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かごめかごめの真実とは

空海様が私に教えてくれた秘密の暗号

「山間荘園の地頭と村落」・・丹波国和知荘を歩く

2017-03-22 10:07:55 | かごめかごめの真実とは

2017年3月22日(水)

 3月19日(日)17:31 和知駅(京都府)へと着きました。

六甲道を14:45頃に出発して、尼崎から「特急こうのとり15号」で福知山へと行って普通電車に乗り換えて、そこから36分ほどで和知の駅です。

六甲道からおおよそ2時間42分かかります。

武部さんは、月に一回のセミナーが終わってから車でお宿まで駆けつけてくれることになっていました。

始めて降り立つ町には、どこか遠い昔に帰ったような風情が感じられました。

実はこの町に来ることなど数日前までは、全く予期していませんでした。

「和知」という地名も「安栖里」という地名も、生まれてこの方聞いたこともない私でした。

それが・・、桓武天皇の遺体を入れた山へと行ってから、またまたこの不思議な物語の初めの頃、「天皇家のルーツを覚えてくださいね。覚えてもらわないと私達が困るのです」と、教育係らしい2人の女性の波動が思い出されました。

そして、どんどんと、天武天皇と天智天皇の陵墓の関係から、伊勢の猿田彦神社との三点が、3:4:5の大事な基本形となる大矩(直角三角形)であることを教えられ、猿田彦神社と、神河町のイエス・キリストの墓とその二点の垂線上に、応神天皇陵が位置することを教えられます。

綺麗な二等辺三角形を描くわけです。これも、偶然の一致など絶対にありえないことです。

一気に応神天皇のルーツを調べるようにと言いますか、だれも知る由もないことを調べようにもありませんが、実は陵墓の造営の方角でキッチリとその埋葬者のルーツを知ることができます。

「監督さ~~ん、陵墓はどちらに向けて造るんですかぁ~」

「どちらの方向でもいいから、勝手に早く造れ~~!」などと、そんなことはありません。

陵墓は、その埋葬される方が、生前、一番思い出に残る地域、地点に向けて造りました。

その造る地点も意味ある場所に造られました。

国家のありようは、その時々の人間とその集団によって変わって行くものです。

どのような政変劇や混乱がこの国で起きても、この国の歴史と真実を残すもの、それが、歴代の天皇たちの陵墓の位置と方角で読み解くことができます。

そのことは、磐座であったり、そこから神社や寺院も、お城までもが全く同じ考えのもとで造営されていました。

文書でいくら残しても、改ざんされたり改変されたり、消失されたりしてしまいますが、山や磐座、陵墓などは、そうたやすく全てを破壊することはできません。

先日、とある学芸員から古墳について話を聞きましたが、全く馬鹿げています。

「古墳は山の上などにはないのです」と学説を唱えるだけで、あまりにもかわいそうで哀れにも思います。

考古学とは、その学説とは・・、いかにもあやしい、片目をつむった学説のようですね。

古本屋で買ったりっぱな学術的な本には、「古墳は山の上に造られている」と書かれているのに、いつのまにか「古墳は、平野部か山裾」ということにされてしまっています。

どこからか、誰かの意図で、そのようにされてしまっているようですね。

天皇家とは第10代の崇神天皇からのことですか? 違うでしょう。

その以前から続いてきているでしょうが。

もうそろそろ、学者先生方も真実を語らないと、尊敬どころか軽蔑されだしますよ。

天皇家だってそうですよ。

応神天皇も、キッチリと自分のルーツを教えてくれていました。

応神天皇は、「私のルーツは、十倉であり卑弥呼であり、イエスであり、マリアであり、モーセに遡ると」と教えています。

全て、この大地に、そのご先祖である天皇たちの陵墓の位置とその方向が、この国の本当の歴史を教えてくれています。

・・・

そのようなことで、応神天皇陵が教える彼の故郷へと急きょ行くことになりました。

どうしてうちの山には来てくれぬのじゃ!」とも、おっしゃられておられましたので・・。

指定されたお宿は、料理旅館「角屋」でした。

武部さんがやってくるまで、ロビーで待つことにしました。

そして、郷土誌でもあればと思い、本棚に目をやると、

藤木久志・小林一岳 著 「山間荘園の地頭と村落」・・丹波国和知荘を歩く という立派な本が目につきました。

これらの多くの先生たちが、何十年もかかって和知を歩き、片山文書などを調べ上げて書かれた内容をさらりと目を通しましたが、「どうしてこの和知について何十年も研究をされているのだろう」

「おそらく特別にして特別な地域なのだろう」と言う思いと、「やっぱりここに来たことは、確かなものに導かれている」との思いを強くしました。

さらりと読み終わったころに武部さんがやってきました。・・・つづく

 

執筆者一覧  

小林一岳(こばやし・かずたけ)

桜井 彦 (さくらい・よしお) 蔵持重裕(くらもち・しげひろ) 

松本 保(まつもと・たもつ) 黒田基樹(くろだ・もとき) 

窪田涼子(くぼた・りようこ) 遠藤ゆり子(えんどう・ゆりこ)

長谷川裕子(はせがわ・やすこ) 増山智宏(ますやま・ともひろ) 

藤木久志(ふじき・ひさし)

 

 

 


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神河に魅かれて二日間も・・

2017-03-13 10:25:04 | かごめかごめの真実とは

2017年3月13日(月)

 12日(土)は兵庫県考古学博物館へと行きました。 

そしてそこから姫路まで行って播但線にゆられて車窓からの眺めがこれから楽しくなるというあたりにある溝口駅で降りて、迎えに来てくれていた市川さんの車に乗り込みました。

