皆様方もご承知と思いますが、聖書の教えを学んでいない場合は特に、人間は自分のわずかの経験や知識や理解力や識別力によって「自分に依り頼む」傾向があります。そのことが極めて当たり前と考え、「自分以外には頼れない」と言明される方もいらっしゃいます。そのような人は、残念なことに、聖書が次のように教える言葉を熟考する機会もなかったのかも知れません。「エホバよ、地の人の道はその人に属していないことをわたしはよく知っています。自分の歩みを導くことさえ、歩んでいるその人に属しているのではありません」(エレミヤ10:23)。この聖句は人間には能力の限界があり、愛と公正(義)と知恵と力の源のエホバ神の導きが必要であることを教えています。聖書はエホバの教えを聴いて、さらに多くの教訓を受け入れ、賢い者となるように促しています(箴言1:5)。イエスはみ言葉を聞いて守り行う「思慮深い人」として歩み、その反対の「愚かな人」となることがないように教えられています(マタイ7:44~27)。
聖書の箴言は、「自分に依り頼んでいる者は愚鈍」と次のように明確に記しています。
「自分の心に依り頼んでいる者は愚鈍であり、知恵によって歩んでいる者は逃れることになる」(箴言28:26)。
先に箴言を紹介しました通り、エホバの教えに土台を据えた「明敏な者」は、災いを見て、エホバの下に避難します。しかし経験のない者は自分自身に依り頼み、進んで行き災い被ります(箴言27:12)。確かに災いを見て身を隠す人は賢く明敏な人ではないでしょうか。その反対の行動を取る人は「愚鈍な人」ということが分かります。人はだれも自分が「愚鈍な者」とは考えず、それとは知らず「自分以外には頼れるものはない」と、言われます。
エホバの知恵の言葉は次のように教えています。「心をつくしてエホバに依り頼め、自分の理解に頼ってはならない。あなたのすべての道において神(エホバ)を認めよ、そうすれば、神ご自身があなたの道筋をまっすぐにしてくださる。
自分の目から見て賢い者となってはならない。エホバを恐れ、悪から遠ざかれ」(箴言3:5~7)。
自分を賢い者として高める者は、神エホバからの知恵や識別力を学び適用しないので悪を行ない「愚かな人」の歩みをします(箴言2:1~15)。そのような人はエホバに是認されない「肉の業」を習わしにしますので、神の王国を受け継ぐことはありません(ガラテア5:19~21)。ですから、エホバの教えを学び守り行わい人は、「愚かな人」となり、祝福を得ることがなくなります(マタイ7:26,27)。一方、エホバからの知恵と識別力を得て歩む人は、「逃れる」、つまり災いを逃れ、最終的には義の宿る地上の楽園に導き入れられる祝福にあずかることができるでしょう(ペテロ第二3:10~13)。ご自身の能力の限界を認め、み言葉・聖書の知恵と識別力を学び適用する人たちは快い道、平安の道、命を道を歩むことが出来ます(箴言3:13~18)。
犬連れて 里山の道 夕涼し 今日の一句
庭のランタナに来ている「アゲハ蝶」
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