清水宗治が籠る高松城(岡山市)を水攻めしていた秀吉のもとに「信長死すの報」がもたらされたのは、天正10年6月3日深夜のことである。本能寺の変からわずか1日と半日後のことであった。
この時、秀吉の陣には黒田官兵衛、蜂須賀小六などがいた。(弟の小一郎もいたであろう、清正らもいたはず、前野長康は分からない)
報をもたらしたのは茶人の長谷川宗仁である。秀吉は「ぎゃっ」と叫んで、それから泣き出した。その間、黒田官兵衛らも宗仁の手紙を回読した。みな一様に言葉を失った。
しばらくして秀吉は立ち上がり、
「このことは機密だ。街道を封鎖しろ。毛利とはなんとしても講和するしかない。清水宗治が腹を切れば、あとは条件はどうでもいい」と言ったという。
言葉が終わらないうちに官兵衛らは行動を始めた。その後、細川幽斎らからも続々と文が来て、秀吉らはより詳しい状況を知った。
秀吉はそれとなくこの情報を安国寺恵瓊に伝えた。むろん詳細は伏せている。「京にて謀反あり、即時京に返す」とのみ言った。安国寺恵瓊は秀吉の顔色をみて、よほどの変事が起きたことを悟った。しかしこれを毛利本陣に知らせれば、毛利は清水の切腹を拒み、戦況は膠着するに違いない。ここは「秀吉に恩を売る」べきだと考えた。
秀吉が示した条件は「破格」であった。秀吉が実力支配している3か国の割譲と、清水宗治の切腹である。安国寺恵瓊は独断でこれを処理した。清水宗治は自主的に腹を切ったことにした。こうすれば「毛利が見捨てた」ことにはならない。(このあたりの安国寺恵瓊の行動は史実としては怪しい)
それが6月の4日であった。
6月5日、まだ秀吉は動かない。宇喜多秀家など一部の軍勢は、すでにしずしずと姫路に向かって引いている。この5日の段階では毛利は既に「本能寺の変」を知っていた。毛利家中では交戦派の吉川元春などから秀吉軍を追撃しようという声もあがったが、元春の弟・小早川隆景はこれを制した。既に和議がなり、約定も結んでいる。なにより毛利には畿内まで領地を広げようという野心がない。やがて秀吉が畿内で権力を握れば、毛利を粗略には扱わない。すでに秀吉側からは内々にそういう言質も得ている。ここは動かないことが毛利の本領安堵にとって有利であった。
6月5日の夜まで秀吉は京からもたらされる情報によって畿内の情勢を分析した。そして毛利が動かないこと確認すると、一斉に姫路に向かって引きはじめた。兵は軽装にし、甲冑などは荷駄隊で運んだ。
6月6日夜、秀吉の部隊は沼城に到達。
6月7日夜、姫路城に到達。沼城から姫路城まで80キロである。一日で走破できる距離ではない。到着したのは船を使った秀吉など一部であり、本体はもう少し遅れて到着したはずである。ここでしばし休息。
6月9日、明石。6月10日、兵庫着。6月11日尼崎着。6月12日、富田着、ここ富田で諸将を集め軍議を開く。
既に高松城にいる段階から、秀吉は畿内の諸将に文を送って参陣を求めていた。
同時に織田家諸将の動きを掴むことにも心を砕いていた。
「一番近くにいる織田家中のものと言えば、織田信孝様と丹羽様じゃ。動いておるか」
「信孝様の軍勢は中国征伐に備えて1万5千以上おりましたが、変事を知った兵が逃げ出し、今は7千ほどとのこと」
「そもそも寄せ集めの兵じゃに、仕方ないじゃろ」と秀吉は言ったと伝えられる。
秀吉が気になるのは摂津の各武将であった。摂津の留守居である池田恒興、大和の筒井順慶、それに高山右近、中川清秀。
しかしこれらの諸将も秀吉の尼崎到着を知ると、こぞって秀吉のもとに参陣した。
丹後の細川幽斎親子は髻を切って信長の喪に服しているという。
やがて摂津にいた織田信孝、丹羽長秀も秀吉のもとに参陣、これで兵数は3万以上になった。
☆安国寺恵瓊に伝えたというのは「そういう説もある」程度の話です。兵は軽装にし、甲冑は荷駄で運んだ、も証拠はありません。
一番分からなかったのは「織田信孝・丹羽長秀軍団の消滅」です。ここでは「寄せ集め、逃げた」説をとりました。
「半分ぐらい史実」でしょうが、あとは「説」の段階のものです。確実な資料が少ないので、たぶんいつまでたっても本当のことは分からないでしょうが、「秀吉が本能寺の黒幕でなかった」のは確実です。とはいうものの「秀吉黒幕説」を信じている人は「何を言っても説を変えない」でしょうから、そこにはこだわりません。
