真如堂(真正極楽寺)
比叡山延暦寺を本 山とする天台宗のお寺
日本三如来一つで、長野の善光寺、京都の清涼寺、そして、真如堂の阿弥陀如来と続きます。
閑静な境内に、本堂や三重塔、鐘楼堂などが建ち並び、東山(大文字山)を借景にした「涅槃の庭」が拝観できる
ダ枳尼天 だきにてん
日本最初の稲荷大明神
真如堂、三重塔裏のしだれ桜
たて皮桜 幹の皮目が縦になっている桜の木
金戒光明寺 こんかいこうみょうじ
会津墓地
金戒光明寺境内の北東の小高い丘に建っている西雲院の墓地に 会津墓地はにあります。
京都は、長州藩佐藩などの過激浪士が天誅と称してテロ行為を繰り返していました。
そのため、治安は悪化し、都の人々は震えあがり、安心して眠れない日々が続きました。
江戸幕府は京都の治安を守るために、従来の京都所司代と京都町奉行に加え、新たに京都守護職を置くことにしたわけです。
文久2年(1862年)、京都守護職に任命されたのが会津藩主の松平容保(まつだいらかたもり)だったのです。
当時の会津藩は財政的に窮乏し、また、幕府の権勢が衰えてきていたことから、
家老の西郷頼母(さいごうたのも)と田中土佐は、京都守護職を辞退するように容保に進言します。
しかし、会津藩は将軍家を守護する存在であったことから、容保は止むを得ず、京都守護職に就任しました。
同年12月24日、家臣千人を率いて京都に到着し、
京都所司代、京都町奉行所の出迎えを受けて本陣の黒谷金戒光明寺に入陣しました。
黒谷金戒光明寺は、自然の要塞になっており、御所や粟田口にも近く軍事的要衝の地でした。
しかし会津藩の犠牲は大きく、戦死や病死する者が続出しました。
そこで本陣の金戒光明寺の山上に三百坪の墓地が整備され葬られました。
その数は文久3年(1863)から慶応3年(1867)までの六ヶ年に二百三十七霊を数え、
後に慰霊碑を建立し鳥羽伏見の戦いの百十五霊を合祀しました。
傀儡塚 くぐつづか
変わった形の石碑がありましたが、説明書きの字が薄れ読めませんでいたので
帰宅後 調べてみたところ・・・
伝統人形劇人の鎮魂の碑でした。
傀儡師 かいらいし・くぐつし とは?
江の供養塔
今回の旅は どこへ行っても 満開の桜が出迎えてくれ ラッキーでした!