近くのファミレスでいろいろと、たわいもない話でくつろいで、そこから神河町へとドライブです。

その途中、神河町へと来ると左手奥に、イエス・キリストの墓の山が見えます。なんと雄大なのでしょう・・。

そしてさらに北へと向かい、卑弥呼の墓がある八幡山連峰の西麓になる長谷へと連れて行ってもらいました。

そこで、数分だけの話をして寺前の駅まで送ってもらいました。

ホームには姫路へと向かう赤い二両編成の車両が待っていましたが、改札を済ませてホームへと入ったとたん、向かいに止まっていた車両が動き出しました。

・・と言うことで、待合室で次の電車が来るまで待つしかありませんでした。

でも・・、ここで思わぬものを目にすることになりました。

「大瀬の滝」「えんま坊跡」。

それを見たとたん、スゴイものを発見したような気持ちになりました。

そして翌日、その場所へ行ってしまいました。 

     

 上 ・・ 中央の山がイエス・キリストの墓がある835mの山です。

頂上左がイエス・キリストの墓で、右がハートの丘です。 ハートの丘からの眺めは絶景ですよ!

 またまたバルタン星人も現れました。 そして・・、長きに亘って待って居られた方々が、美味しい饅頭を召し上がって居られました。

神々になられた御霊様たちは肉体を持っておられませんので、ガブッ!と私が食べなくてはなりません。

私達の身体は、神様たちの乗り物でありますから、私たちを使ってしか味わうことができません。

私達の目を通してしか見ることができません。

感動も、私たちを通じてしか感動できません。

  ですから、そこでお供えものをいただかなければなりません。

  そして・・・ 「ああ~~~美味しい~~~!」と「感謝」して食べますよ。

そしたら私達には見えない小さな小さな神様たちにも味わっていただかなくてはなりません。

・・と、いうことで・・、またまた微生物君たちも・・「ああ ああ 雨が・・、美味しい雨がぁ・・」と。

  ・・ つづく


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神河町は神様が居られる都でしたし、聖地です

2016-05-23 11:01:27 | 邪馬壹国

2016年5月23日(月)

 21日(土)岩座神(いさりがみ)の五霊神社へと行きましたが、神社本殿の屋根に神紋を見つけました。

橘の紋のようですが、これは明らかに七枝のメノラーですね。

イスラエルの国章も七枝のメノラーを中心にデザインされていますが、神河町にこれらのメノラーのデザインの基本となる1.5㎞もの巨大な一対のメノラの地上絵があることと無縁ではないでしょう。

又、神河町の長谷という地区に栗というところがありますが、この栗の地名こそイスラエルと日本の関係を教えてくれています。

イエス・キリストの遺体が埋められたオリオン座のベテルギウスにあたる神河町南小田の墓守をしていたのが卑弥呼でした。

卑弥呼は、イエス・キリストの直系であるがゆえにイエスが死んで80年弱続いた倭国大乱を終息、再起するために、イエス・キリストが亡くなって100年後に女王の座に就きました

女王卑弥呼が居住していたところが、神河町の栗でした。 当然として卑弥呼は神河町の阿月山に陵墓を築き、、イエスの命日の日、AD248年11月17日に自ら入定し、5日後22日に息を引き取りました。享年71歳でした。

 

 

女王卑弥呼の古墳がある神河町の八幡山連峰の西麓に「 栗 」とういう集落があります。

ここ栗に今から3000年前に、カルクーと呼ばれた古代イスラエルの都サマリアの関係者でもあった私達の先祖が帰ってきたと私は考えます。

この方々は、カリア人、クリ人と呼ばれ、高句麗にも都を築いたようです。  高句麗のクリも栗も発音は同じです。

そして高句麗があった、現在の中国遼寧省鞍山市にある道教の聖地である千山と、ここ神河町の栗との関わりに重大な秘密があります。

そのことを生命の樹(カバラ)という目には見えない設計図や巨大地上絵などで現代の私達に先人たちは古代の秘密を解けるようにしてくれていました。

そして、徳島の粗谷地方に残る謎の神楽歌こそ、生野、神河町の秘密を教えてくれていると私は推測します

この歌が歌われた時代、1里を0,5㎞で計算すると、丁度現在の生野、神河町の境界あたりから丁度4.5㎞で栗に行きつきます。

九里きて栗に行って九里もどるとは、邪馬壹国の女王が住む都の地理的条件(栗から南は投馬国である)を教えていると考えています。

 

生野(イヤ)のそばから、御竜車が三つ下る。

九里きて、栗行って、九里もどる。

朝日かがやき、夕日が照らす。ない椿の禰に照らす。

朝日も夕日も照らす山頂に陵墓があることを教え、ない椿の禰とは、71歳で亡くなった卑弥呼の御霊のことを教えています。

生野の谷から何が来た。

恵比寿、大黒、積みや降ろした。

伊勢の御宝、積みや降ろした。三つの宝は、庭にある。

生野の空から、御竜車が三つ下る。

 

サマリアの旧名はクリである。

・・・下記はウィキペディアより抜粋・・・

サマリア(Samaria) は、パレスチナヨルダン川西岸地区の北部を意味する。

ヘブライ語ではショムロン(שֹׁמְרוֹן‎,Shomron)、アラビア語ではアッサマラー(السامرة‎‎,as-Sāmarah)。

 

