ぼちぼち歩く旧山陽道

旧山陽道を歩いて制覇する記録です。

山陽道(西国)第41回目(日名内~本郷中学校)

2014-11-19 | 日記

山陽道(西国)第41回目(日名内~本郷中学校)

2014.10.20(月曜日)曇り一時雨

プロ野球は日本シリーズ進出を賭けてソフトバンクと日ハムが今夜最終戦。一方、セリーグは阪神が巨人に4連勝して9年ぶりにシリーズ進出を決めている。定刻の電車に乗り9時02分岩国駅に到着。岩国始発の9時16分糸崎行に乗る。「本郷駅前から11時45分にサテライト山陽の無料送迎バスがあるそうですよ。」と話していた。ところが、瀬野駅で「八本松駅前で踏切事故があり、現在確認をしています。」と車内放送があり約30分停車する。結局本郷駅に着いたのが11時43分。(本来なら11時19分着)急いで駅の階段を下りたが、無情にもバスは目の前を走り去る。「タクシー代を返して」と言いながら、駅前からタクシーに乗りサテライト山陽の駐車場に行く。 着いたのは12時10分。

         

気になる西条駅裏のお寺    本郷駅前    裏の駐車場へ   

サテライト山陽から国道2号線の合流地点までの「やねこい山道」は距離にして約1.5㎞。資料を見ると、「踏み跡も少ないヤブコギ道」とか「雑木や倒木、籔が行く手を阻み道なき道」「入口は大量のゴミで通行困難」「地元の人は旧道がないので国道を行くようアドバイス」等々書かれているが、皆さん全員歩かれているので、勇気を出して歩く事にする。「入口から左手の墓場までが大量のゴミと籔で通行困難。」とあったが、ゴミもなく道の草も刈ってあって歩きやすい。あっけに取られて歩いていると、右手に民家があり地元の人がおられたので事情を聞くと「3年前、市が草を刈ってくれました」との事。ただ、ひげの梶さんの本に夏場はマムシに注意とある。「10月の中旬なのでマムシはいないよね」と言いながら歩いていると黒いヘビを発見。少し行くと今度はトグロを巻き鎌首をもたげやる気満々のマムシ。女性達はすっかり恐れ「ヘビは後を追っかけて来ないよね…」と足元ばかり気にしながら1.5㎞の山道を35分で歩いた。

         

「3年前、市が整備しました」    マムシを気にしながら    国道2号線と合流  

国道2号線を5分ばかり歩くと、右手にラブホテルの施設が見えてくる。タクシーの運転手さんが「この付近は追分温泉でしたが、全部廃業になりました。」と話されていた。その先、国道に竹原道の標識が架けてある。左側に追分のバス停。追分という名前は竹原道との追分という意味らしい。そのバス停の先を左に入り山裾道を歩く。

            

追分温泉   追分は竹原道との追分という意味?   追分バス停

10分位行くと、右手に本郷町観光協会の建てた「歩いて見よう歴史の散歩道」と書かれた案内板と、その横に「市史跡 二本松古墳」の看板があった。左山手は宗長神社(通称 南方神社)である。宗長神社の境内には「三原市指定史跡・二本松古墳の石棺」がある。(石段がすごいので女性陣は下からの参拝。)

            

案内板    宗長神社の鳥居   内にある二本松古墳の石棺と石燈籠

13時15分、神社前の芝生に座り、持ってきたおにぎりをほおばる。15分休憩。そこから少し歩くと、右側の民家の庭先に石碑があった。その先左に「県史跡 貞丸古墳」の大きな看板がある。

                

宗長神社前でおにぎりを…   民家庭先の石碑   貞丸古墳の大きな看板

看板の所を左に入って行くと大日堂がある。ここには貞丸1号古墳・2号古墳がある。1号古墳は大日堂の西側にある。古墳の手前に説明板と音声案内があったが、音声案内は故障して聞けなかった。埋葬施設は南に開口した横穴式石室で、双方の築造年代はいずれも6世紀末。県指定の史跡である。2号は40m上方の丘陵斜面にあったが、石室前部は破壊され、玄室内の石棺も残っていないが、この家型石棺は分解され、蓋石は大日堂入口の記念碑の台座に利用されているものではないかと言われている。

          

