散文的で抒情的な、わたくしの意見

大河ドラマ、歴史小説、戦国時代のお話が中心です。

篤姫・天璋院・徳川家定・徳川家茂・徳川慶喜 食生活は大切だ

2018年11月06日 | ドラマ
篤姫は13代将軍家定の正室です。今はとっても有名な人です。夫亡き後は天璋院。「璋」ってなんだろうと思ったら、玉(東洋で珍重された宝石)製品の「ひしゃく」みたいです。まあ「玉」という意味でしょう。

ウィキペディアを見ると「大奥」で菅野美穂さんが演じたとか「単発ドラマ、主役」で佐久間良子さんが演じた。大河「篤姫」で宮崎あおいさんが演じたと「3つの作品」が載っています。

何か忘れてはいませんか?と思います。大河「翔ぶが如く」で富司純子さんが演じましたし、大河「慶喜」では深津絵里さんが演じました。

大河「慶喜」は総集編すらDVDになっていません。私は昔、スカパーの時代劇専門チャンネルで録画したので、探せば全話分を持っていると思います。

「翔ぶが如く」が1990年ですから、1998年の「慶喜」の時には私は十分に篤姫のことを知っていたはずです。でも気が付かなかった。そもそもは、司馬さんの何かの文章で知りました。大変賢く、人望があったと書いてあった気がします。ちなみに小説「翔ぶが如く」には登場しません。小説の方は全部明治後の話だからです。大河ドラマの明治以前の部分は、脚本の小山内美江子さんが、司馬さんの他の幕末ものを参考に1から作り上げたものです。素晴らしい創作力です。

さて大河「慶喜」の篤姫ですが、すっごく「高慢ちきな女」なのです。あまり登場もしません。だから篤姫だと気が付きませんでした。深津絵里さんは1998年には「踊る大捜査線」に既にでており、「きらきらひかる」では主演もしています。なんで大河「慶喜」で「わきのわき」みたいな役につき、あんな「いやな女」を演じたのか、不思議です。

宮崎あおいさんの「篤姫」は「かろうじて1回観た」程度です。苦手な作品です。なにしろ主人公が徳川に嫁いでから一回も江戸城を出ないわけです。準主役は小松帯刀ですが、キャラとしては坂本龍馬の「いいとこ取り」みたいな人物として設定されていました。

夫である13代家定、堺雅人の設定が不思議でした。「暗愚のふりをしているという設定」でした。「子供のころから何度も毒をもられたから」だそうですが、じゃあ大人になって「将軍親政」を行い、敵を「粛清」すればいいと思いますが、どうも「トラウマ」を持っているみたいで、まあ不思議な設定でした。

史実としてもよく分からないところがあります。病弱だったということは良く言われます。「子供はできないだろう」と当時から思われていました。女性と性交渉ができない病弱な体ってなんだろうと思います。脳性麻痺とも言われますが、確実なところはわかりません。

とにかく子供は作れない。だから「誰を次の将軍にするか」が早くから問題となりました。一橋派が負けて、徳川家茂(いえもち)派が勝ち、紀州から入って12歳で将軍となります。篤姫は家茂を我が子のように育てた、らしい、のですが20歳で亡くなっています。脚気衝心つまり「かっけ」というビタミンB1欠乏症です。白米ばかり食べているとそうなります。玄米だと予防できます。豚肉を食べるとまずこの病気にはなりません。

実は篤姫の夫である家定も「脚気衝心」で亡くなっています。篤姫が食事を作っていたわけではないので、別に篤姫のせいではありません。でも「薩摩産の豚肉」を勧めていれば、家定も家茂も少しは長生きできたかも知れません。食生活は大切です。豚肉は「不浄なもの」ですが、けっこう「隠れて食べていた」人も多いのです。

徳川慶喜に至っては隠れて食うなんてこともせず、堂々と食べていました。でついたあだ名が「豚一様」です。写真をみると貴族風のなかなかにいい男なんですけどね。豚のおかげか、パンのおかげか、75歳ぐらいまで長生きします。亡くなったのは明治帝のあとで、大正2年です。幕末ものの本を読むのが好きだったようです。たぶんですが、夏目漱石だって読んでいたはずです。

