手づくり漆器 ~うるし うるおい うるわし~

鳥取の漆職人がお届けします。

上杉鷹山の生活

2011-03-24 09:29:54 | Weblog
権力を握ったり、お金が入るとすぐに人は贅沢になったりする。

政治家はまさにその典型である。


上杉鷹山は、その辺が違った。

藩の財政を立て直すという、大きな使命を背負った鷹山は心していた。

自らがその手本になった。

服装は殿様が着るようなものではない、質素な木綿の着物だった。

食事は、まさに一汁一菜。 軽い食事であった。まさに藩の手本となっていた。


贅沢は一切禁止。しかし、みんなが殿様に付いていった。


亡くなる前も、体調に気づかってご馳走をだそうとしたが、一切断ったと言う。
最後まで そば そうめん 豆腐だったらしい。


贅沢して、糖尿病になる人とは訳が違う・・。

上杉鷹山

2011-03-24 07:46:00 | Weblog
米沢藩9代藩主上杉鷹山(うえすぎようざん)。(1751~1822 72歳没)

ご存知の通り、アメリカ大統領JFケネディーやビルクリントン大統領に、日本で一番尊敬する政治家と言われた人。

知ってましたか?

経緯を説明しますと

潰れかけていた米沢藩を救った藩主です。

米沢は山形県米沢市です。 もともと上杉家は、上杉謙信の時は越後(新潟)にいました。 甲斐(山梨県)の国の武田信玄と「川中島の戦い」を演じたことで有名です。

天下統一まで考えた上杉家。その後、勢力を広げ奥羽の会津120万石を治めることになりました。

東北地方を実質押さえるまでになったのです。

しかし、関が原の合戦で石田光成勢に加担し敗北。その後、120万石から30万石に減石され、米沢に移封させられました。

しかし、上杉藩は名門としての格式を重んじ、藩の経済に見合った政治を行ないませんでした。

財政状況を無視し続け、赤字が続き借金にまみれ藩財政は破綻をきたしました。

そんな時、高鍋藩から上杉家に養子になった鷹山19歳が入部するのです。


この時の上杉家は、まさに財政は火達磨状態でした。 借金は20万~30万両と言いますから、今のお金で120億円になります。まだまだあったんではないかともいわれています。

米沢藩の1年間の歳出の6年分に当たる数字だそうです。

借金地獄の米沢藩を救うために、19歳の鷹山は立ち上がったのですが、先行き見事に
藩の重役たちに邪魔されます。

自分たちで作ってきた借金に対して、無責任なひとたちばかりだったのです。

しかし、中には深刻にこの事態を考え訴えてきた人もいました。

残念ながら、そういう人は政治から排除されてしまったのです。


無責任集団で、自分の立場しか考えない重役の組織を、鷹山は変えようとしました。

排除された優秀な人を集め、その人たちに夜昼なく寝ずに立て直しの案を考えさせました。

出来上がった案を持って、江戸から米沢に向かいましたが、国家老初めこの事を良く思っていない連中が、これを邪魔します。


鷹山は、初心を「種火」にして志をともにしている家臣にそれを分け与えます。

この種火が、その後の米沢藩を見事に立て直すことになるのです。


質素倹約はもとより 

1 人員整理 2 地場産業の奨励(桑 漆 楮100万本植栽)
3殖産興業に力を注ぐ  4 織物工場を開く 5 人材登用 と教育の徹底
6上書箱の設置  7 神仏に誓い願った

その結果、石高を上回る数字が出始めました。

様々な地場産業が栄え、優秀な人材が育ち 民意を汲み取っての政治は、米沢藩を見事に
蘇らせたのです。


今に至って、米沢は地場産業に恵まれ 豊かな都市として栄えています。

上杉鷹山は米沢の誇る藩主として今でも尊敬され、鷹山の精神は受けつがれているのです。