5月5日 JR播但線長谷駅の北側から八幡山連峰の女王卑弥呼の墓を目指して巨石遺構を研究している地元生れの市川さんの案内で登ってきました。
卑弥呼の墓へと到達したのは、三人のうち私一人だけでした。 いえいえ私だけが女王様に呼ばれたのかもしれません。他のお二人は、急に足がけいれんを起こしたりして、お墓は目の前と言うところで足止めをさせられたようです。 お墓に到着したころ、遠くからゴロゴロと雷も轟きだして、私に何かを語りかけていたようにも思いました。そして、4月29日の朝に、皆で眺めていたそのポイントに立っていました。
「よく来てくれましたね、ありがとう!」と、卑弥呼おばさんは喜んでいた様子でしたが、「来てすぐ帰るなんて・・、帰らんとって!!怒るわよ!」と、ゴロゴロ雷の音が激しくなるのが分かりました。 お二人も心配していると思い、急ぎ足でお墓を離れましたが、背中の方から「もうしばらく居てほしい!!」とゴロゴロ、ドド~ン!と轟き音は大きく私に迫ってくるようで、卑弥呼おばさんが山姥に変身する前に、その声を振り切って帰ってくると、お二人の姿を見てホッとひと安心する私でした。 そして下山途中に巨石群の場所に案内してもらったりと、この足で、そしてこの目で八幡山連峰の一部を観てきましたが、私の感想としましては、八幡山連峰そのものが、東も西もきれいに川で囲まれた山城、山門(やまと)であると強い印象を覚えました。 日本海と瀬戸内海のちょうど中央に位置する場所で、まさに難攻不落の山城といった地形です。 八幡山ピラミッドから女王卑弥呼が生野に祀られているユダヤの大王二人をお守りし、祈っていたとしてもなんら不思議はありませんし、そして卑弥呼も又、大王二人と祈りの場所の八幡山を挟んで反対の場所で眠りについたとしても当然至極と思います。そのポイントが見事なくらいに三角法で位置決めされています。
山裾に転がる石群や巨石に砦の痕跡が想像できますし、その石とは全く違う石が卑弥呼の墓の場所にはあることも、ますます信憑性が増してきました。
魏志倭人伝に記された邪馬台国は、但馬、丹波、丹後、摂津と、そして政体を司る大和でしたが、国体を司る女王卑弥呼が居た場所は、難攻不落の山門(やまと)、生野、神河町の八幡山連峰だったと考察できそうです。
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卑弥呼はすでに死んだ。大いに塚を造った。径(さしわたし)は百余歩・殉葬者のは百余人であった。あらためて男王をたてたが、国中は不服であった。こもごもあい誅殺した。当時千余人を殺し(あっ)た。
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卑弥呼おばさんのお墓は、山頂に百余歩ほどの大きさでした。