手づくり漆器 ~うるし うるおい うるわし~

鳥取の漆職人がお届けします。

田中稲月氏と伝統工芸士

2010-10-31 09:06:30 | Weblog
80歳を過ぎた田中稲月さんにこんなことを言ったことがある。

「田中さん、どうして伝統工芸士になっていないんですか?」失礼だったが、これほどの卓越した技術を持っておられる方が何にも肩書きが無かったので聞いてみた。

「わしはそんなのはいらん・・・。」 「さすが田中さん・・。」と心の中で嬉しかった。

下手なくせに名誉だけ欲しい人間も山ほどいる。しかし、田中さんはそんな名誉よりもっと大事なものを追い続けてきたのかもしれない。

「しかし、田中さん。私は、漆の仕事をしている立場上、鳥取に田中さんのような蒔絵職人がいるということを記録に残したいんですが・・・。」と言ってしまった。

続けて、「鳥取は、木地師ばかり褒めて、それ以上の塗師や蒔絵師を何にも知らないし、価値も置いていないんじゃないですか・・。これじゃ、鳥取の文化はいつまでたってもレベルが上がりませんよ・・。」「木地師はあくまで木地師。」と熱くなって又言ってしまった。

田中さんは黙っていた。

平成16年木地師の茗荷定治氏が、鳥取県の無形文化財第1号に認定された。
田中さんと茗荷さんは同級である。

田中さんも茗荷さんに強いライバル意識があった。平成11年に山陰合同銀行ギャラリーで、二人展を開催したことがあった。

長い間会うことも無かった二人が、作品を前に出会ったのであった。

この、茗荷さんの無形文化財認定に田中さんも刺激を受けたのであった。


  次回続く


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警告!!

2010-10-31 08:41:59 | Weblog
当店で漆を買った方が、かぶれたと文句を言って来た。

何のことやら・・あっけに取られた。 82歳の男性。

かんかんに怒って、医者の薬やら見せてどうしてくれるんだといわんばかりに・・。
おまけに「金を返せ」と言ってきた。

「カシューはそんなことが無かった。漆を使い終わったときに、手を洗えとか何にもいわなかった・・。」「ひどいところだ・・。もう二度と来るもんか!!」とありとあらゆる悪言をはいてお金を持って帰って行った。

こういうお客には、絶対売ったらいけませんね・・・。 注意事項もきちんと言ったのに、全部忘れている。 忘却無人・・・ 忘却の人  恍惚の人・・なんでしょね・。

            《警告》

漆は かぶれます。使う前に、手袋して 手に漆がつかないように気をつけて使ってください。 使った後、3日後でも痒みが出たらかぶれです。すぐに皮膚科に行ってください。しかし、漆のかぶれは、数回繰り返すと免疫が体内に出来上がり、かぶれなくなります。職人はほとんどこの経験をしてかぶれなくなっています。

なお、カシューと漆は根本的に違う塗料です。カシューは、さわってもかぶれません。
塗装の工程も、使う材料も違いますので、基本的な知識を得てから漆を取り扱うようにしましょう。