サマリアは元来は、パレスチナ(イスラエル領を含む)北部に位置した北イスラエル王国の首都の名であった。現在はアラブ人居住者が大半を占めるため、アラビア語サバスティーヤ(Sabastīya) と言うことが多い。紀元前772年の北イスラエル王国滅亡(アッシリア捕囚)後は、その旧領土一体にアッシリアによりサマリア県が置かれた。サマリア県はアッシリアに続くバビロニア時代にも存続し、紀元前586年南ユダ王国滅亡(バビロン捕囚)後は、その旧領土、すなわちエルサレム周辺も、一時的にサマリア県に併合された。

西岸地区北部をサマリアと呼ぶことはシオニストに好まれ、彼らはヨルダン川西岸地区ユダヤ・サマリアと呼ぶ。

「パレスチナ」というのはペリシテ人の土地、という意味であり、ローマがこの地からユダヤ性を奪うために改名した名前である。また「ヨルダン川西岸」というのは、ヨルダンが西岸地区を占領していた時代に、ヨルダン川に跨る国家であることを示すために付けた名前である。この地域の名称がもし「ユダヤ・サマリア」と呼ばれ続けたならば、シオニズム運動は別の展開を見せていた可能性がある。

 

 


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コウノヤマ は生野の地下神殿を教えている

2016-03-02 10:12:58 | かごめかごめの真実とは

2016年3月2日(水)

とある雑誌のカスタマレビューと、私の新刊のレビューに向麻山と書いて、「コウノヤマ」と読みます、と書かれていましたので、地図で調べると・・なんと、高野山とその向麻山から地下神殿がある生野町の口銀谷まで全く同距離でした。

大西さま、これは偶然ではないでしょうね。

なんと、向麻山から高野山を通って延長したライン上に大峰山山上ヶ岳がありますが・・、これも大事な場所を教えているようです。

    

 

2015年10月26日
特別付録のDVDが大変良かった。モーセの契約の聖櫃アークについて、少なくない外国人が必死になって探し求めている理由が、これでよく解った。

アークは、宇宙人あるいは神からもたらされた人類的な神宝で、それを担げるのは、恐らく古代イスラエル人のうちのレビ族なのだと思う。

そして、そのレビ族の末裔とされているのが、多分に日本の徳島の阿波忌部氏であるのだろう。その忌部氏の子孫が、天皇家に大麻の布を貢ぎ納める三木家を代表とする、鴨族と呼ばれる主に吉野川流域に住む祭祀族のグループなのだろう。

ネットの情報によれば、阿波忌部氏は、三木・長谷・永谷・中橋・千野・治野・田方・早雲・木頭・高河原・北野・北三野・高如・名高・名高河・今鞍・藤・赤松・大坂・長者・麻植の名字を名乗っているらしい。

私自身は両親の実家が徳島の旧麻植郡で、私もそこの鴨島町が出生地だが、これらの名字には一致しないので、少なくともレビ族を祖先とはしていないと思われる。

ただ、私の母方の家系が公家の藤原氏一門の日野家であり、ついこの間、靴屋の店員が母の足の形を見て「農耕民族が多い日本人には珍しい、まるで西洋人みたいなスラリとしたスマートな足形」と言ったと聴いた。

また、私の父方の家系も彫りの深い欧米人のような顔立ちをした人ばかりで、両家系とも古代イスラエル人のレビ族ではなくとも、もしかしたら父方は出雲族とも呼ばれるエフライム族を中心とする北イスラエル王国の「失われた10支族」か、或いは、母方は日向族と呼ばれる南ユダ王国のユダ族かも知れない。古代イスラエル人の一般大衆か王族のどちらであるかは、今のところよく分からない。ただ、古代イスラエルから古代の日本にやって来るまでに、ヨーロッパ人との混血があったことも考えられる。

聖櫃アークについては、その昔に麻植郡の一部であった剣山の山中の鍾乳洞に保管されていたものが、現在では兵庫県の古に「死野(シオン)」と呼ばれた「播磨国風土記」に書かれているらしい朝来市生野町と神崎郡神河町にまたがる「埴岡の里」辺りに移されていると、上森三郎氏の著書に書かれていた。

兵庫県の「埴岡の里」あたりは砥峰高原があって、村上春樹氏の小説を映画化した『ノルウェイの森』のロケ地であるし、また世界遺産候補地の生野銀山があるところでもある。

私もこの上森氏の説は、すぐには信じられなかったが、私と同年代で神戸出身の世界的天才ピアニストの平原誠之氏が、組曲「火の鳥」の作曲で上森氏のアーク発掘の活動を支援していたり、天皇陛下に手紙を宛てているところなど、多くの著名人の関係者を巻き込んでいるところを考えると、あながち妄想の産物とは言えず、「事実は小説よりも奇なり」の言葉の通り、ひょっとしたら本当に兵庫県にアークが眠っているのかもしれない。

郷土愛、祖国愛からも、日本の兵庫の生野(シオン)の地下神殿にアークがあることを信じたいし、それが発掘されることを期待したい。そして、もしそれが発掘されたら、天皇陛下にお納め頂きたいとの上森氏の手紙の内容に、私も同感している。

追記:昨今の森氏のブログでは、幾つかの「コウノヤマ」が生野の地下神殿の存在を幾何学的に指し示していることが述べられている。和歌山の高野山と、大阪府交野市の交野山、奈良県山添村の神野山と、大阪府岸和田市の神於山である

私の持っている情報を補足させて頂くと、徳島県吉野川市鴨島町の麻植塚(おえづか)駅の南方にある「向麻山」も「コウノヤマ」と読みます。

すべて空海による仕掛けだとしたら、空海はとてつもなく頭の良い人だったと言わざるを得ません。まことに頭が下がります。

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為信神社に宿る神々とは

2015-11-30 16:51:36 | かごめかごめの真実とは

2015年12月1日(火)