さてドラマの天璋院にもどると、

富司純子さんが演じた時は驚きました。若い頃を別の女優が演じるわけでもなく、いきなり富司純子さんが10代を演じたわけです。幕末だってまだ30歳ちょっとで、亡くなった明治16年でも47歳です。でも富司さんの天璋院はいかにも「包容力があり」、西郷に対しても優しい人間として描かれました。

(西郷は斉彬の公武合体構想に沿って行動はしなかったけれども)

よい、世は流れているのです。吉之助は立派に世直しをしたのです、と西郷に告げます。西郷涙ぼろぼろでした。

北川景子さんの天璋院は「西郷、慶喜殿の首ひとつでこの戦を終わらせてくれ」と命令調でした。女優さんは綺麗ですが、セリフが美しくありませんでした。

慶喜の首ひとつ差し出す、自分も死ぬという論理です。まあ西郷あての手紙では「たしかにそんなことを書いては」いるのです。慶喜は天罰を受けても仕方ないし、自分もどうなってもいいが、徳川家だけは守ってほしい、とそう「書いては」います。なんで「天罰」いう言葉が出るかといえば、彼女は「息子同然の14代家茂を殺したのは慶喜だ」と信じていたからです。

が、そのまま単純に彼女が「慶喜に切腹させ、自分も死ねば事態は収まる」に思っていたとは思えません。しつこく「徳川家」と何度も書いている点が重要かと思います。

「徳川家を潰すというが、もし立場が逆で、島津家を潰すと言われたらどうする。勅命であったとしても、それに西郷は従うのか。島津家臣が家を重んじるように、徳川家臣も家を重んじている。ここは立場を変えて考えてみてほしい。島津はむろんのこと西郷家だって潰したくはないだろう。」

「家の論理」を繰り返し訴えることによって、「家を特に重んじる薩摩」の武士である西郷の弱点を突いている、私にはそう読める気がしてなりません。

藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は物理的に重たい。石谷家文章とか本能寺の変と四国の関係とか。

2018年11月06日 | ドラマ
中断を挟みつつ、3年ぐらいこのブログを書いていますが、「本能寺の変」の「原因」とか「動機」とか、まして「黒幕」なんてことに触れたことは、おそらくほとんどないと思います。

どれを信じるかはあなた次第って感じで「次々と説が」出ますが、どれも「こじつけ」感が強すぎるからです。

藤田達生「資料でよむ戦国史・明智光秀」は三重大学の教授さんが書いた「明智光秀論」というか「本能寺の変の裏に四国あり」というご本です。

正直何言ってるかよく分からない(私の頭が悪いせいで)のですが、物理的に重い。単行本で400頁あります。値段も5000円。むろん図書館で借りたので買ってはいません。

最初の三分の一ぐらいは「古文書を活字にしたもの」がズラーと並んでいます。

まあ「四国関係説」に立つわけです。

1、光秀と家臣である斎藤利三は四国の長曾我部と関係が深かった。

2、光秀たち(これを光秀派閥というそうです)は、長曾我部氏を介して(介してって何?)、西国支配への影響力を行使しようとしていた。(どうやら長曾我部・毛利→毛利にいた義昭ラインというのがあるという前提みたいです)

3、とにかく光秀派閥は四国の長曾我部と関係が深かった。しかも長宗我部元親の正室は斎藤利三の妹(異母?)なので特に関係が深かった。

4、最初信長は長曾我部は殲滅しないつもりだった。光秀派閥は長曾我部とともに四国に勢力を伸ばし、西国へ影響力を行使しようとした。

5、ところが「子供たちへの土地分配=相続問題」に悩んでいた信長?は、四国を殲滅しようとした。

6、そこで光秀派閥は本能寺の変を起こした。「四国討伐」が決まったとしても、光秀が担当するなら「まだ良かった」が?、四国征伐は織田信孝・丹羽長秀の担当となった。全国平定が終わったら光秀派閥は遠国にとばされる。(四国も遠国では?)これではもう織田信長を討つより光秀派閥には進む道がなかった。(なぜ?)それを主導したのは石谷家文章を読む限り、光秀というよりむしろ斎藤利三だ。つまり「光秀派閥だ」。だから「単独犯行説」も「直前に光秀が謀反を利三に打ち明けた」という説も、まったく成り立たなくなったのだ。

7、今までもこのことを筆者は指摘してきた。しかし江戸時代に書かれた資料(2次資料)を基にしたので検討されることが少なかった。ところが新しく石谷家文章という「1次資料」が2014年に公開された。これを読めば、「四国説」が「検討に値するものである」ことは明らか。光秀派閥が本能寺の変を起こしたのだ。織田家は血みどろの「派閥抗争の場」だったのだ。だから偶然ではなく、本能寺の変は派閥抗争の必然の結果なのだ。(どうして必然という言葉がでてくる?)