大日堂    石碑の台座に石棺の蓋   貞丸1号古墳   2号古墳

 山陽道から少し外れるが、次の御年代(みとしろ)古墳に行くためにそのまま山裾の道を10分程歩く。御年代古墳は1895年(明治28年)国道改修工事により発見され、昭和8年国の史跡に指定された。石棺は屋根型で非常に優美に削られている。内部から発見された副葬品は国立東京博物館に収められている。御年代古墳から少し引きかえし山陽道に戻る。そのT字路に「御年代古墳」と刻まれた石柱があり、その先国道に向けて「国の史跡 御年代古墳」の大きな看板が建っている。 

          

のどかな田園風景   御年代古墳    御年代古墳の石柱   大きな看板

その先に「南方(みなみがた)村 村役場 農業会 農協 之跡」と刻まれた石柱と、すぐそばに水色の古い木造二階建ての家がある。明治22年此の地に村役場が置かれ、昭和29年本郷町に合併されるまで、当館は地域の中心施設となっていた。現代は「みとしろ文庫」の看板が掛かっている。この道筋には史跡の案内標識や看板が沢山あり、観光協会の力の入れようが分かる。

           

南方村役場跡の石碑    南方村役場跡    案内板や看板が…

すぐ先、右側土手に五体の地蔵がおられる。一歩さんの資料には反対側に四体の地蔵がと書かれてあるので探すが見つからない。地元の人がおられたので「四体の地蔵さんは何処にありますか?」と聞くと「えっ、そんなのがありますか。あ~そういえば」と言われて、手前の脇道を少し入った山裾の四体の地蔵さんまで案内をして貰う。「この辺は、裏山や田圃の中から沢山の土器が見つかりましてね。みんな市に寄付をしました。」と話された。右手の田園風景(何処でもそうなのだが綺麗な稲刈り跡の田とセイタカアワダチソウに覆われた田)を眺めながら、少し上がっては下る山沿いの道を歩く。ここにも秋の味覚栗のイガが落ちている。

         

五体の地蔵      山裾にある四体の地蔵      栗のイガ

10分程行くと左に小さな地蔵堂があり、その先右に梨羽高等小学校跡の石柱がある。少し先のT字路の角に祠がある。その前のぶどう棚の上に、ハヤブサらしき剥製?よく見ると写真だった。他にカラスに見立てた?黒い布。「こんなものでカラスが逃げ出すのかな?」と思わず呟いてしまった。

         

地蔵堂   梨羽小学校跡の碑   T字路角の祠   ぶどう棚の上にハヤブサ?  

道を下ると梨和川と尾原川の合流地点に、橋が架けられている。橋名は二羽橋(ふたばやはし)という。この橋の西側(橋を渡る手前側)にかつて一里塚があったらしい橋を渡った前なのか後だったのか記憶にないが、橋の付近に「梨羽城跡」と書かれた看板があった。赤い矢印があるので、それを目印に山に向かってシャッターを押した。「なるほど、いかにも山城が建っていそうな山だ。と感心をする。橋を渡ると川土手に、西国街道と三次道への分岐を示す道標があるが、ガードレールで見えにくく写真も撮りづらい。その上、何が刻まれているのか分からない。20分程歩くと、右手の川沿いに河川改修の大きな石碑があり、池田勇人書とある。池田勇人書の石碑は、西条加茂鶴吉富蔵の横にもあった。池田勇人は「所得倍増論」を唱えて登場した広島県出身の総理大臣である。すぐ先、左の本郷中学校の手前に「県史跡 梅木平(ばいきひら)古墳入口」の大きな看板がある。 

         

道標   梨羽城跡    池田勇人書の石碑   梅木平古墳の看板

梅木平古墳入口を左に5分程歩くと、正面に宮川神社(山王社)がある。神社の石段の左側に「広島県史跡 梅木平古墳」の石柱と古墳の説明が彫られた石碑がある。その説明文を読むと、「県内最大規模を誇る横穴式石室をもち、墳丘は円墳であったと推定される。」6世紀から7世紀初頭の築造ともいわれているとのこと。

       

宮川神社(山王社)    石柱と石碑    梅木平古墳

梅木平古墳から入口の看板まで戻って来たのが15時30分。帰りの電車は本郷駅を16時9分なので、今日はここで終了。タクシーを呼んで本郷駅へ。

  本郷駅前

 

今日のコースは6.3Km          (広島県の計105.4Km 総計270.5Km)

参加者   S夫婦とM夫婦の4人


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