 11月29日(日) 神河町にある為信神社跡へと行かされました。

無意識のうちに誘われ、見せられたようでした。

それはそれは、神河町の人でもその場所へはほとんどの人が行かれたことはないのではないでしょうか。

現在の為信神社の境内でピンクの十字架の写真や亀甲紋の光が投影された写真を見せつけられた体験を持つ私ですが、今になってやっとその意味が分かりました。

間違いなく為信神社には凄い素晴らしい神様が宿っています。

大国主命=イエス・キリストの陵墓と、その人の直系である女王卑弥呼の陵墓とを結んだライン上に平安時代末期まではそこに為信神社はあって、

その周りには大きな集落が形成されていたということです。

現在の為信神社は、元あった場所にキッチリと向けて造られていました。

そしてそこから、方位磁石で真北0°の方角の長谷という集落に、見事に大国主命=イエス・キリストの墓と、女王卑弥呼の陵墓まで同じ距離の場所にお寺が配置されていました。

そしてその真南に位置して、そこから西のメノラーを拝む場所に八十八体の石仏を祀る最明寺さんが位置しています。

見事な設計の上にお寺や神社が配置されています。

・・でも、長谷にある重要なお寺さんは現在は廃寺になっているということで、またまた残念至極です。

案内板には鳴門権現発祥地跡・・・成卜(字)1568番地と書かれていましたが、この字は、聖都と私には響いてきます。

鳴門とは、成卜 ・・ 聖都 であると・・・。  徳島の鳴門の地名と、この場所とに大いに秘密が隠されているようです。

 

        


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南・・・灘は、平家の人達の海上国家圏を表す

2015-07-13 11:40:32 | 邪馬壹国

2015年7月13日(月)

2012年8月28日のブログに、卑弥呼さんの生まれ故郷に行って教えられたことを書いていました。

庵月へ行って分かったことは、神崎郡神河町にある八幡山を取り囲む集落に猪篠(いざさ)という地名がありますが、字こそ違いますが伊笹(いざさ)という地名や長谷という地名も共通してあります。

そしてイザサには古い古い歴史があるようです。

偶然でしょうか・・。偶然ではないようです。

そして庵月さんにいただいた香住観光協会発行の「御崎 平家村のおはなし」を読むなり、??

んん??! 

・・・公家の門脇宰相平教盛(たいらののりもり)という人は、老中と共に船に乗っていくことにしました。

「この壇ノ浦よりも遥かに壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮していけるだろう」 という記載箇所がありますが、壱岐・対馬は壇ノ浦からに位置します。

南北がまるっきり逆に言われています。

・・・

ふと思ったのは、魏志倭人伝の南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。

・・・

遥か南に・・を 遥か難に・・ と書き変えたら 間違いでもありません。

難して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。・・と書けばこちらも問題ありません。

魏志倭人伝の書き手も平家の伝記を書いた人も、難と南の文字を別に気にすることなく記載したのでしょう。

南・・・灘は、平家の人達の海上国家圏を表しているということでしょう。

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素晴らしい古代史研究家が居られましたねぇ

 灘の謎  


 

 周防に残る九州年号のことをぼんやりと調べていたとき、周防灘という地名(海名)に気がついた。
 灘は海流の激しい難所だと思い込んでいたのだが、周防灘が海の難所だとはとても思えなかった。そこで地図を開いて灘を探してみた。瀬戸内海は灘だらけである。伊予灘、安芸灘、燧灘、水島灘、備後灘、播磨灘、斎灘。陸地には灘崎があり、神戸の灘区もある。陸に遠く波の荒い海路という辞書の解釈はとても通用しない。
 九州の周囲には玄海灘、五島灘、天草灘、日向灘。東海にいくと熊野灘、遠州灘、天竜灘、相模灘、鹿島灘。日本海側は少ないが、響灘、五木寛之の小説で有名な内灘がある。縮尺の大きな地図で探しただけなので漏れはあるだろうが、こうしてみると、灘のないところは出雲、東北、北海道といったところである。
 灘はたんに海を意味しているように思われる。海とは別系統の言葉であろう。
 小泉保の『縄文語の発見』からの推測で、灘のないところは縄文人の領域ではないかと考えた。逆にいえば、「灘」の地名の残るところは、弥生人の進入地。とすれば、灘の語源は朝鮮語であろうか。朴炳植の『日本語のルーツは古代朝鮮語だった』に、高句麗語では海はもとバタラ、後にバタになったと書かれていた。清音になるとハタで、海の響きがある。もうすこし変化するとワタ。ワタツミはワタツウミの縮約形か。
 灘は中国語ではナン、タンで荒い海の意味。ナダは和訓で海の意味。灘の文字のナの音でかろうじて両者が合体した。万葉集3893に「比治奇の奈太」とあるので、遅くとも730年頃にはナダという語が定着していたことがわかる。高句麗語のバタが子音の変移で日本語のナダになったというのは、時間的に「難」があるだろうか。
 


