが,新聞記者がカーチス・ルメイさんへインタビューした際に,東京大空襲をなぜ計画したのか訊くとカーチス・ルメイさんは「我々は,日本の軍事工場を破壊しただけだ」「日本は女子供でも工場で働いている」「その軍事工場とは下町の民家の中に多数ある」と話していたようです。いずれにしても罪もない人々をたった数時間の間に数十万人と云う大量殺戮を計画立案した元敵国兵に,我が国の政府が勲章を授与するなんてとんでもない話であります。戦争と云うものは,そういうものなのだと言われてしまえば返す言葉もありません。確かにその通りかもしれません。兵士同士が憎み合っている訳でもありませんし,恨みもありません。相手の兵士に待っている家族がいるんだなんて道徳的に考えていたら自分が殺されてしまいます。

過去の歴史に学ぶことは誰であろうと大切な事であると思っています。政治家だけではなく,私たちも含めて先の大戦を後世へと語り続けて行かなくてはなりません。決して忘れることなく,きちんと御伝えできるように私もたくさん勉強して次の世代へと伝える御役ができたらと思っています。今日は本題のテーマと記事の内容が違いますが,明日にまた本題を書きたいと思います。

先の大戦でお亡くなりになられてしまった御霊へ心よりお祈り致します。

合 掌


床の間を大切に致しましょう。

2019年11月16日 05時55分11秒 | 感謝の心柱

こんにちは。

昨日は,お客さんから土地についての相談を受けました。その御方「以下,Aさんと言います」は,少しだけ霊感があり,子どもの頃から実家で起こる霊的な現象を体験されて来たようです。わたしは霊能者でもありませんから霊事についての相談だけ受けると云うことはありませんが,仕事を通じて霊的な話しはよく耳にすることがあります。今回の相談もそう云ったことでありました。そのAさんは,人より少し霊的な感受性が強く,現在,実家を離れ,結婚されて夫婦で暮らしているごく普通の生活をしている人です。

しかし,ここに来て,実家に戻って家を建て替え,介護施設で療養中の母親を面倒を見たいと云うことであったのです。事案の詳細を書く訳には行きませんが,介護が必要となった年老いた親を自分たちが実家に戻って一緒に暮らすと云う話しは,今の時代に良くある話です。わたしもお話しを伺うために2度ほど,その実家を訪問させていただきましたが,最初に伺った際,実家の前に自動車を止めて家の方を観て見るとなんとも寂しい感じがします。何か訳ありであることが直ぐに判りました。人が住まなくなった建物と云うのは,劣化現象が人が住んでいるよりもはやくなるのは,他の仕事でもなんども経験がありましたから承知してはいました。

ただ,外から建物の外観を見ても一箇所だけ光って観える場所があるのです。

ですが,若干ややこしい事に,その実家の土地と云うのが借地権付きであって,Aさんの親の名義ではないのです。つまり,土地は他の人の名義(大家さん)で建物だけがそのAさんの親の名義なのです。そこで,前から面識のある私にどうしたものかと相談に来られたと云う経緯であるのです。こう言った所謂,借地権付きの処理に纏わるケースが多くて,紛争になってしまうことも度々あるのが現状なのです。これから相続の事案が増えて行くとそう云った借地権の処分に対する問題も同時に多くなって行くことだろうと感じています。たとえば,空き家の問題であったり,買取請求権の行使であったり,建物を壊す原状回復の問題であったりです。

今回のケースは違いますが,お寺が大家さんになっている場合も多々あります。

Aさんは,実家の中に私を通し,いろいろと自分の気持ちと実家再興プランを私に説明をして行く中で,子どもの頃から体験して来た不思議なことも話し始めました。わたしからすると,家の前に自動車を止めたとき,既になにかある感を感じ取っていましたから,あらためて驚くこともありませんでした。ただ,やっぱりなと云う感想しかありませんでしたが,Aさんの話しに未だ全部話していないなと云う気持ちだけが残っておりました。つまり,母親を実家で介護したいと云うことが本心なのか?と云うことです。

先ほどの外から見ると光って観える場所は,家の中に入って確認すると実は,床の間のある部屋でした。2年前後も人が住んでいない家ですから,家の中はホコリも凄く,暗く冷たい感じがしていて,その暗く冷たい気が家全体を覆っていました。ですが,床の間のある部屋だけは別格なのでした。人の気配がするのです。つまり,その床の間のある部屋だけは,普通に誰か暮らしている気が漂っているのです。しかも,明るく,温かい気の感じを受けます。わたしは仕事で伺っているので,そのことを話したりすることはありませんでしたが,やはり,床の間と云うのは霊的にもちゃんと意味があり,別格だとあらためて思い知ることになりました。

