手づくり漆器 ~うるし うるおい うるわし~

鳥取の漆職人がお届けします。

薩長閥と民主党 

2010-11-30 21:04:33 | Weblog
最近日本がおかしい・・。

民主党がおかしい・・。 

やることなすことが、歯車が合わない。民主党内も不協和音。

国家理念がずれてるから恐ろしい。

 倒幕を目的として集まった薩長軍。鳥羽伏見の戦い以来、次々と薩長軍に降参し新政府軍に加担した西国諸藩。

戊辰戦争で、幕府側諸藩は降伏。終焉。

時代が変わった。廃藩置県、版籍奉還、四民平等・・。

しかし、政府政策の中身には、はっきりしたこの国の形が無かった。
どういう国にしたいのか・・どうするのか具体策は無かった。

あったのは、倒幕・・尊王攘夷のみ。 あまりに、空しい革命戦争だった。

そして実権を握ったのは、西郷 大久保 木戸を中心とした薩長閥。財源も無し。政策も無し・・。 欧米には、さっさと視察団を出すしまつ・。

ちょんまげを切り、羽織袴を捨て、背広に靴、片手に葉巻をもって記念撮影!!

なんだこれは・・。欧米から持ってきた文化を、そのままコピー。晴れやかな鹿鳴館。

無残な戦争をして勝ち取ったものは、日本文化を捨て欧米文化のコピーだった。
欧米列国に追いつけ!!

殖産興業 富国強兵・・。国家予算の50%を軍事費に投入した明治国家。

議会は混乱、国家も混乱。国民の生活は最悪・・。長い間こうした明治が続いた。

 民主党。国民は政権交代に期待と希望をふくらました。

自民党の崩壊は、新しい日本の到来すら思わせた。

しかし、政権とったら内部で政権争いが始まった。沖縄基地問題で、安全保障につまづいた。

やっぱり、寄せ集まり集団・・。国家の安全保障の理念が、党内でばらばらであるのが露呈した。

赤い官房長官。市民運動家の総理大臣。宇宙人の前総理。政治と金の権化小沢。
リーダーシップの取れない幹事長。左も右もいる民主党。
 
中国になめられ、ロシアになめられ、北朝鮮にもなめられ・・アメリカまでにも見放されんとする菅内閣。

政権をとることだけが目的だったのか? 東大に受かって、目的を失い勉強に腑抜けになってしまった学生に似ている。 

最近は、国会冒涜の失言やベテラン議員の皇室に向けての暴言までも噴出した。

政権を命がけで奪い取った薩長。自民党政権を終わらせ、政権交代を勝ち取った民主党。

その後が問われるのだが、負の連鎖が続く民主党は末期症状か?
明治は、それでも45年続いた。 民主党は、政権をとってまだ1年少しである。
それにしても、その時だとしたらあまりにも早すぎる・・。

   
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龍馬伝 最終回

2010-11-29 00:09:59 | Weblog
いよいよ最後の章に入った。

歴史に「IF」はない。しかし、IFを思いたい。

龍馬が生きていたら・・。

今の民主党のように、明治新政府の組織は寄せ集めのようだった。

龍馬は、新政府人事を考えていたようだ・。薩長そして幕府側の人材も・・。
人材登用の大きな考えがあったから・・。

しかし、その中には竜馬の名前が無かった。

上も下もない平等な国を作りたかった龍馬の思いは、無私で純粋でありすぎた。

大政奉還を喜んだもの。恨んだ者・・。その仕掛け人龍馬は、暗殺者の的になった。

出過ぎれば打たれる・・。体制に身を任せれば、生きていける。

250年間武士の世界で生きてきた武士にとっては、龍馬は亡き者にしたい存在。

一人の男の、新しい社会を目指した命がけの行動が、日本を動かしたと言う
事実は事実である。

もし生きていたら・・。あれほど犠牲者を出した戊辰戦争は起こらなかったかもしれない・。

そして、龍馬の考えていた人事で、明治新政府は薩長に偏ることなく、まとまって行ったかもしれない。

優秀な人材が、無駄に死ななくても良かったかもしれない・・・。

龍馬の死後、やはり混乱が生じた。鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争に入っていった。

この戦争で、同じ国の若者がたくさん犠牲になった。


岩崎弥太郎の生き様は、龍馬伝によって知った。それまで、そんな深い関係があったとは知らなかった。とは言っても、あくまでも娯楽番組。ほどほどに見てないといけない・。

いずれにせよ、龍馬の生き方は明治に生きた者たちに、大きな影響を与えたことには
違いない。

中岡慎太郎と最後の場面。いろんなことを話していたが、「わしぁ 脳をやられた・もういかんぜよ・・」「りょうま~~~ 死んだらいかんぜよ~~ りょうま~~~」中岡の搾り出すような台詞が無かった・・。