その後の灘

大分県 国東半島北は「祝灘」(古名・伊波比) 岩波版『風土記』p.425
国東半島の杵築市には「奈多八幡」「灘手」があり、沖合は「黄硫灘」(「豊後灘」とも) 四国側は「三崎灘」
福岡県 志摩半島には「灘山」、その反対側、海の中道の付け根には「奈多」
長崎沖は「角力灘」
徳島県太平洋岸は「海部灘」  徳島市沖は「薩摩灘」 
徳島県海部郡牟岐町「灘」(古名・奈汰浦) 小学館版『風土記』
愛媛県 双海町には 「上灘」「下灘」
瀬戸内海 倉敷沖は「阿智灘」
兵庫 高砂市沖は「響灘」----(これは源氏物語を近畿に置き換えたために捏造された地名か?)
出雲 斐伊川河口には「灘分」「灘橋」
石川県、内灘砂丘の沖は「能登灘」 石川県 富山湾七尾市沖は「灘浦」 富山県氷見市沖は「越中灘」 


外国の灘

中国の大連には「老虎灘」があり、浜辺には「虎灘楽園」という遊園地?がある。
上海には「外灘」(わいたん)
敦煌の西の砂漠の中には「古董灘」(ことうたん)
北朝鮮で2004年に爆発があった山の中は「月灘里」
放馬灘 (紙の起源については,西暦105年に中国で蔡倫が麻のぼろや樹の皮,漁網などを原料にして紙を作り当時の皇帝に献上したというのが定説になっている。1986年か7年に,中国の放馬灘で出土した紙(地図)が紀元前のものであるとされ,これが今のところ最古の紙といわれている。当時すでに紙が記録材料として使われていたことが分かり,大きな発見であった。)

・・・

魏志倭人伝の航海航路は灘とついた海域を通ってくることがわかります。 

灘を通ってくることを「南し」と表記し、その灘・南は平家、

すなわち、モーセ、イエス・キリストの制海圏だったと言えるでしょう。

このことを中国の千山から、女王卑弥呼が住む都、埴岡の里、

現在の神河町へと七福神様達は宝船に乗りながらやって来られたと言うことです。

 



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詳しいルートが明かされました

2015-07-10 15:21:49 | かごめかごめの真実とは

  ダムからは侵入禁止になっていました!2015年7月20日 

2015年7月10日(金)

 武部さんがブログで詳しく解説していますね。神河町のまほろばを・・

何万年前からまほろばの里は用意されていたのか、ピラミッドのように石が5 600mほども組み上げられているようです。

そしてそこに陵墓が造られたようです。

さすがイワクラ学会員で、石工のDNAを引いているという武部さんです。 

古代史 考古学 土木工学 など研究されている方必見です!

太田第四ダム入り口はゲートが閉まっていますから、トイレもある第一ダムの駐車場の方に車を止めて、そこから歩いて行きます。

アップダウンはさほどありませんが、ゆっくり歩いて1時間ほどかかると思います。 

長谷ダムの方からの道も続いているようですが、いたるところで石が崩落していますから、危険です。

先週そちらから途中まで慎重に行きましたが、車のタイヤが裂けてしまいました。 危険です!! 侵入しないほうがよいでしょう。

行けるのか行けないのか、完全に山へ入れないようになっているのか、詳しいことは町に聞かれた方が良いかもしれません


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七福神だけでなく・・八百万の神様達が・・

2013-05-17 11:44:42 | かごめかごめの真実とは

2013年5月17日(金)

 七福神は誰ですか!?

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空海様が私に教える七福神とは・・

・・

福禄寿尊は、 最初に日本にやって来た時の モーセ で、

寿老人は、 一度故郷に帰り、再来日した時の モーセ です。

祀られている山は、生野町の 古城山御林(609m) です。

・・

大黒天は、 イエス・キリスト です。

祀られている山は、生野町の 絶峰御林(534m) です。

・・

布袋尊は、 イエスの12使徒の一人の トマス です。

祀られている山は、生野町の 達磨ヶ峰(912,7m) です。

・・

恵比寿神も、 イエスの12使徒の一人の タダイ です。

祀られている山は、神河町長谷の西北西(1016,4m)にあります。

・・

毘沙門天は、 天日槍(あめのひぼこ) です。

祀られている山は、神河町の 白岩山(973m) です。

・・

弁財天が、 女王卑弥呼 です。

祀られている山が、 神河町の 婀月山(779m) です。

・・

つの山の標高の合計は、4824,1mで、平均高さは、804,016mです。

んん? また又、神様が布置していますよ。

804,016m ・・ ヤオヨロズノカミガミ ・・ 八百万の神々

 七福神だけでなく、

 この我が国には、八百万の神様達が居られるぞよ!

      と、教えて居られますよ、空海様は・・。

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空海様は今でも女王卑弥呼の墓をお守りしつつ、七宝寺さんの入口で、皆さまが来られるのを待って居られるようですよ。    

 私が、神河町で最初に降り立った場所が、この空海様のお像の前でした。


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女王卑弥呼への陸路1か月のルートを電車で行く

2013-03-10 21:30:01 | かごめかごめの真実とは

2013年3月10日(日)

女王卑弥呼への陸路一か月のルートを、電車で辿りました。

朝7:45分に自宅を出発し、ルートの始まりは西宮ですが、尼崎(あまがさき)でJR福知山線(ふくちやません)を9:16分発の「特急こうのとり3号」で出発し、宝塚(たからづか)9:32 ?     三田(さんだ)9:45 ? 篠山口(ささやまぐち)10:03 ? 柏原(かいばら)10:23 ? 福知山(ふくちやま)10:44 ? 和田山(わがやま)11:15 到着でした。