日本家屋では,床の間は,家の中で特別で神聖な場所であります。

これから新築を計画されている方は,小さくても床の間をお祀り(造る)させて戴いた方が良いと思います。

本当は,まだまだ迷いと不安の渦中にあって,わたしにここでは止めた方が良いですよと背中を押して貰いたいのではないかと云う思いが私にはありました。これはあくまでも参考ですが,物事が上手く行く場合には,ある共通することがあるのです。それは,迷わないと云うことであります。迷いがあると不安心を芽生えさせ,現実的に不安になるような事を呼び寄せてしまうのです。過去に書いた想念と具現の記事を参考にして戴ければと思いますが,自分の想念がものごとを具現化「現実化」してしまうと云う訳です。

あらためて床の間の大切さを知ったお話でした。拝


古神道 心神とともに。4

2019年11月13日 02時58分21秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

また郵便局での配達のアルバイトが忙しくなってきました。

ブログの更新も出来るかどうか・・・。

さて,時間の短縮に伴って,これまでよりもさらに月日の経過が速く感じる今日この頃です。爪の伸び具合も増々早くなっております。今では1日の時間が10時間を切ったように感じています。わたしは,この時間の短縮と云う現象がこれから医学の世界にとても影響して行くのではないかと前から書かせて戴いて来ました。それと良質な水と正しい食事と身のまわりの掃除「整理整頓」を意識的に実践して行くことで自己治癒が出来るようにも感じて仕方がないのです。理由なんてもちろんありません。ただいつもの直感です。

心神からのお知らせであろうと思っています。

逆に申し上げますと,火や熱を使用しない水道水と加工食品や農薬ばかりの食事,散らかって掃除が出来ていない部屋にいると病に罹りやすくなるようにも感じています。そう云った良くない環境で,先日も書かせて戴きました古神道の秘儀である自分の霊体を拝する「自霊拝・自励拝」や毎朝の太陽拝「日拝」を実践しても変な言い方ですが効果はあまりないようにも感じているのです。

やはり,日常生活と云う修行の中において基礎基本が整った状況で,何万年と続く古神道の諸々の秘儀を実践してこそだと思っています。ことのついでに書かせて戴くと,朝早い時間の空気の入れ替えはとても良い気がします。わたしも毎日実践しています。夏場は,明るくなるのが早いですから5時30分頃から30分前後,玄関と部屋の窓を開けて清々しい空気と交換しています。寒い冬場は,5時半ごろだと未だ外も暗いですから外が明るくなってから新鮮な空気の入れ替えをします。古神道的に云うと風の神さまの御力をお借りして,場の悪い気「気枯れ」を祓い,場「部屋」を清めると云う祓清めとでも申し上げておくことにいたします。

わたしのアパートの玄関は,ちょうど地図で観て見ると富士山と白山から吹いてくる風の合流地点線状にあります。富士山から吹いてくる風と白山から吹いてくる風が玄関から入って来て,部屋を通り抜けて東の窓から出て東の海へと吹いて行きます。そう考えると贅沢な場所で暮らしていると思っています。東に窓がある部屋は,太陽神が朝一番に部屋の中を照らして下さいますから風の神さまと太陽神の本物の御力をお借り出来ます。しかも,日常生活の中での実践であります。これこそ古神道そのものであるのです。

大自然と自然の神さまの祓清めですからそのような立地で暮らせることに感謝の念が自然と湧き上がってくるときでもあります。神棚の向きをインターネットでよく解説しているものを拝見しますが,自然の摂理に従うと自然に北か東北(鬼門)に設けることになります。神社や寺院の配置も北を拝するようになっています。自然と共に共生し共栄して行く生活と云うのは,そんなに難しいことでもないのかも知れません。ただ私たちが難しく考え,ややこしくしているだけだとも感じています。古神道と云うのは,大自然の理に則したものです。神と人が一体となることこそ本当の道であります。古神道では,それを惟神「神人合一」と申します。

わたしたちの心,高天原の心御柱宮 心神とともに。拝


古神道 心神とともに。3

2019年11月12日 02時44分59秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

松下幸之助さんは,とても信心深く神社や寺院に多額の寄付をされて来た人でも有名であります。きっと,学歴もなく病気がちであった自分を世界的な企業にまでさせてくれたのは神仏と先祖のおかげであることを誰よりも御存知であったのではないかと思います。少し事業が上手く行きだし,お金にも恵まれて行くと人は誰しも自分の力だと勘違いを起こしてしまいます。

これは,悲しいかな人間の持つ性(さが)なのかも知れません。ひとつの企業が成長して行く過程において,たくさんの人の支えがあってはじめて成長できるものです。そこには,企業競争に敗れた相手とその家族もたくさん存在しています。当然,努力が実らずに定年を迎えた人々,途中で挫折してしまい終えた従業員も居たはずであります。そんな人たちのある意味犠牲の上で企業は成長して行くのですから,経営者は常にそのことを忘れてはならないのではないのでしょうか。そして,そう言った物事に対する姿勢が経営者の人格を磨いて行く様にも感じています。敗れた相手,忘れ去られた人々を決して忘れない考え方は和の基本姿勢です。

