皆様方もご承知の通りに、最近のニュースでは、聖書の予告通りに「自然の情愛を持たない者」、「粗暴な者」の引き起こす事件が扱われています(テモテ第二3:3。さらにシリアからの幼い子供たちを含む避難民が、小さな船で命を掛けて国外に避難する途中に船が沈没し、二重三重の苦難に直面しているニュースに涙が流れます。そうした避難民に国際社会は十分に助けの手を伸べることのできていない状況が分かります。また、急速に進む高齢化社会に伴って、要介護の方々が増大し、介護施設でお世話を受けますが、その施設で介護士が要介護者に暴力を振るっていることを伝えているニュースもあります。さらに、介護の必要になった親を介護施設に入れたまま、お世話に行かない人も多くなっている、と聞きます。本来私たち人間は「神の像(かたち)」に創造されていますので、「憐れみ深い特質」を表すことが出来るのですが、「憐れみ」を表す人が少なくなっているように思います。その要因の一つには「自己中心的」な生き方の人が非常に多くなっている事や、聖書が教える愛や霊の実を育まない人たちが多くなっているからに違いありません(テモテ第二3:2.コリント第一13:1~8.ガラテア5:22,23)。多くの人が、聖書の教える「憐れみ深い人」とについて学び、「憐れみ深い人」として歩まれるなら幸いです。
イエス・キリストは有名な山上の垂訓の中で、次のように教えられました。「憐れみ深い人たちは幸いです。その人たちは憐れみを受けるからです」(マタイ5:7)。
イエス・キリストは上記の聖句が示している通りに「憐れみ深い人たち」が幸福なのは、神エホバから「憐れみを受ける」からでるあることを明らかにし、保証の言葉を述べられました。もちろん「憐れみ深い人たち」が「憐れみを受ける」のは、神エホバから以外にも、優しい愛情に富む人々からも憐れみを受けるのです。
「憐れ・哀れ」とは、どのような意味でしょうか。その意味を「かわいそうに思う心。ふびん。また同情を引くこと」、「悲しみ」と岩波国語辞典は記しています。「憐れみ深い人」とは、「憐れみ」を深く表す人のことです。聖書的な「憐れみ」とは、不利な境遇にある者に救済をもたらす、親切な思いやり、もしくは哀れみ・憐れみの表明、優しい同情、裁きや刑を軽くすることを意味する場合もあります。
私たちが憐れみ深い人として成長するには神エホバとそのみ子イエスの残された手本に見倣う必要があります。神エホバは、モーセにご自分がどのような神であるかを次のように明らかにされています。「エホバ、エホバ、憐れみと慈しみに富み、怒ることに遅く、愛ある親切と真実とに満ちる神、愛ある親切を幾千代までも保ち、とがと違反とを赦す神。しかし、処罰を免れさせることは決してせず、父のとがに対する処罰を子や孫にまでもたらして、三代、四代に及ぼす」(出エジプト記34:6,6)。憐れみに富む神エホバがどのように憐れみを示して来られたかは、聖書に詳しく記されています。例えば、エホバの憐れみは、ご自分の契約の民・イスラエルを扱われた方法に関して「憐れみ」の言葉を頻繁に用いられています。神エホバがご自分の民に憐れみを表されることは、女性が自分の胎児に哀れみを示すことや、父親が自分の息子に憐れみを示すことと比較されています(イザヤ49:15.詩編103:13)。イスラエル国民はしばしば神エホバの義から離れたため窮境に陥り、神エホバの憐れみ深い助けを特別に必要とすることがよくありました。民が正しい心の態度を示し、神エホバに立ち返った場合、神エホバは彼らに対して怒っていても、同情や恵みや善意を表されました(申命記13:17;30:3.詩編102:13.イザヤ54:7~10;60:10)。神エホバがみ子イエスを約束通りに処女マリアから生まれるようにされたことは、ご自分の民に対する神エホバの同情と憐れみという「夜明け」が近づいている証拠でした(ルカ1:50~58、72~78)。
み父エホバからすべての権威を委ねられたみ子イエスは、多くの憐れみ・哀れみの手本を残されました。例えば、イエスはご自分の周りにいる大群衆をご覧になった時、「彼らを哀れに思われた」のです。それは、「彼らが羊飼いのいない羊のようだった」からです。それで、イエスは直ぐに彼らの霊的必要を顧みて、真理の多くのことを教え始めておられます(マルコ6:34)。そして多くの病気の人たちを即座に治されました(マタイ14:14)。それだけではありません、イエスはそれらの大群衆に、五つのパンと二匹のパンを割いて配り、満ち足りまで食べさすことをされ、深い同情心を示されました(マルコ6:35~44.マタイ14:15~22)。イエスの憐れみの心は、命の糧・食事と霊的糧・み言葉の真理を与える行動になっています。
さらに、イエス・キリストは「隣人とはだれか」について質問されたとき、強盗に襲われた人に隣人として親切を示したサマリア人の例えを教えられました。親切なサマリア人は強盗に襲われた人の手当の他に、宿屋の必要な費用も世話をし、哀れみを示しました。この親切なサマリア人は「憐れみ深く行動した者」ゆえに「隣人」であることを教えられました(ルカ10:29~37)。このように、イエスが分かり易く教えられた通り「憐れみ深い人」は、その心が実際的な助けになるように行動に表れるのです。
他の人を許すことに関して、み言葉聖書は他の人を惜しみなく許す、憐れみ深い人であるように命じています(コロサイ3:13)。あなたも、聖書が教える「憐れみ深い人」であれば幸いです(マタイ5:7)。
亡き義母を 訪ね来る人 秋の午後 今日の一句
ご近所の庭の「ジニア」
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