今まで見た龍馬暗殺の場面とちょっと違ったが、わざとあんまり残虐な演出をしなかったのかもしれない・・。

福山雅治がかわいそ~~というファンもいるだろうから・・。

今の国会議員は、龍馬の爪の垢でも煎じて飲んで欲しい・・。

次回からちょっと寂しくなる・・。

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残すべきものは・・

2010-11-25 22:35:41 | Weblog
幕末で見る、残ったもの 残らなかったもの・・。

私の立場から考えてみた。

「尊王攘夷」水戸藩の根本思想。 水戸藩は、御三家のひとつ一橋家(一橋徳川家)。
 将軍を出すことの出来る家柄。

倒幕の思想の中心に「尊皇攘夷」が掲げられた。天皇を奉り、外国を打ち払う。

大大名徳川将軍を頭に、親藩、譜代、外様大名が幕府を形成。
徳川家は、朝廷より政治を任せられていた。

徳川幕府を守る立ち場と幕府に不満を持ち、幕府を倒し新しい社会を創ろうという立場。

相反する両方の動きは、どちらも歴史である。

薩長を中心とする動き。徳川家を中心とする動き。

坂本龍馬のように、まったく今までの考え方と違った人物が登場する。そして、大政奉還と言う常識外のことを実現した。後の、廃藩置県 議会 四民平等 国民皆兵 富国強兵 教育改革に繋がっていった。

幕府を守る側の思想。武士道による忠誠心。近代兵器に完敗するが、最後まで自分たちのおかれた立場を貫いた。北越戦争の時の長岡藩家老河井継之助。会津藩の白虎隊など。

強い意思と意志がぶつかり合った戊辰戦争。武士道無き近代戦術を貫いた長州。武士道で最後まで生きぬいた会津藩。



明治になり、世の中は徳川政治から薩長の政治に変わった。「あの尊皇攘夷はどうしたの?」「そんなものははじめからなか・・」西郷が言った。「ええ、あれで徳川様を倒したんでしょう!!」「あれは、詭弁でごわす・・」西郷は、当たり前のようにぼそっと言った。

明治政府は、こぞって欧米視察団を結成し、欧米視察に多くの人材を送った。そして、
欧米のコピーをとりあちこちに貼り付けていった。

残らなかったもの、「尊皇攘夷」・・

龍馬が生きていたら、

「おまんら、なにしとるんぜよ・・。戦争はしちゃいかんとあれほどいうたのに・・。
仇をうったら仇で返される・。今までのことが、み~~んなだいなしじゃ・・。まっこと、なんちゃうばかげちゅうが・・。けんど、アメリカ エゲレスの勉強をしたがは、まっこといいことじゃ・・。」「木戸さん、西郷さん、しっかりしと~~せ~よ・・。」

龍馬は、新しい世の中をこの目で見たかったがぜよ・・。

龍馬の生き様は、その後150年にわたり日本人の心の中に偉大なものとして残った。


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ちょっと一息

2010-11-25 07:49:50 | Weblog
龍馬伝・・。大好きなので、毎週見ています。

いよいよ次回は最終回。

龍馬暗殺・・・。 1867年11月15日没。 王政復古 大政奉還1867年10月15日勅許。

大政奉還勅許後、1ヵ月後に京都近江屋で十津川郷士と名乗る数名の男たちに襲われる。

「わしぁは、脳をやられた。もういかんぜよ・・。」と中岡慎太郎に言った。

青春を、幕末の風雲の中でひたすらに走って行った龍馬。33歳・・。

日本を変えないといけない・・。上も下も無い、平等な世の中を造りたい・・。

新政府職制案の中には、龍馬の名前が無かった。西郷は龍馬に問うた。「坂本君、おんしの名前がなかごわす・・」龍馬は笑って言った。「西郷さん、わしゃ世界の海援隊をやるんぜよ・・」西郷は、中に潜む龍馬のとてつもない不思議な力に身震いを感じた。

