米沢藩9代藩主上杉鷹山(うえすぎようざん)。(1751~1822 72歳没)
ご存知の通り、アメリカ大統領JFケネディーやビルクリントン大統領に、日本で一番尊敬する政治家と言われた人。
知ってましたか?
経緯を説明しますと
潰れかけていた米沢藩を救った藩主です。
米沢は山形県米沢市です。 もともと上杉家は、上杉謙信の時は越後(新潟)にいました。 甲斐(山梨県)の国の武田信玄と「川中島の戦い」を演じたことで有名です。
天下統一まで考えた上杉家。その後、勢力を広げ奥羽の会津120万石を治めることになりました。
東北地方を実質押さえるまでになったのです。
しかし、関が原の合戦で石田光成勢に加担し敗北。その後、120万石から30万石に減石され、米沢に移封させられました。
しかし、上杉藩は名門としての格式を重んじ、藩の経済に見合った政治を行ないませんでした。
財政状況を無視し続け、赤字が続き借金にまみれ藩財政は破綻をきたしました。
そんな時、高鍋藩から上杉家に養子になった鷹山19歳が入部するのです。
この時の上杉家は、まさに財政は火達磨状態でした。 借金は20万~30万両と言いますから、今のお金で120億円になります。まだまだあったんではないかともいわれています。
米沢藩の1年間の歳出の6年分に当たる数字だそうです。
借金地獄の米沢藩を救うために、19歳の鷹山は立ち上がったのですが、先行き見事に
藩の重役たちに邪魔されます。
自分たちで作ってきた借金に対して、無責任なひとたちばかりだったのです。
しかし、中には深刻にこの事態を考え訴えてきた人もいました。
残念ながら、そういう人は政治から排除されてしまったのです。
無責任集団で、自分の立場しか考えない重役の組織を、鷹山は変えようとしました。
排除された優秀な人を集め、その人たちに夜昼なく寝ずに立て直しの案を考えさせました。
出来上がった案を持って、江戸から米沢に向かいましたが、国家老初めこの事を良く思っていない連中が、これを邪魔します。
鷹山は、初心を「種火」にして志をともにしている家臣にそれを分け与えます。
この種火が、その後の米沢藩を見事に立て直すことになるのです。
質素倹約はもとより
1 人員整理 2 地場産業の奨励(桑 漆 楮100万本植栽)
3殖産興業に力を注ぐ 4 織物工場を開く 5 人材登用 と教育の徹底
6上書箱の設置 7 神仏に誓い願った
その結果、石高を上回る数字が出始めました。
様々な地場産業が栄え、優秀な人材が育ち 民意を汲み取っての政治は、米沢藩を見事に
蘇らせたのです。
今に至って、米沢は地場産業に恵まれ 豊かな都市として栄えています。
上杉鷹山は米沢の誇る藩主として今でも尊敬され、鷹山の精神は受けつがれているのです。