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佐治に隠れた日本一の財産

2010-10-30 04:51:13 | Weblog
佐治村。 鳥取市と合併するまでは「さじそん」と呼ばれていた。

人口も4000人ほどいたという。現在2500人ほど・・。

佐治村時代、ここにはいろんな産業があった。それを物語るキャッチフレーズが、「佐治の五し」である。

「五し」とは、梨(20世紀梨)、石(佐治石)、和紙(因州和紙)、話(佐治谷話)、星(さじアストロパーク)である。

しかし、ここにあと1つ付け加えて欲しいものがある。

漆うるし(佐治漆)である。良質の漆がたくさん採れ、輪島・京都・大阪などに出荷されていた。
 
鳥取敬愛高校の小山冨見男先生が、佐治中学校で講演した時に提案した「五し」だそうだ。

「五し」という立派な財産があるこの佐治に「誇りを持って欲しい」というような講演の内容だったようだ。

染色家の西尾正道さん。佐治生まれで佐治育ち。佐治をこよなく愛する人がいる。

西尾さんは、30年来ここを拠点として「染め」にこだわって作品を作ってきた。

「ここでこそこの作品が生まれる」と誇りに思っていおられる。

昨日西尾さんに会ってきた。佐治は、もう晩秋のような肌寒い気候だった。

「来年の漆掻きのために、準備するため・・」こう心に秘めて、佐治に行った。

西尾さんは30年来佐治漆に関心を寄せられ、10年前には漆の苗を自分の畑に植えてしまった。その漆は、今りっぱに成長している。

私も、佐治漆に関心を持ち14.5年になる。しかし、西尾さんを知らなかった。

昨年、私のことを新聞の記事で知って訪ねてこられた。
それ以来、息が合って佐治漆の復興に前向きに取り組んでいる。

話し外れたが、佐治の合併前の姿を知っている人は、今の現状を嘆いているに違いない。

日本一が、「五し」のなかに隠されているからだ。

質と甘さの面で、日本一の20世紀梨。 奇石として有名な佐治石も日本一。和紙も、因州和紙として習字の和紙としては日本一の生産量を誇る。 質の面では、佐治の漆は絶品と言われていた。

こんなに日本一のものが隠れている場所も珍しい。村おこし、町おこしで全国何を持ってするかに苦労している。

佐治は、わざわざ新しいものを作る必要が無い。

先人の苦労して作ってきた貴重な財産を、もう一度見直してそれを継承すればいいのである。

その晩、敬愛高校の小山先生にあった。「佐治は、良い所だよ。ほんとにもったいない。あの五しは、僕が佐治中学校で話したものですよ。」と思いの深さを語ってくれた。

「西尾君は、高校の同級生なんだ・・。」と言われた時、びっくりしてしまった。

縁あって、佐治に足を踏み入れることになったが、思わぬ人と人との繋がりが見えてきて希望が感じられた。


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蒔絵師 田中稲月

2010-10-29 02:08:25 | Weblog
吉岡温泉町に行くと、今でもハンドルがある方向へ向かう時がある。

田中さんの家だ。「はっ」と気づく。「田中さんはいないんだ」・・・・。

田中さんは、平成19年11月7日に88歳で亡くなられた。あれから、3年の歳月が流れた。

元気な時の田中さんは、黒縁の眼鏡をかけてゆったりしておられた。そして、私が行くと、玄関で挨拶し、「どうぞ入ってください」と言って居間に上がらせてもらってコタツに入っていろいろと話をした。必ずお茶菓子と抹茶を入れて出してくれた。

きまって「あんたはよそから来たのに、よう鳥取でがんばっているなあ・・。大変だろう?」と言ってくれた。

私が田中さんの存在を知ったのは。平成6年ごろJR鳥取のコンコースで漆器の販売をしていた時であった。はっきりとは覚えていないが、並べてあった漆器を丁寧に見てくれていたのをうっすらと覚えている。その時、鳥取で蒔絵をしている人であることを知った。

「え~鳥取にこういう人がいるんだ。」と嬉しい気持ちになった。

私も、田中さんと同じほどの年齢の父親がいた。会津若松で漆の仕事をしていた。父は、塗師であった。父も7年前に亡くなっている。田中さんと父親がダブって見えた。

鳥取は、漆器という産業が無いところだと思っていた。なかなか、漆器というものに関心が無いところなので・・。

それから、田中さんとの交流が深まってきた。
重箱に蒔絵で家紋を入れてもらったり、記念品に名前を入れてもらったり・・。

田中さんの作品は、丁寧で出来上がりがほんとにすばらしかった。
輪島の蒔絵師さんにも劣らないほどの腕前だった。

「だれから教わったんですか?」と聞いたことがあった。「親父から教わった。わしは
ホンとは、美術学校に行きたくて親父に言ったら怒られた。兄弟も多かったので、それどころでなかった。」ゆっくりとした口調で話された。