1867年10月15日 大政奉還勅許
1867年12月   王政復古大号令
1868年1月3日  鳥羽伏見の戦い
        徳川慶喜 大阪城より江戸へ退去
    徳川慶喜を朝敵とする追討令下る
    新政府軍が東征を始める
    徳川慶喜 上野寛永寺に謹慎

    江戸城無血開城 慶喜水戸へ身柄を移される

    3月6日近藤勇 捕縛処刑
    5月15日 上野戦争 彰義隊

     会津攻め 東北進行
    4月23日 奥羽列藩同盟 (25藩)
        奥羽越列藩同盟(31藩)長岡 新発田
    
    7月末 長岡城落城 家老河井継之助
    9月4日 米沢藩降伏
    9月10日 仙台藩降伏
    9月22日 会津藩降伏

    10月16日 榎本武揚 函館五稜郭占領
    12月5日  蝦夷共和国樹立

  1869年5月18日 降伏  戊辰戦争終結


  龍馬の死後、さまざまな混乱があった。しかし、その後攘夷は止め、早々と欧米視  察に派遣し、欧米の国家体制をモデルとした明治国家が出来上がった行く。

    
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良いもの見て心眼を育てる

2010-11-24 10:54:41 | Weblog
漆聖 松田権六の言葉に、「人に学ぶ 物に学ぶ 自然に学ぶ」という名言がある。

読んで字の如し・・。

私は、良いものを見て回るのが好きである。 国立博物館に近ければいつでも
行きたい気持ちである。

しかし地方住んでいる者にとって、そうやすやすとは良いものに出くわすことは無い。

先日、足立美術館に横山大観の画を見に行ってきた。日本画 水墨画の巨匠大観。

あっという間に時間が過ぎてしまった。できれば、一日中でも居たかった気分であった。

今でも、あの画が目に浮かんでくる。

国立博物館で、以前大観の展示会があった時、東京まで見に行った。

やはり凄かった。しばらく、その残像が脳裏にこびりついていた。

一流と言われる作品は、人の心の奥底まで浸透しその心を支配してしまう。

良い作品に触れて、自分の腕をもっともっと磨かないといけないとつくづく感じる。


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山陰海岸 

2010-11-23 22:03:29 | Weblog
天気は、冬を思わせるそんな曇った日。

久しぶりに、浦富海岸に行った。

風も強いし、波も大きかった。

ジオパークになった山陰海岸。入り組んだ海岸と点在する島々。

「松島は松島 浦富は浦富」と島崎藤村は日本三景松島と並び絶賛した場所。

 画家亀田正一氏の、白黒モノトーンの日本海の画そのものである。

今日の海は荒れ狂っていた・・。

海の向こうでは、銃撃戦があったようだ・・。

NHK プロフェッショナル仕事の流儀 絵画の修復家

2010-11-23 09:20:34 | Weblog
久しぶりに「NHKプロフェッショナル仕事の流儀」の番組を見た。

ゴッホやモネ、はたまたピカソの絵画を修復してきた日本女性の修復家の感動的な話であった。

名前は、岩井希久子氏。子供2人。子育てと仕事の葛藤、そして一流の絵画の修復に対する命がけの取り組み・・。

凄いとしか良いようがない。というのは、今の自分には到底出来ないからである。

 ピカソの絵画の修復の場面は、緊張して見ざるを得なかった。

一寸の心の隙を見せたら失敗して、取り返しのつかぬものになってしまう。
昔でいえば、切腹ものである。

岩井さんは、「ホントに怖いです」と何度もいっていた。本音だろう・。

しかし、「怖いです・」と言える人は、逆に自信があるから言えると思った。

「怖い」・・・この言葉の背後には、「よしやってやるぞ!」という岩井さんの、決意が感じ取れた。

設備も良い・・。いいものを手がけるには、全て自信に繋がる環境がそろっていることが、絶対条件である。

久しぶりの番組に、自分自身振るい立たせられた気がしている。


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文化の度合いが地域をつくる

2010-11-22 05:07:24 | Weblog
街づくりといって、全国各地でいろいろと取り組まれている。