重要なベンチマークポイントである春日の小富士山も車窓から近くに見えました。

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ここから播丹線(ばんたんせん)に乗り換えです。

家を出るときは温かったのですが、下りた途端、雨で一気に気温は下がり、用意していたベストをリュックに入れていて大正解でした。

和田山からは1両車両のワンマンカーで、出発は11:59の予定が4分遅れで出発し、? 竹田(たけだ) ? 青倉(あおくら) ? 新井(にい) ? 生野(いくの) ? 長谷(はせ) ? 寺前(てらまえ)到着が12:52分でした。

卑弥呼が居てた場所は栗で、駅は長谷駅です。駅を下りて東上の山を越えたところに卑弥呼の墓はあります。でもここからは、道なき道を登って3時間ほどかかります。

卑弥呼の祈り場である八幡山は、駅を下りてほどなく北へ行くと見えます。でも到底その場所へは行くことはできません。

でももう少しすると桜の花が咲きます。昨年4月20日にM先生と行きましたが、それはそれは素晴らしい情景でした。

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寺前では、古代史研究家の市川慎さんが出迎えてくれました。

そして、市川さんが市川町にある「ひのストアー」入口にあるいつもの喫茶店まで連れて行ってもらって、久しぶりに食事をしながらいろいろと教えていただきました。

市川慎さんが、

現れた太古の大神殿!ピラミッドは人類の根源を語る!

 神代の残像最終章 を新たに出版しました。

今、予約受付中とのことです。

       私は今読んでいますが、この本は、それはそれはこの世の重大な秘密を解き明かしています。 オスプレイもどうして新たにブラウンルートを秘かに計画したのかもこの本を読めば納得いくことでしょう。

いかに私達のこの世界において、そしてこれからの世界にとって重要で重大な秘密が兵庫県の中央の山に隠されていたのかが理解できます。

かごめかごめの唄は、

     「うしろの正面だ~~れ!?」

          「夜明けの晩に鶴と亀が統べった!」と、教えていませんでしたか?

 みなさんの記憶の中に組み込まれたメッセージは、キッチリと世界大一級の秘密の在処と、その重要で重大な先人から託されたメッセージでした。

 これは 大変なことです!!

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市川さんに福崎の駅まで送っていただき、福崎15:45発の特急はまかぜ4号に乗って、姫路を通って三宮まで来て、普通電車に乗り換えて六甲道の事務所に帰ってきたのは、丁度夕方の5:00でした。

事務所に帰ってパソコンのメールを見ると、Uさんからのメールがあり、報告メールを返信しました。

 Uさんへの返信メール

Uさんへ

お世話になります。

 2年の月日は瞬間でもあり、長い長い時間でもあります。

 私には、20年もの時間が経ったようでもあり、瞬間に去った過去のようでもあります。

 ご冥福をお祈りいたします。

 亡くなられたお兄さんと、亡くなった私の弟と、

 肉体を持った私達の身体で、カンパ~~イと又、近いうちにやりたいものですね。

 私は今日、 卑弥呼への一ヶ月の陸路の朝見ルートを、電車でたどりました。

 やはり、道標に、山の上に山を沢山造っていました。

 どうも・・、山の形にも意味や法則性を持って造られているような気がしました。

 現代の電車で一日ですが、その時代、一ヶ月は十分にかかったであろうことは、車窓からでも十分に推測することはできました。

 八幡山連峰中央の西の麓にある、長谷駅が卑弥呼が居てた栗集落ですが、現在でも栗という地名も残っています。

 その長谷駅の次の駅が、寺前という駅ですが、市川慎さんに駅まで迎えに来ていただいて、いろいろと、久しぶりに話をして帰ってきました。

 陸路一ヶ月をこの目で見てきた有意義な一日でした。

 

               うえもり

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西宮から西宮へ戻ってくる環状線ルートの距離は282,9kmでした。

282,9 ・・・ ニワフク ・・・ ニワニフク ・・・ 庭に福 ・・・ 庭に幸

七福神を祀る西宮神社がある西宮駅から、卑弥呼へお参りに行き手を合わせて帰ってくるルートは、やはり福を授かるルートでした。

尼崎駅から福知山を通って長谷駅までは、線路の距離で166,8kmで、実際には山を迂回したり、険しい谷を渡ったりしたら何倍の距離になるのでしょうか。しかも宝物を積んだ3つの御竜車を押したり引いたりとして・・、1ヶ月を要した陸路でした。

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来る20日、西宮神社で夜明けの祭典を行います。

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フェイスブックに不思議な写真の情報を詳しく・・

2012-12-03 15:18:46 | かごめかごめの真実とは

https://www.facebook.com/toyosaka.higasi

 東宮司さんが私が穴を掘っている亀石の前で撮られた光の玉の不思議な写真を詳しく解説をされているようです。フェイスブックをなされる方は、見て下さい!

2012年11月アーカイブ

今名張から帰ってきた。書きなさい書きなさいとせっつくものがあるので、晩御飯の前に書いておこう。

かごめかごめを研究する会不思議の旅9日と(大阪)本日名張に参加した。どちらも30分ぐらい時間を頂いておもい当たるところを語った。旅に行き帰ってきてから私の意識が確実に変化している。

この世に生れてきた使命をミッションといい、古神道ではミコトモチという。この両者について語ると大変時間がかかるので本日はやめにしておこう。

二回のセミナーにおいて私が語ったことは、写真10枚以上に撮れた大きな大きな神様の円盤、各写真それぞれ色合いに特質があり円盤の数も10個から15個である。これに対応して三十八神社の石段で取れた約30個から40個のオーブの光の小さな玉とはその意味合いが全然違う。この写真も本日見て頂く。さらに上森さんとの対応シンクロさらには本日語れなかったことも少し書いておこう。明日は故郷の徳島に帰るから今日しか書けない。