たぶん、7割程度は藤田さんの書いていることを「それなりに藤田さんの言う通りにまとめている」と思うのですが、このようにまとめても、何言いたいのかあまり正しくは理解できません。論理の筋道が通らないところが少なくないためです。

まとめている私の中で「なぜ?どういう理屈だ?」という言葉がガンガン響いて仕方ないのです。

一番重要なのは「光秀派閥」または「派閥」という言葉のようです。石谷家文章の中には長曾我部元親と斎藤利三が交わした手紙が含まれるのですが、もちろん「長曾我部を討つらしいので、明智家が信長を討って長曾我部を守ります」なんて書いてあるわけではありません。

そもそもずっと四国関係説を言ってきたが、無視されてきた。そこに石谷家文章が公開された。これこそ四国関係説の証拠というべきものなのだ。まあ「証拠なのだ」は言い過ぎかも知れないけど、これをきっかけに四国関係説を真剣に検討せよ。そう訴えているように私は読みました。

もし藤田氏ご本人、またはそのお弟子さんたちがこの文章を読んだら、「浅読みしかできない素人が何いってやがるんだ」と怒られると思います。いや怒る気もなくして無視されると思います。当時の資料を本の3分の1を使って載せているのだから、古文書に「注釈」を加えて欲しいと思います。「そんな必要はない学者向きの本」なのかと思うと、途中で「コラム」とかが出てきます。とすれば「素人向き」でもあるわけで、それにしてはあまりに「不親切」です。

私に分かったことは、なにか当時の文章(たぶん鑑定は済んでいるのでしょう)が出てくると、必ずそれに付随して「説」がまた増えるか、もともと存在していた「説」が「息を吹き返す」こと。

そしてある種の学者さんは、少し論理的におかしいと自分でも分かっているだろうに、自説を語る時には「必要以上の断定口調で語ること」です。

そもそも1次資料ってそれほど「信頼に足る」ものなのでしょうか。事実の叙述には必ず解釈が入ります。「今日は久々に空に雲があまりなかった」「今日は3日ぶりの快晴だった」、どっちも同じ事実を語っていても、そこに微妙な違いが生じます。しかも当時は「だましあい」の時代であり、書いた時点で既にウソなんて文章も沢山あると思います。「資料に語らせる」というと何か客観的、科学的という感じがありますが、果たしてどうなのでしょう。

むろん筆者さんたちが私の百倍も歴史知識があり、時間をかけて古文書を読んでいることは分かっています。分かっていても、、、。まあ、関係者の方ご免なさい。でも「素直な感想」です。

私は基本、本能寺の「説」に興味がないのですが、一応少しばかりは本能寺本を読んでいます。全部に「つきあっているヒマ」はありません。一番「心にストンと落ちる」のは「たまたま説」です。特に「奇妙」まで、つまり織田家当主の「織田信忠」まで討ち取ることができたのは「たまたま」だと思います。実際、一緒にいた信長の弟・長益、織田有楽は逃げ延びたわけです。

織田信忠が、少数とはいえまだ兵を持っていた丹羽・信孝軍までたどり着いて、そして生き延びていれば「清須会議」など開く必要もないわけです。家督は譲られていて、信忠は既に当主だったのです。「明智討伐に大功あり」ということで、秀吉が強引なことをしようとしたなら、信忠指揮のもと、柴田、丹羽、滝川、織田信雄、織田信孝が動き、秀吉派は駆逐されていたでしょう。秀吉は馬鹿ではないので、そんな行動はそもそもとらないはずです。秀吉は信忠との関係が良好であったと伝わっていますし、そんな無謀な行動をとるとも思えません。

信忠存命を知ったら、秀吉は大返しなどしなかったと考えることもできますが、そうなると柴田が帰ってきてしまい、秀吉にとっては不利な状況が生まれます。柴田が担当した越後にはもう謙信はおらず、上杉は存亡の危機でした。秀吉よりずっと帰ってくる「余裕」があったのです、したがって秀吉が信忠のもとで重臣になろうとするなら、やはり「大返し」をしたと思います。当時織田家では謀反が増えていましたから、秀吉は当然、京で何かが起きる「少しの可能性」は考えていたでしょう。準備もしていたかも知れません。信長が死ぬとは思ってなかったでしょうが。

