手づくり漆器 ~うるし うるおい うるわし~

鳥取の漆職人がお届けします。

林 益堂 鳥取の絵師

2010-04-26 07:50:21 | Weblog
林 益堂(はやし えきどう)(1903~1993)。日本海新聞の
未来への記憶シリーズに、写真家池本喜巳さんの益堂さんの穏やかな
姿をとらえた写真が載っていました。

智頭の家に、益堂の書いた色紙や軸があります。何気なく飾ってあって
初めは知りませんでしたが、益堂という智頭の絵師が書いたものだと
聞いていました。

益堂さんは、義祖父と友人でよくお茶を飲みに来ていたそうです。

義祖父は、漢詩を作る人で漢詩を書いては益堂さんに水墨で、それに
あった絵を書いてもらったりしていたそうです。

素朴な南画家は、智頭の家から見える那岐山を描いていました。

益堂さんを見たのは初めてで、白いひげの穏やかな表情の益堂さんの
写真に、私の印象は変わりました。



吉田 璋也について

2010-04-24 09:10:09 | Weblog
鳥取市政120年を記念して、鳥取市人物誌きらめく120人
という本が出版されました。

244pに、吉田璋也の「民芸 美による社会改革」という題で
書かれています。

鳥取の人であれば、殆ど知らない人はいないと思いますが、
この方の残された業績は、今思うと偉大なものであったと
つくづく感じます。

吉田璋也は、大正デモクラシーの時代学生でした。うら若き
熱血あふれる青年だったのです。

白樺の運動に共鳴したとありますが、当時の白樺には後に
有名になる方々がひしめき合っていました。

白樺の会員柳宗悦との出会いが、彼の生涯を決定付けるのです。

交友が幅広くて、河合寛次郎、志賀直哉、大原総一郎
(大原美術館を創設)濱田庄司他多数。

現在 鳥取駅前の「鳥取民芸美術館」に行けば、その面影を
しのぶことができます。

昭和7年「たくみ工芸店」が鳥取市に開店。昭和8年東京銀座
に東京支店を開店、日本民芸館、日本民芸協会と並び、全国に
広がる民芸運動の一翼をになうことになります。

吉田璋也は、鳥取の民芸を指導し自らプロデュースして、
優れたデザインの新作民芸を作り出して行きました。

また、鳥取砂丘の天然記念物指定、鳥取城跡史跡指定、
湖山池の自然景観遺跡の保護、仁風閣の保存運動はじめ、
優れた自然や歴史の文化的遺産の保護及び発掘をしてい
きました。

吉田璋也には、明治人の気骨に満ちた武士道的精神が、
培われていたのでしょう。

今の鳥取に、2代目吉田璋也が現われることを切に願うもの
です。





鳥取の塗師 平井照堂

2010-04-22 07:19:24 | Weblog
朱で塗られた 丸いお膳があります。

布張り仕上げで5枚が1組です。

これを塗った人は、平井照堂という鳥取の塗師でした。

この人を良く知っている方がいて、褒めていました。

鳥取の塗師では、照堂はいい腕していたと・・・。

どこと無く気骨あふれるお膳です。

戦後、苦しい時代を塗師の仕事で生き抜いてきた人の
一人です・・。



銘々皿の修理

2010-04-20 07:42:46 | Weblog
ある方から、随分古い型の銘々皿の修理を頼まれました。

5枚組で、骨董屋で買ったそうです。

裏側は、潤み塗りで布張りがしてあり丁寧な
作りです。

調べてみたら、江戸時代末期(幕末)ごろのもののようでした。

きちんとしまわれて管理されていたのでしょうか、漆の具合は
一部ぶつかって剥がれているほかは大丈夫でした。

修理して、このようになりました。

 大事なもので壊れて困っている方は、是非ご連絡下さい。

   でんわ  0857-23-3917  会州堂まで





 














父の姿

2010-04-15 07:07:50 | Weblog
父は会津塗りの塗師でした。

手はごつごつして、爪は漆で黒くなっていました。

胡坐をかいて、定盤に向かってひたすら漆を練っていました。

蔵の中は、弱い蛍光灯があって手元が分かる程度の明るさでした。

そのころは、まだ小さかったので、なにをしているのかよく分かり
ませんでした。

しかし部屋には、独特の漆の臭いが沁み込んでいて、記憶の中に
その臭いが沁みこんでいます。

仕事が終わると、よく釣りに行っていました。
仕事道具と同じくらいの釣り道具が、やたら多かったです。

私は、父のスクーターの後ろに乗せられ、一本竿は20本ほど
スクーターに縛り付けられ、人里はなれた穴場に連れて行って
もらいました。

鮒釣りです。 川の淀んだところに陣取って、持ってきた竿をあち
こちに仕掛けるのです。

鈴の付いた竿は、当たりがあるとチンチンと鳴るのです。

真ぶなやへらぶなですが、びくにたくさん入れて帰ると、
母がそれを甘露煮にしてくれました。

私が小学校のころの思い出です。今年で、父が亡くなって7年、母が
亡くなって17年になりました。

5月ごろには、会津に帰って墓参りをしようと思っています。


















松田権六著  うるしの話

2010-04-14 07:40:49 | Weblog
私の手元に、松田権六著 「うるしの話」の岩波新書の
古い本があります。1974年発行の本らしい・です。
初版は、1964年。

ページの紙は、日焼けしていますが・・・。  

この本は、蒔絵師 田中稲月さんの仕事机の引き出しの中に
入っていました。

私も、この本を随分前に本屋から買って読んでましたので、
田中さんもちゃんと読んでいたんだなあと感動したことを
覚えています。

松田権六が、60歳を超えた時に書かれた本らしいです。

日本の漆は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が
山に狩りに行った時、偶然美しく紅葉したある木の枝
を折った時、その木の汁が皇子の手につき黒く光った。
 皇子はその汁を採らせて、自分の愛がんの器物に塗
らせたという。(色葉字類抄 巻5)と書いてありました。

日本の漆の起源について書いてあるわけですが、古代の氏族
制度の中で、漆部もあったと記録されていますので、想像する
以上古くから発達していたのだろうとこの本には書いてあります。

松田権六の、漆について後世に残した大変貴重な一冊です。

根来塗り

2010-04-13 07:50:01 | Weblog
ねごろぬりと呼びます。

根来寺は、紀州(和歌山県)岩出にある真言宗のお寺です。
建立年は、1130年(平安後期)になります。

室町末期には、寺領72万石僧兵1万余名いたそうです。
これを根来衆と呼びます。

真言宗の総本山として君臨した根来では、火縄銃の製造
により鉄砲隊を形成、織田信長、豊臣秀吉に抵抗。1585年
豊臣秀吉によって、有名な根来寺焼き討ちにあいます。

根来では、鉄砲のほか有名なのは漆器の製造です。
朱色がはげて、中から黒漆が見えるあの器です。

焼き討ちにあって、多くの工人が地方に逃げて行きました。
北陸の能登であったり、東北であったり薩摩であったり・・。

全国に逃げ延びて行った工人が、その後その地で漆器を
定着させていくのです・・。

根来塗りといわれるのは、紀州根来寺がルーツであるのです。




合鹿椀

2010-04-12 15:59:38 | Weblog
ごうろくわんと呼びます。

歴史は、室町時代といわれています。

石川県能登、合鹿地方で作られたものです。

通常の椀より高台が高い。 床に置いたまま
食事ができるようになっています。

黒や朱で塗られていて、なんとも魅力のあるお椀
です。