 

1.どちらも家の家紋は抱みょうがである。しかも実母のお寺の家紋は菊の御紋である。ここは嵯峨天皇の阿波国の離宮のお寺であるからさらに空海上人との結びつきが強い。但しお寺の初代は、奈良長谷寺の祈心上人である。彼は空海上人死後、無茶苦茶になった高野山を復興させたその本人である。

2.実父は阿波の国椿どまり伊島である。伊島の和歌山県沿いに神島・友が島があるが若い時はその海に入って海の行も4人でした。

3.昨日は護王神社のセミナーであった。祭神は上森セミナーに登場する和気清麻呂公である。陰陽師の後5人で白雲神社にて行をする。その一人が私が祝詞をあげていると磐座から白い煙のようなものが全体的に出てきたという。いよいよ発動だ。昭和天皇の軍師・三上神龍師が若い時ここで修行をし、龍神さんを操るユダヤ景教の体得だ。その三上神龍師の前世は源義経であると本人は語る。

4.真ん中の光の輪を中心とする光の玉は、10個以上もあり古代ユダヤの12部族を治める各長の光である。さらに光の曼荼羅であり、異次元におけるユダヤ景教の完成図でもある。

5.旅に参加した35名はすべて古代ユダヤの血統の持ち主だ。しかしその御先祖の時間軸は本人から数えて10代目までである。35人の中檀族は4人おられる。だから段が峯から立ち登る行く筋もの白い神気の光の筋がそれを証明する。

6.各地上絵は、エネルギーの柱で日本列島を守る柱となる。この日本列島を守る柱を立てる行を二千年前にやられたのが、ヤマト姫とトヨスキイリ姫である。御杖代二代約40年に渡り、光の三角形50個を日本列島に建立された。これを伊勢五十鈴フトマニクシロという。上森さんは約二年で日本列島地図上に生命の樹の古代ユダヤのフトマニクシロの地上絵を完成させた。本来は天皇家が命がけでやられる行である。

7.ここ一週間でいろんな事が解ってきている。10月11月の陰陽師は九字の切り方、十字の切り方の講義だ。古神道の十字切りの行法、修験道密教の九字行法の本質は自己のエネルギー体の中に生命の樹を創ることにある。今回初めてこれに気が付いた。これはユダヤの行法である。ここで私が教えられた。始めての宣言だ。

8.京都新聞現代の言葉オスプレイについて池内 了氏が語る。

(アメリカ軍は、このようなドリームマシンを第二次世界大戦直後から構想し開発を進めてきた。(中略事故が起こる前にオスプレイを撤退させなければならない。平成24年11月6日京都新聞夕刊より

これは総合研究大学院大教授の池内 了さんの言葉でる。最もだ。何故アメリカは自国の砂漠、グランドキャニオン等で実験飛行をしないのであろうか。何故日本国の中央構造線等で飛行訓練をするのであろうか。真にそれは軍事訓練が目的であろうか???

9、光の曼荼羅、金剛界の曼荼羅、、生命の樹の12個光と地上界がつながった。それは古代ユダヤ民族が日本に根をおろし、そこで生活し神となった大いなるミタマ達のエネルギーと二年間ご苦労された上森さんの神行とそれを支えた事務局のTさん達、さらに35人のユダヤの血統を持つ人々のエネルギーの結晶の賜物である。この意味を真のユダヤの民アブラハム・イサク・ヤコブの子孫は知らなければならない。

10.昭和60年代に奈良香芝市におられるひふみ会のS先生のお宅に1年ばかり通ったことがある。そこでは2、30人の方にそれぞれ違った言霊をだし導かれていた。その時代が懐かしい。私の先生から出される言霊の中に(空海の修行をしなさいという言葉がよく出された。当時は実母の爺さんの東禅城(密教辞典)がいたことも知らないし、お寺のお坊さんではなかったのでその意味が全く解らなかった。いよいよこれからか。


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南 灘   ・・ 南の謎

2012-08-28 15:13:24 | 邪馬壹国

庵月へ行って分かったことは、神崎郡神河町にある八幡山を取り囲む集落に猪篠(いざさ)という地名がありますが、字こそ違いますが伊笹(いざさ)という地名や長谷という地名も共通してあります。

そしてイザサには古い古い歴史があるようです。

偶然でしょうか・・。偶然ではないようです。

そして庵月さんにいただいた香住観光協会発行の「御崎 平家村のおはなし」を読むなり、??

んん??! 

・・・公家の門脇宰相平教盛(たいらののりもり)という人は、老中と共に船に乗っていくことにしました。

「この壇ノ浦よりも遥かに壱岐・対馬という国がある。そこは食べ物も豊富だから、何とかして暮していけるだろう」 という記載箇所がありますが、壱岐・対馬は壇ノ浦からに位置します。

南北がまるっきり逆に言われています。

・・・

ふと思ったのは、魏志倭人伝の南(行)して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。

・・・

遥か南に・・を 遥か難に・・ と書き変えたら 間違いでもありません。

難して投馬国(とまこく)にいたる。水行二十日である。・・と書けばこちらも問題ありません。

魏志倭人伝の書き手も平家の伝記を書いた人も、難と南の文字を書き違えたのか、その時代の人達は東西南北の概念に共通性が無かったのか、またまた思いこんでしまう私でした。