「そうなんだ・。美術学校に行きたかったんだ・・」と私は心の中で繰り返した。

田中さんの下絵を見せてもらった。ほんとに凄かった。細かい線で描かれた、古典的な
図柄の下絵だった。鶴、花、亀、龍、風景、建物、広重の東海道53次まであった。

「さすが、田中さん」と私は心の中で絶賛した。

しかし田中さんはその時80歳近かった。弟子もいなかった。鳥取では、殆ど知る人が
いなかった。 伝統工芸士にも選ばれていなかった。

その頃、木地師の伝統工芸士 若桜の茗荷定治さんがもてはやされていた。

     次回に続く

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谷口ジロー

2010-10-28 11:22:25 | Weblog
谷口ジローさんが、10月27日の読売新聞に大きく掲載されていた。

作家の川上弘美さんとツーショット。築地の料亭「新喜楽」で写したものだ。

二人の顔が満面の笑みを讃えている。二人の前には、お膳が並べてあり、その上には谷口ジローさんの本が盛り付けされている。 いや~~~満足とでも言っているように・

 谷口ジローさんのマンガは、作家とタイアップしたのが多い。関川夏央さん原作の「坊ちゃんの時代」夢枕獏さん原作「神々の山嶺」、「孤独のグルメ」「ブランカ」
「犬を飼う」。鳥取が舞台の「父の暦」、「遥かなる町へ」などなど・・。

私も、ジローファンで30冊しかないが大事に保管している。

ジローさんの絵のタッチは、きわめて真面目でリアルである。だから、真実が伝わってくるのだろう・・。

そして、ストーリーが非常に良い。何が良いかといえば、今薄れている古き日本人の
心が表現されている。家族愛、友情、動物愛など・・・。

「神々の山嶺」は、エベレスト登頂にかける山男の戦いを描いたものだ。全5巻あるが、どんどん引き込まれてしまって夢にまで出て来てしまったほどだ。

 鳥取出身の谷口ジローさんを、鳥取市は最近やっと認めてきたらしい。
 
こんど鳥取駅前の、ギャラリー「そら」で原本など貴重な資料も展示されるそうだ。


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安積開拓に見る鳥取藩士の武士道

2010-10-27 18:14:29 | Weblog
今から140年ほど前、明治維新によって世の中が変わった。250年続いた徳川幕府が倒れ、明治という新しい世の中になった。約800年続いた武士の時代も同時に終わった。

鳥取藩も32万5000石という大藩であったので、たくさんの武士が鳥取城下に住んでいた。もちろん藩士は、藩から給料をもらっていた。

廃藩置県が施行され藩が消滅、今までの仕組みがまるっきり変わってしまった。当然武士は、解雇。無給になった。 四民平等の時代になったが、なにがなんだか、これからどんな世の中になるのか上から下まで大混乱が続いた。

武士たちの怒りは各地で勃発。明治10年の西郷隆盛を中心とした士族による反乱が薩摩で起こった。この西南戦争は、政府と不満士族の戦争であった。西郷が戦死し鎮圧されたが、ここで決定的に武士の時代は終わった。