「本能寺はたまたまだ」と声を大きくして言いたいわけではなく、「たまたま説」が今のところ一番筋が通っていると思うだけです。

「ドラマにできる大久保利通」・江藤新平・山内容堂・大村益次郎おまけで麻生太郎

2018年11月06日 | ドラマ
大久保利通という政治家は基本的には公正無私で、生活は質素であり、無口で仕事は厳密にこなす、同時代人で悪くいう人はあまりいないようです。

エピソードも西郷に比べればはるかに少ない人物です。

が、以下のようなシーンならあるいは「ドラマにできる」かも知れませんし、実際「ドラマになったシーン」も含まれます。「ほぼ史実」だと思います。

・大久保に何か言いたくても言えない桐野(半次郎)が、酒の勢いで大久保に意見しようとする、しかし、大久保にちらっと「一瞥」されただけで、あの桐野が委縮して黙り込んでしまった。

・中江兆民が大久保に自分の意見を披露した。大久保は目を閉じていた。眠るとは失礼と中江兆民が不満を述べた。大久保は「よく聴くために目を閉じている。私が見ていては君も話しにくいだろう」と応じた。

・警備を重くしろという周りの忠告を聞かなかった。死ぬとすればすべて天がなすものとして、厳重な警備をしなかった。(もしかすると川路大警視は大久保に警備をしたいと言って、断られたのかも知れません)

・江藤新平の佐賀の乱鎮圧時は強権を発動した。明治後であるのに、江藤を追いつめ「さらし首」にした。これは不満氏族への見せしめと言われているが、必ずしもそれだけではない。江藤新平と大久保は国家観が近く、国家の仕組みを建設する能力が高いことも同じであった。明治初期においてはただ一人「江藤新平」のみが自分と匹敵するような男と思っていたふしがある。

・伊藤は西郷など尊敬していなかったが、大久保を深く尊敬し、それは終生変わらなかった。ちなみに伊藤は木戸も尊敬はしていたが、「口うるさい兄貴」という風にも思っていた。

・慶喜討伐を話題にした御前会議で山内容堂に意見し、「何をいいやがる」とどやされた。(慶喜は領地を返還しないから朝敵というのが大久保の論でしたが、領地返還をまだしていないと言えば、土佐も薩摩も長州も同じでした。そこをとらえて容堂は「何をいいやがる」と叫んだわけです。当時大名はそんな言葉はまず使いませんでした。)

・予期せず暗殺された時、西郷隆盛からの手紙を懐に持っていた。(いつも持っていたということ)

兵制論争
大久保利通は長州の大村益次郎とは兵制改革をめぐって「大喧嘩」をしています。兵制改革とはつまりは国民皆兵で、武士の誇りを奪うものです。大久保は「ソフトランディング」を目指しました。「薩摩の反発と暴発」「島津久光の動向」が頭にあったためでしょう。大村は至急なる「兵制改革」を主張します。論争に敗れた大村は辞表を出しますが、結局大村以外はできないということで、また軍政のトップに戻ります。ただしほどなく暗殺されます。大村暗殺は不平士族の犯行ですが、「黒幕」には大久保ではなく、薩摩の海江田がいたと言われています。
大村にも「久光の影」は見えていたでしょう。しかし長州の出身ですから殿様の意向なぞに重きはおきません。しかも久光は殿様ではなく、殿さまの父親に過ぎません。「薩摩の反発と暴発」は予想していました。「やがて九州から足利尊氏の如きものが現れる」と予感していました。その時こそ薩摩を叩き潰し、武士の世を終わらせる。大村はそう考えていたでしょう。大久保も同じだったでしょうが、「それにはまだ時間がいる」と考えていたのだと思います。


おまけ
麻生太郎氏、どうも彼の政治姿勢というか「傲慢な態度」には下品さしか感じません。経済政策にも賛同はできません。が、一応は大久保利通の「孫の孫」みたいです。
矢印で示すと大久保利通→牧野伸顕→雪子→和子→麻生太郎となるようです。孫の孫ですから玄孫。ちなみにひ孫は「孫の子」です。