最近はB級グルメが流行しているようだ。食文化によるまちおこしである。

私たちは、もう10年以上前から地域活性化に取り組んできた。

結論は、戦略的手法では住民の心は動かないし、ホントの活性化はできないということが分かった。

誇れるもの・・・。この地域を自慢できるもの・・。これによってしか、活性化の風は
吹かないことを実感した。

文化は時代の中で創られ、時代とともに育まれて継承されていくものだ。

しかし、時として政治の道具に使われたり、経済事情が悪くなると蔑ろにされやすい。

「教育は100年の計にあり」という珠玉の言葉がある。

まさに、文化も然りである。

智頭宿は、鳥取藩32万石の参勤交代で最初に宿泊した宿場町である。山陰地方と山陽地方が合流する物流の拠点でもあった。

智頭には、全国からさまざまな人や物が集まってきた。

そして、中国山脈の懐智頭町は、霧の町でもある。そこで育った杉は、日本三大杉と称されてきた。赤みで正目がすうっと通った上品な杉は、昔から人気があり、今でも高値で取引されている。

江戸時代は宿場町、明治以降は杉の町でも栄えた町である。

石谷家の解説
http://www.ifs.or.jp/contents/about.html

石谷は、江戸時代は大庄屋、明治時代は山林経営に携わってきた。一貫しているのは、経営だけではなく地域のために尽くしてきた精神かもしれない。

今に残る建物は、大正時代に建てたれたものだ。

その中には、当時の日本の文化が豊富に詰まっているのを感じる。

今も、地元ボランティアの方々が、誇り高き智頭文化のシンボル石谷住宅を、熱く熱っぽく説明してくれる。

金を使って建物建てて、中身(情熱 誇り)が無いといったまちおこしは、意味を成さない。

文化の度合いが、街の風格を創り、それが住民の誇りになり、自然と自慢できる街になっていく。

目先の方法手段で、まちづくりを考えてはいけない。


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智頭宿 石谷家住宅 庭園一般公開を鑑賞

2010-11-21 22:40:32 | Weblog
これまで、何度となく石谷邸には行っている。

何度行っても良いものだ。

初めて智頭に行った時、あの通りを通るたびに、閉まっている大きな門と建物が気になっていた。

なんだろう? 教会かなあ?とか、よく分からなかったので不思議だった。

そしたら、その建物が山林王石谷氏の屋敷であることが分かり、そのうち一般公開
するまでになった。

入ってみると、やはりすばらしい。吹き抜けに交差する大きな梁が印象的だ。

使っている材がみごと。座敷の書院には、由緒のある掛け軸が飾ってある。

諏訪神社を祭っている山が借景となり、3000坪の大屋敷がさらに広大なものに感じる。

今日始めて、庭園を散策し、茶室で一服立てていただいた。庭園が一番良く見える茶室である。格別の一服だった・・。

真っ赤に色づいた紅葉や、まっ黄色に色づいた銀杏もすばらしかった。

秋のゆったりした昼下がりの池で、錦鯉も優雅に泳いでいた。

日本の文化を守り残された石谷家は、後世に地域の大きな財産となった。


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地元の朝市

2010-11-20 15:34:18 | Weblog
かれこれ6年ぐらいになりますか・・・。

商店街の活性化の一環として始めたのがきっかけ・・。寂れる商店街!!

このままで良いのか!!

町内と商店街がひとつになって始まった。

鳥取の商店街では初めての試みで、希望に満ちていた。

始めは、来場者も300人とか・・。いままでにない賑わいだった・・。

この朝市が、刺激をし駅前の朝市に飛び火した。会議所の青年部が、寂れる秋前アーケード商店街で始めることになった。

しかし、3年前に時代の流れで商店街振興組合は解散。
朝市はどこ吹く風!!  次々と店はシャッターを降ろしていった。

朝市も、解散の浮き目に晒されたが、スタートして3年で止めるのは口惜しいし、あの
熱気とパワーは!!どこに行った!!と言われるのが嫌だった。

朝市は、出店業者の意気込みで生き残った。業者が、組織したのだ。

いろいろなことがあったが、ようここまでやってこれたと、業者の方はもちろん、いつもご来店の地元の方々に感謝したい。

この朝市も、いつまで続くのか・・それはわからない・・。