行き場を失った士族に対して明治政府は、授産事業として北海道の開拓や福島県安積地方のような原野の開拓を斡旋した。

明治13年旧鳥取藩士は、リーダーの今井鉄太郎を中心に、67戸270人余りが安積地方に移住した。

藩士たちは、刀を鍬に変えて荒れ果てた原野を死に物狂いで開拓した。武士道の精神で、厳しい環境を乗り越えていった。

今から20年ほど前、その子孫の方々が鳥取にある先祖の墓参りにやってきた。墓参である。

先祖の生まれた故郷鳥取を思いつつ、郡山(安積)市から墓参に訪れたのである。

前の県知事西尾邑次氏もこのことに大変関心を示し、協力してくださった。

先祖の残した開拓精神で生き抜いてきた人たちの目には、武士の魂が光っていた。

それ以後、交流が重なり、平成17年11月には 鳥取市と郡山市の姉妹都市締結が結実した。

移住した武士たちに、つらい環境と時代を乗り越えさせたのは、武士道であり、また故郷を思いながらの志を捨てなかった精神に他ならない。

こうして、鳥取にすばらしい精神が残ったことを誇りに思い、これから生きる人たちへの応援歌にしたい。


    鳥取・郡山友の会 事務局 鳥取市川端2丁目211 TEL0857-23-3917

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ローマは一日にしてならず

2010-10-27 08:18:08 | Weblog
「ローマは一日にしてならず。」 有名なことわざなので知らない人はいないだろう。

紀元前地中海周辺北アフリカなど版図を欲しいままに広げたローマ帝国。その首都ローマ。今では、世界の観光地として世界遺産にも登録されている。

行ったことは無いが、テレビの世界遺産番組などで度々放映されているので良く知っている。

あのローマは、一日で出来たのではない。長い年月をかけて、いろいろな時代を経て出来上がったものであるというたとえである。

歴史や文化も、一日にして成らず・・・とは当たり前の話である。

鳥取は、歴史文化の豊かな町と認識している人たちがいるようだが、私はここの生まれではなく会津若松の生まれなのでどうしても比較してしまう。

ほんとに鳥取は歴史文化の豊かな街なんだろうか?

御存知のように会津は文化歴史の宝庫である。建物はもちろん、文化や歴史についてもきちんと小さいころから教育を受けている。

大きくなってもその受けた教育によって、ふるさとを誇りに思っている。
時々帰れば、ふるさとが温かく迎えてくれる。だからふるさとをどうにかしたいと思う。 

この連鎖が、地域を守りいろんな分野で地域を活性化する力になる。

まさに「会津は一日にしてならず」である・・。

歴史文化は、過去のものではなく、現代に至って先人の功績を尊び、それを後世に伝えるために現代人も努力していかなくてはならないものではないだろうか。

過去のものをただ利用するだけのものではない。造り上げて行くものでもある。

また、建物とか文化遺産だけが歴史文化ではない。その中に刻み込まれた先人の精神や思想そして哲学が大切なのではないだろうか。

鳥取市のここ10年間に及ぶ文化事業を見ると、深層部分が欠落しているように感じる。
その証拠として、町並み整備事業に多額の税金を投入しているが、歴史文化の漂う町並み及びその臭いが未だに感じられない。

鳥取砂丘は、全国に知られた国立公園である。最近、砂像事業で活気を呈しているが、これに甘えてはいけないのではないか。

ここにも、歴史文化の漂う街鳥取というキャッチフレーズが暗礁に乗り上げているのと同じ現象がいつか起こってくるような気がする。

鳥取市民は、砂像の全国化より町並みの整備や誇りうる歴史の街鳥取を望んでいるるのではないだろうか・・・。 

「ローマは一日にしてならず。」

だれが何を言おうと、何を後孫に残していくべきなのか・・そこに向かって、街づくりをすることが重要なのではないか・・。


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  次回は 福島県郡山市に移住した旧鳥取藩の子孫の方々についてです。
      お楽しみに・・・。








 

文化勲章 文化功労者

2010-10-27 07:44:41 | Weblog
この度、知っている方々が受章された。 

文化勲章受章の安藤忠雄さんとの出会いは、15年ほど前になる。

とは言っても、ご本人に出合ったのではない。安藤さんが設計した建物に出会ったのである。

瀬戸内海に浮かぶ直島に、ベネッセコーポレーションが所有の美術館兼ホテルがある。回り一面瀬戸内海が見える静観豊かな場所に建っていた。

打ちっぱなしの近代的な建物だった。「これが安藤忠雄の設計した建物か・・・」
とその時感動したのを思い出す。世界の安藤ということを知っていたからである。

あちこちに安藤さんのコンセプトが織り込んである建物だった。

元ボクサーでその後独学で建築を学び、現在東京大学の教授というすばらしいファイトを持った人間味のあふれた方と認識している。あの、いつも未来を見つめているような厳しいい目が印象的だ・。

王貞治さんも、文化功労賞を受章された。王さんとの出会いは、物心ついたときからであるので50年ほど前になるだろうか・・。

巨人 大鵬 玉子焼きの時代。 3番長島 4番王 監督川上哲治といった時代・・。あの一本足打法が生み出すホームランには、全身がしびれた・・。

 王さんは長嶋さんの影でいつも控えめだった。派手な長嶋はいつもヒーローだった。

しかし王さんは、巨人の4番としてあるいは3番として見事に責任を果たし、ホームランの世界記録を打ち立てた。まさにミスターホームランである。

子供ながらに憧れの人だった。あれから50年。王さんは、日本プロ野球の中心的人物になった。 ソフトバンクホークスの基礎を造った人でもある。パリーグの人気を盛り上げた大きな功績もある。 王さん目は、日本プロ野球に対する情熱と厳しさにいつも燃えている。

