職業としての大学教授 (中公叢書)潮木 守一中央公論新社このアイテムの詳細を見る |
日本の大学教員ポストについて、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスといった先進各国
の大学教員事情をからめつつ比較、解説する。
同じ博士や教授であっても、それぞれの国で随分と事情が違う点が興味深い。
大方の人が予想していることだとは思うが、やはりアメリカは流動性が高く、給与水準は
市場の論理に従って決められている。同じ大学内でも、ビジネス、法律系の教授の給料が
文学、芸術系の教授の2倍以上であり、州立大の公務員でありながら、研究系の教授は
私学の水準だったりといった具合だ。
「遊んでる奴と同じ給料なのは納得できない、年功序列はおかしい」
といって左巻きの教授すら私学に逃げ出す日本の国立大学とはえらい違いである。
そういう意味では、やはりドイツがどこか日本に近い。
教授ポストに昇格できるのは40歳近くになってから。身分はあくまで公務員で、定年は
65歳。ノーベル賞もらった物理学者が「定年の無いアメリカに移住します」といって
大問題になる点も、あまり笑えない。
それでも、やはりドイツの研究者は恵まれている。
ドイツの博士号取得者の大半は、望めば時間差なしですぐに就職している。
電子工学系95%に及ばないにしても、文学系も68%が職を得ている。
企業が高学歴者を採用する理由は、企業と大学の間にある敷居が低いからだ。
ちなみに、ドイツ主要企業200社の半分は、トップが博士号取得者である。
日本との違いは明らかだろう。
国が大学や機関にカネをばらまいて任期付きポストを増やすことには限界がある。
やはり、最後は民間企業が雇うしかないのだ。上記のような問題をはらみつつも、ドイツの
大学システムが機能しているのは、なんだかんだいいつつもドクター達が飯が食えていると
いう点が大きいだろう。
その点、飯すら食えない日本の博士は悲惨である。
現在、年間6000~8000人程度の新規採用枠しかないにもかかわらず、年間16000人程度の
博士が生まれている。そしてとても重要なことだが、これから少子化が進む中で、需給関係
はより悪化することが確実である。
最後に、著者はきわめて現実的な提言で本書を締めくくる。
「大学の既存ポストも含めた新たな選抜制度を設計するまでの間、
大学院の新規募集を 一時的に停止すべき」
正社員や弁護士もそうだが、本来はいかなる事情があれ、既にポストについている人間の
既得権のために、新規参入者の権利が阻害されることがあってはならない。
それが「学ぶ」という権利であればなおさらだ。
だが、今手を打てば、新たな被害者は減らせるのは間違いない。
そう考えると、僕は著者の提言を乱暴だという気にはなれない。
著者の言うとおり、20代を実社会でのキャリアを経験することなく過ごすということは、
とても高リスクなことだからだ。
ところで、本書の提言からは、人口減社会というものの恐怖をリアルに感じてしまう。
著者の提言というのは、要するに「これから少子化で需要が減るのだから、大学院という
高等教育機関への人材の投資を減らしましょう」というきわめて合理的な話だ。
この発想は、すべての企業や消費者にも当てはまる。そりゃデフレにもなるだろう。
日本との違いは企業の採用姿勢に加え、「就職先は大学でも企業でもどっちでも良い」という感じの院生が結構多いことですね。
日本は博士課程を廃止し、有望な人は修士卒で助手などとして採用してから学位を取らせるというのも一案かと思います。将来は上手くいけば研究者、失敗すれば助手や教育職、テクニシャンのままということで少なくとも失業問題にはなりません。「博士の院生がいなくなったら研究が回らない」という意見も出ると思いますが、むしろ大学院重点化以降、日本の大学は身分不相応に院生を増やしすぎたのです。
大企業にしろお役所にしろ大学にしろ、居心地のいい場所ほど老人ホーム化してるのは気のせいでしょうか?