松下幸之助さんが実現したかった社会とは「和の仕組」だと私は感じています。何よりも素直に生きることが大切であると以前,松下幸之助さんの本を読んで書かれていたことをよく憶えています。確か,本のタイトルは素直な心に成るためにだったと思います。又,松下幸之助さんは,将来日本の為に活躍できる人材を育てる目的である塾を創設させました。そこで様々な事柄を学び教育されますが,私が一番感心したのは「掃除」にありました。なんでもその塾では,やる事がなければ掃除をしろと言うことが徹底されているようです。きっと,掃除の持つ御力をよく知っていたからではないかと思います。アップルコンピューターの創業者であるジョブズさんもマイクロソフトのビルゲイツさんも掃除の持つ御力をとても理解されていました。これは本当にその通りであります。

禅をこよなく愛した松下幸之助さん,ジョブズさん,ビルゲイツさんならではの考え方でもあり,非常に実践的なことであるとも思います。掃除は禅の基本で根本と言っても良いかも知れません。福井県の永平寺に行くと深夜1時から若いき雲水が懐中電灯を額に着け一生懸命にただひたすら掃除をしている場所があるのです。その中でも特に,水と水回りの掃除はとても大事であります。つまり,水が流れ出る場所です。私たちが暮らす個人の家においても同様であります。浴室や洗面所などが汚れるとその家に住む人の健康や運気に悪いと古神道では言い伝えられています。水は穢れを流し,掃除には祓いの御力が込められているのであります。

今日は,なんだか常日頃から私が考えていたことを先人も同様に考えていたんだと云うことで,松下幸之助さんを記事にさせて頂きました。そして,先人から背中を押して頂いている気がして嬉しくもなりました。やはり,いつどんな時代であろうと和が基本であり,その和の仕組みは,わたしたちが暮らす和の国から始まるのであります。明るく温かいと言うのが人の基本です。暗く冷たいと言うのはやはり可笑しい。人を人と思わず,人を物として来た1つの時代,世の中がもうすぐ終わります。和の仕組みの復活です。

松下幸之助さんに感謝。拝


古神道 心神とともに。2

2019年11月11日 01時24分03秒 | 祭祀と和の国

こんにちは。

わたしたちの心には,高天原と言う神界「心界」が広がっています。その心界に広がる高天原には,鎮守の森があります。この鎮守の森には湖畔もあれば,清らかな水が流れる清流も存在しています。夜になれば満天の星も出現します。言ってみれば人の汗や涙はその清流から流れ出た御神水でもあります。鎮守の森に立つ木々が心柱(こころのみはしら)と云うものです。たとえば,感謝の木や謙虚の木や奉仕の木など「十柱:御神木」が茂っています。さらに,その鎮守の森の奥深くには神さまが坐します御宮(御正殿)があるのです。こちらが今日の表題でもある心御柱神社(しんのみはしらじんじゃ)と申します。この世とあの世を繋ぐ神社です。

そして,その心御柱神社に御祀りされている神さまは心神(しんしん)と言う根源神から派生した神さまです。産土の神(うぶすなかみ)と云う言葉を聞かれたこともあると思います。わたしたちがこの世に誕生し,人生を終える最後まで共に歩む尊い神さまで御座います。御座いますと言っても,上記の話は,わたし個人が感じるままに書いていますので,感じ方も考え方も人それぞれあると思います。したがいまして,上の言葉は,私の心柱神社から届いた御言葉と言うわけです。それと,心神(しんしん)と云う言葉は,伊勢神宮「伊勢神道」に伝わる言葉で自己の中に坐します神さまの分御魂を表現する場合に心神と申し上げています。

巷では,いろいろな言葉で表現されているようですが自分なりで良いと思います。

そう云った呼び名よりも大切なのは,自分の心の中に存在する心柱神社に参拝すると云うことであり,それには,自分自身の内面を見つめること,自分の心の中に坐します根源神の分魂を宿しているのだと云うことに気が付くことにあるのであります。外在的な拠り所よりも内在的拠り所こそ人は意識を向けるべきなのであります。過去幾多の宗教家も偉人も先人も最後の最後には,やはり自分自身の心の中に何かを見出して生きて行ったのです。これは,古神道の根本的な考え方です。人の心の中には,誰であっても神さまの分魂が内在しているという意味です。どんな悪人でも心の中には尊い神さまが坐しています。生れながらにして宿しております。

親鸞さんは,悪人正機と云う言葉を残されました。

仕事や家事で忙しく働いている方であっても,自分の心の中の神社であれば,いつでも,どこにいても参拝できると思います。神社で祭祀を司る宮司も,神社をいつまでも守護する護司も自分自身です。他人ではなく,自分自身です。これは他人である第三者には決して出来る事ではありません。自分だけの唯一存在する高天原と心御柱神社を放置し続けると高天原は荒廃し,湖畔や清流の水は濁り,心柱神社は朽ち果ててしまいます。古神道の感覚では,自分自身の心の現れが自分の私生活に現象として現れて来ると云う言い伝えが御座います。一番如実に表れているのが家や部屋の掃除具合だとも言われています。掃除については,またの機会に。

生きることに疲れてしまうのは,それだけ働いている証拠です。

生きることが嫌になってしまうのは,それだけ真直ぐな証拠です。

遠慮なさらず・・・・。参りましょう。