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山門は難攻不落の砦でした

2012-05-07 13:44:52 | かごめかごめの真実とは

5月5日 JR播但線長谷駅の北側から八幡山連峰の女王卑弥呼の墓を目指して巨石遺構を研究している地元生れの市川さんの案内で登ってきました。

卑弥呼の墓へと到達したのは、三人のうち私一人だけでした。 いえいえ私だけが女王様に呼ばれたのかもしれません。他のお二人は、急に足がけいれんを起こしたりして、お墓は目の前と言うところで足止めをさせられたようです。 お墓に到着したころ、遠くからゴロゴロと雷も轟きだして、私に何かを語りかけていたようにも思いました。そして、4月29日の朝に、皆で眺めていたそのポイントに立っていました。

「よく来てくれましたね、ありがとう!」と、卑弥呼おばさんは喜んでいた様子でしたが、「来てすぐ帰るなんて・・、帰らんとって!!怒るわよ!」と、ゴロゴロ雷の音が激しくなるのが分かりました。 お二人も心配していると思い、急ぎ足でお墓を離れましたが、背中の方から「もうしばらく居てほしい!!」とゴロゴロ、ドド~ン!と轟き音は大きく私に迫ってくるようで、卑弥呼おばさんが山姥に変身する前に、その声を振り切って帰ってくると、お二人の姿を見てホッとひと安心する私でした。 そして下山途中に巨石群の場所に案内してもらったりと、この足で、そしてこの目で八幡山連峰の一部を観てきましたが、私の感想としましては、八幡山連峰そのものが、東も西もきれいに川で囲まれた山城、山門(やまと)であると強い印象を覚えました。 日本海と瀬戸内海のちょうど中央に位置する場所で、まさに難攻不落の山城といった地形です。 八幡山ピラミッドから女王卑弥呼が生野に祀られているユダヤの大王二人をお守りし、祈っていたとしてもなんら不思議はありませんし、そして卑弥呼も又、大王二人と祈りの場所の八幡山を挟んで反対の場所で眠りについたとしても当然至極と思います。そのポイントが見事なくらいに三角法で位置決めされています。

山裾に転がる石群や巨石に砦の痕跡が想像できますし、その石とは全く違う石が卑弥呼の墓の場所にはあることも、ますます信憑性が増してきました。

魏志倭人伝に記された邪馬台国は、但馬、丹波、丹後、摂津と、そして政体を司る大和でしたが、国体を司る女王卑弥呼が居た場所は、難攻不落の山門(やまと)、生野、神河町の八幡山連峰だったと考察できそうです

・・・

卑弥呼はすでに死んだ。大いに塚を造った。径(さしわたし)は百余歩・殉葬者のは百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。

・・・

 卑弥呼おばさんのお墓は、山頂に百余歩ほどの大きさでした。

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八幡山連峰の西は、豊かな自然が残っています

2012-04-13 19:02:28 | かごめかごめの真実とは

4月12日(木)   「せっかく来たのに泊っていって下さい! 皆(お伴の100人の方々)も そう願っていますから・・ねっ!お願い!!」 と、女王卑弥呼様が言ってるような気がして、急きょホテル モンテローザさんに泊めていただくことにしました。

・・・

私 :「すみません、泊めていただけますでしょうか?男性一人ですが・・」

支配人 :「夕食はできませんが、それでもよろしければ・・」

私 :「結構です。よろしくお願いします」

・・・

 露天風呂から眺める暗い山影から、祈りを始める前は何かソワソワしている女王様と,

同行された方々の落ち着かないソワソワ、ソワソワ感の波動が私の身体に強く感じられました。そして・・

「オオ~~~~~~、オオオオ~~~~~~~ オオオ~~~~」と 素っ裸で 両手を頭上に上げて、それから上や下へと厳かにゆっくりと手を動かし、 ご挨拶の信号を送り終わった後、は ・・ ホッ!  と 落ち着かれた波動になられたような・・・   誰一人いない浴場で、でも私と女王様と共に同行された方々とが触れあえたようでした。誰かが見ていたら完全に、「かわいそうに・・」と思われる光景でしたが、星はとても明るくチカチカと近くでウインクし続けていました。

「夢枕に女王様が現れてくれたらいいのになぁ・・」 と強く願って眠りにつくと・・・

・・・

 夢に起こされて・・、朝5時すぎにはホテルを出て山の近くまで行って、懐かしい風景を思い出すかのように、ただただその山を見つめ続けていました。 そして、ホテルまでの道すがら、とうとうと流れる小川のせせらぎの音と水しぶきと,水の色にも遠い子供のころの昔を思い出していました。 

ホテルで朝食を済ませ、どうしても女王様の近くまで行きたいとその山へ車を走らせると・・・、道路の真ん中に車が止まっているので登るのをあきらめてバックすると・・・。

ここから 思わぬドラマが始まりました。 結果、ふもと栗に住む S元さんご夫妻の家に招かれることとなり、ワイワイ、ガヤガヤとなりました。

・・・

ここ兵庫県神崎郡神河町の長谷や栗には失われた日本の自然や心が残っていて、この地に帰ってくることで、誰もが忘れかけていた本当の自分自身にもきっと出会えることでしょう。 大事に大切にしたい日本の故郷、神河町の長谷、栗でした。 

・・・

長谷駅のすぐ上の山の山頂には、謎の巨石群があるのを地元の人達でさえご存じないようです。 でも地元生れの市川慎さんは、八幡山連峰をつぶさに歩き回って、写真に収めています。 その八幡山、 きれいでしたねぇ、感動しました。 来週あたりは桜の花も咲いて、より感動が増幅されることでしょう。  お奨めのスポットです!

 鉄道写真家で赤穂のYさんも、ありがとうございましたぁ

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