とはいえ、今の日本の状況だと、そんな100年200年先のあてにならないことに金をつぎ込めるほど余力があるかと言えばかなり疑問です。前回の事業仕分けのスーパーコンピューターのときもそうでしたが、「確かに、スーパーコンピューターの必要性はわかるが、それを社会保障費を削ってまで投資すべき対象なのかどうか?」という疑問が呈されていました。
グローバルな視点を超越して考えれば、「他の国に負けないために」社会保障も削り、100年200年先の投資(人文・基礎理学系の研究費)も削り、10年20年先の投資だけに集中せよというのは、非常に近視眼的な発想であり、世界全体が沈没してしまうのではないかと危惧しています。ここのブログで非難されている既得権が若年層の権利を侵食し、その対策として市場原理で既得権を淘汰せよというのも、もっと長い視点で見ると「世界共倒れ」の危険性すらあります。
大学で研究する事は、そういった「市場原理」を超越したところで新たな可能性を探る事も含まれる訳ですので、それ自体を「無駄なもの」として、排除してしまうような事があれば、大学の存在意義自体が揺らいでしまう事になるでしょう。もし、市場原理とマッチした「専門職大学院(ロースクールや医学部、MBAなど)」だけで良いのならば、大学院にすることは無く、専門学校で十分でしょう。
ここで問題なのは、100年200年先の将来のためにいかに金を捻出できるかであって、市場原理でとにかく「既得権『らしき』」ものは切り崩せということではないのですが、「既得権」と「既得権らしいが、必要なもの」の違いが素人には全く見分けがつかないというところがこの問題の根の深いところです。ビジネス系の教授が文学系の教授の2倍の給与を貰っているとありますが、文学系の教授から見れば、「ビジネス系の教授なんて、未知の研究なんてロクにせず、会社がやってきた成功談や失敗談を解釈しているだけの仕事なのになんで高い給与を貰えるんだ!」ということになるでしょう。ビジネス系と非実学系の人間にとって、「仕事」の概念があまりにも大きく違いすぎるので、ここに「市場原理」を持ち込んでしまうと大きな過ちを犯してしまう可能性があります。
日本は基本的に年齢で人の価値が決まる社会なので、大学院に行くのは自殺行為にも等しい状況。このあたりが欧米とは決定的に違います。大学院への進学人数を減らそうというのは極めてまっとうな考えじゃないですかね。
働きながらでは得がたい研究ができました。論文は書かなかったのですが、そのこと自体に後悔はありません。出て数年になりますが、書こうと思えばいつでも書けますから。
30代ということもあって、博士にきたからには就職のつてが欲しかったのですが、満期退学した後に就職がほしいと言うと指導教授はこうおっしゃいました。「(我々教員にとって)単位や学位はobligeだが、就職はserviceである。我々には就職を世話する能力が無い。博士を取っても取らなくてもここ六年ほどまともに就職できたものがいない」。
え゛ーなんだそりゃあと思いましたね。博士取ったって後は放り出されるってことかい?何のために博士を取りにくるのか、学位記を額縁に入れて飾っておくためじゃない。この大学は国立の大学院大学で就職課もありません。研究で食えるだけの仕事に就く、だから博士を取りにきたはずなのに、ここは博士を取ることそのものが目的の大学だったんです。3年居て初めてこのことに気づきました。
確かにこの大学、公務員が現役で入学してくるケースが多いんですよ。それなら既にいいお給料もらってるんだから学位だけでもいいですけど、そうではない普通の人や修士から社会人経験無く入ってきた若い学生の将来については一体……。教員と公務員を肥やすための大学だった、ということなのかなあ。
とても高リスクなことだからだ。
自分は社会人経験を二カ月で終わらせたので、
もうやるしかないんだと逆に励まされました。
必ずアートで食って見せます。
減らし方は、東大でもFランク大でも平等に定員半減しても良いし、偏差値で下半分の大学を全廃でも可です。何でも良いから減らせば。東京23区の大学全廃、とかすれば、地方の人は喜ぶかもしれませんね。
私も修士まで行って就職先が無くて監査法人に行きましたが、博士課程に行かなくて本当に良かったと思っています。社会に出ないと、20代を実社会のキャリアなく過ごすことが如何に恐ろしいハイリスクであるか、本当には理解できないですから。
ただ、社会人になってから、逆に大学院でこういう分野をもっと研究しておけばよかった、と思うこともままあるので、学部新卒は新規募集停止するにしても、社会人経験3年以上とかに限って新規募集は有りだと思います。
その意味では、東大が大英帝国で、京大がフランスなのでしょうかね?
気がついてみれば帝国主義は時代遅れで、「世界」の主流は民族自決なんでしょうが、日本の大学という宇宙ではまだ支配されている民族が覚醒していないのかしれません。
早稲田や慶応も私立ですが、独自の帝国でしょうね。
もちろん、日本よりも住みやすいし日本語教師への評価もあるので日本には戻りませんが、やはり地位が強烈に不安定なのはなかなか辛いところがあります。
台湾ではそういう日本語教師で修士号以上の学位があれば大学などで教えることができるそうです。収入は2倍以上だし、地位の安定さも全然ちがいます。もちろん、有期契約ですが。
こうなったら、日本の院卒の人はその能力を評価してくれる外国へ出るしかないですね。
私は資金難で大学院へ行けません。どうしましょう?困りました。