 兎に角、今回の受章に心からお祝いを申し上げたい。

 
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歴史 文化と観光の関係

2010-10-26 20:40:00 | Weblog
鳥取市は、観光観光とここ10年来叫び続けている。

しかし、ここ10年歴史と文化の町鳥取がほんとに形作られてきたのだろうか?

ほんとに、観光と歴史文化の街が繋がってきたのだろうか?

まず、鳥取城の復元は一時その機運はあったが、今では30年後の話になった。
駐車場も無いまま。周辺交通整備は20年前と変わらず・・。

城下町鳥取構想は、ほとんど進んでいない。町並み整備も、城下町の構図がなされないまま勝手に修理されている。 単発的な岡崎邸の保護、高砂屋の保護など町並みとの関連性がゼロ・・。

文化や歴史が漂っている町とは到底感じえない。

民芸や工芸の伝統技術に対する育成や保護、推進も殆ど聴いたことがない。
ほったらかし・・。

コンパクトシティー構想の目玉、中心市街地活性化基本計画は、2核2軸 いわゆる鳥取城周辺と駅周辺を核として、若桜街道と智頭街道を2軸にした活性化計画だが、これも現在進行中にもかかわらず、突如空から降って湧いたように鳥取市庁舎の移転問題が、駅南の市立病院跡地になるような議論が進んでいる。

始めから、そういった計画はあったはずで基本計画の中で言っていたらいいのに、今になって(その決定が来年3月ごろまで決定しないといけない様子)あわててやっている。

これも、早くからやると反対があるので確信的にやっているのだろうという疑惑が湧いてくる。

それにしても、鳥取市庁舎移転計画には、地域まちづくり活性化運動を手弁当でやってきたものにとっては、えらい煮え湯を飲まされた気がする。 何のために、地域活性化運動をしてきたのか。人を馬鹿にしたやり方に他ならない・。

街は、行政の中心鳥取市役所および鳥取県庁を中心としてまちづくりが長い年月をかけてされてきたわけで、ここがまちの中心であることを忘れてはならない。

もし、市庁舎が駅方面に移ったら鳥取市は混乱するでしょう。

しゃんしゃん祭りを、観光という名の下に、日程を替え市民に混乱を生じさせたように・・。 その後元に戻し、顰蹙を買っている・・・。

こんなごたごたが、ここ10年つづいている。もういいかげんにして欲しいものだ・・。

観光客を、どこにどのように向かえ何をサービスしたいのかさっぱり分からない。
 鳥取生まれ、鳥取育ち、鳥取を愛していますと言うなら、10年後20年後子孫の代まで考えて、行政指導して欲しいものだ。 愛郷心に燃えているなら、このことが分かるだろうと思う・・。

松江や萩 津和野 山口 岩国などを参考に、もっと歴史 文化に繋がる観光を勉強したほうがいいのではないか?

小手先ばかりの人気取り行政では、ほんとの魅力ある観光に繋がる街は出来るはずが無い!!

 次回は 砂丘が本当に未来永劫鳥取の活性化に繋がるのか?です・・・。


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鳥取の漆職人

2010-10-26 08:30:16 | Weblog
かつて鳥取にも、優れた漆職人がいました。 明治生まれや大正生まれの職人です。

塗師 木村宗春 木村泰之佑 蒔絵師 初代田中稲月 二代目稲月など。

木村宗春 木村泰之佑は兄弟で、優れた匠の技を持っていました。初代田中稲月と
2代目は親子でした。

匠の技術は、昔は親子や兄弟で引き継がれ、伝統技は大事に守られていったのです。

米子では、森脇さんというすばらしい匠がおりますが、御高齢なので伝統の引継ぎを
きちんとして欲しいものです。

 一旦消えた伝統を立ち上げるのは、不可能に近いほど困難なことですから・・・。

 
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