この時、秀吉の陣には黒田官兵衛、蜂須賀小六などがいた。(弟の小一郎もいたであろう、清正らもいたはず、前野長康は分からない)
報をもたらしたのは茶人の長谷川宗仁である。秀吉は「ぎゃっ」と叫んで、それから泣き出した。その間、黒田官兵衛らも宗仁の手紙を回読した。みな一様に言葉を失った。
しばらくして秀吉は立ち上がり、
「このことは機密だ。街道を封鎖しろ。毛利とはなんとしても講和するしかない。清水宗治が腹を切れば、あとは条件はどうでもいい」と言ったという。
言葉が終わらないうちに官兵衛らは行動を始めた。その後、細川幽斎らからも続々と文が来て、秀吉らはより詳しい状況を知った。
秀吉はそれとなくこの情報を安国寺恵瓊に伝えた。むろん詳細は伏せている。「京にて謀反あり、即時京に返す」とのみ言った。安国寺恵瓊は秀吉の顔色をみて、よほどの変事が起きたことを悟った。しかしこれを毛利本陣に知らせれば、毛利は清水の切腹を拒み、戦況は膠着するに違いない。ここは「秀吉に恩を売る」べきだと考えた。
秀吉が示した条件は「破格」であった。秀吉が実力支配している3か国の割譲と、清水宗治の切腹である。安国寺恵瓊は独断でこれを処理した。清水宗治は自主的に腹を切ったことにした。こうすれば「毛利が見捨てた」ことにはならない。(このあたりの安国寺恵瓊の行動は史実としては怪しい)
それが6月の4日であった。
6月5日、まだ秀吉は動かない。宇喜多秀家など一部の軍勢は、すでにしずしずと姫路に向かって引いている。この5日の段階では毛利は既に「本能寺の変」を知っていた。毛利家中では交戦派の吉川元春などから秀吉軍を追撃しようという声もあがったが、元春の弟・小早川隆景はこれを制した。既に和議がなり、約定も結んでいる。なにより毛利には畿内まで領地を広げようという野心がない。やがて秀吉が畿内で権力を握れば、毛利を粗略には扱わない。すでに秀吉側からは内々にそういう言質も得ている。ここは動かないことが毛利の本領安堵にとって有利であった。
6月5日の夜まで秀吉は京からもたらされる情報によって畿内の情勢を分析した。そして毛利が動かないこと確認すると、一斉に姫路に向かって引きはじめた。兵は軽装にし、甲冑などは荷駄隊で運んだ。
6月6日夜、秀吉の部隊は沼城に到達。
6月7日夜、姫路城に到達。沼城から姫路城まで80キロである。一日で走破できる距離ではない。到着したのは船を使った秀吉など一部であり、本体はもう少し遅れて到着したはずである。ここでしばし休息。
6月9日、明石。6月10日、兵庫着。6月11日尼崎着。6月12日、富田着、ここ富田で諸将を集め軍議を開く。
既に高松城にいる段階から、秀吉は畿内の諸将に文を送って参陣を求めていた。
同時に織田家諸将の動きを掴むことにも心を砕いていた。
「一番近くにいる織田家中のものと言えば、織田信孝様と丹羽様じゃ。動いておるか」
「信孝様の軍勢は中国征伐に備えて1万5千以上おりましたが、変事を知った兵が逃げ出し、今は7千ほどとのこと」
「そもそも寄せ集めの兵じゃに、仕方ないじゃろ」と秀吉は言ったと伝えられる。
秀吉が気になるのは摂津の各武将であった。摂津の留守居である池田恒興、大和の筒井順慶、それに高山右近、中川清秀。
しかしこれらの諸将も秀吉の尼崎到着を知ると、こぞって秀吉のもとに参陣した。
丹後の細川幽斎親子は髻を切って信長の喪に服しているという。
やがて摂津にいた織田信孝、丹羽長秀も秀吉のもとに参陣、これで兵数は3万以上になった。
☆安国寺恵瓊に伝えたというのは「そういう説もある」程度の話です。兵は軽装にし、甲冑は荷駄で運んだ、も証拠はありません。
一番分からなかったのは「織田信孝・丹羽長秀軍団の消滅」です。ここでは「寄せ集め、逃げた」説をとりました。
「半分ぐらい史実」でしょうが、あとは「説」の段階のものです。確実な資料が少ないので、たぶんいつまでたっても本当のことは分からないでしょうが、「秀吉が本能寺の黒幕でなかった」のは確実です。とはいうものの「秀吉黒幕説」を信じている人は「何を言っても説を変えない」でしょうから、そこにはこだわりません。