本の感想

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京の剣客(司馬遼太郎 一夜官女 中公文庫昭和59年版所収)

2023-03-11 17:54:29 | 日記

京の剣客(司馬遼太郎 一夜官女 中公文庫昭和59年版所収) 

 司馬さんは短編の名手だと思う。長編はどうしても新聞の連載の都合上記述が細切れになって全体の構成に難ありな気がする。それに世間では二流の人物をあまりにも持ち上げすぎているとか結構一流の人材をあまりにも貶めているとかの批判も耳にする。ここの真偽はわからないが批判があることは事実である。

 さて、京の剣客は京の剣法家吉岡一門が主人公であるがもちろん宮本武蔵も出てくる。ここでは兵法家によくある「気」がテーマになっている。本当に「気」というものがあるのかどうかは小説のことだから問わないことにして、「気」をテーマにしたところが司馬さんの偉いところ賢いところではないか。「気」でもって相手を威圧したという話が至る所に出てくる。または、扇子で真剣の相手をひょいひょいとカワシたというほんとか嘘かわからない話が出てくる。

 これを暇なときに読むとあほらしい劇画を読まされた気になって読んでいる本を投げつけたくなるが、自分はもっと大きな仕事のできる人間であるのに今日もつまらない仕事をちまちまとやらされたと思っているサラリーマンが帰りの電車の中で(夜の8時とか9時台の30分ほどである)読むとどうであろう。「気」でもって敵を威圧できる凄い人間、扇子で真剣の相手をひょいひょいとカワす凄い人間に自分を重ね合わせるであろう。本当は俺は凄いという思いがここに共鳴する。そこでわずかに溜飲をさげることができるのである。これがどのくらい本人の心の安定ひいては社会の安寧に役立ったことか。

 司馬さんは、旧陸軍で少尉だったか中尉だったかをお勤めになりかつ新聞社にお勤めになった。青雲の志を持っているのにおおきな組織の中でゴマ粒の扱いをされる人間の悲哀をつぶさに経験された。それがこの短編(他の短編でもそういうのはあるけど)のテーマの選択に重大な影響を与えている。そしてそれは大成功をおさめたと思う。読者は登場人物に自分を重ね合わせ、かつ同時に作家である司馬さんにも自分を重ねわせるという複雑なことを帰りの電車の中でやるのである。それで少しだけ足取りを軽くして駅からの暗い家路につくことができたに相違ない。

 お話変わって司馬さんの小説の書き方を司馬史観というらしいが、その手法は森鴎外の歴史小説の書き方が原型であろう。人物を斜め上の高いところから描写するとか、登場人物について調べている作者そのヒトが小説の中に出てきてちょうど劇中劇と同じ効果を出すとか、終わりの言葉に詩的でヒトの心に長く印象に残る言葉を選ぶなどである。

 人物を斜め上の高いところから描写するとは、吉川英治と司馬遼太郎の宮本武蔵を読み比べればわかるが司馬さんの方は心境を表現する言葉が乾いたよそよそしいもので登場人物の誰をも味方しないものになっているの意味で、突き放したよそよそしい人間関係の中にある現代人(といっても昭和末期のころ)にぴったりくる。作者が作中に登場するのは一方は渋江抽斎、もう一方は空海の風景によく現れている。また終わりの言葉は例えば高瀬舟は「沈黙の人二人を載せた高瀬舟は、暗い水の面をすべっていった。」であり京の剣客は「武蔵が・・・・で余生を送っていたころの話である。」とある。

 同じ作風なのに森鴎外の作品は、読者として(いつも等身大の自分の像が何であるわからないままの)サラリーマンを措定していないのでマスとしての読者を獲得できなかった。当時サラリーマンはほぼいなかったから当然である。だから純文学としてしか生きられなかったと言うことではないかと思う。司馬さんは常に自分と同じような悩みを持つ読者を頭に置いて書いておられる。

 ここで司馬さんとお商売をつなげるのは失礼な話だが、相手の気持ちが分かることがお商売の基本であるとはあちこちのヒトが言ってることである。

 

 

 


小説 古本

2023-03-03 18:21:38 | 日記

小説 古本

 昭和が平成になろうかというある残暑厳しい昼下がりである。安井祥太郎は東京出張の仕事が思ったより早く済んだので、帰りの新幹線の時間待ちのため神田の古本街にやってきた。安井は常日頃もう仕事が嫌で嫌で仕方なかった。自分のことばっかり考えている上司や同僚、他人の迷惑を顧みない顧客は思い出すだけでも命が縮まる。一日でも早く退職して自宅を改装して小さな古書店を開くのを夢見ていた。お客はなるたけ来ないほうがいい、自分はその分レジの前で商品である本を静かに読むことができる。しかし安井は自分の両親や妻子さらには妻の両親の顔を思い浮かべるとそれはとてもかなわぬことであると自分に言い聞かせていた。

 ある古本屋の前にワゴンがおかれ少し斜めになった夏日にさらされている。これはいくら何でも本が日に焼けるではないか商品管理がよくないと手に取ってみると司馬遼太郎の全集であった。全巻揃いではないが10冊以上はあるであろう。各巻の最終ページには鉛筆で100と書き込まれている。司馬の作品は大阪を舞台にしたものが多いし、大阪弁で書かれたものも多いので東京では人気が無く気の毒にワゴンに積まれることになっているようである。まだ紙も新しいし箱入りで傷みも少ないから大阪では一冊500円にはなるはずである。安井は司馬の全集は古本屋で全巻揃えたのでもう持っている。しかしそれでも安井は大あわてでそれを全部レジに持ち込んだ。

 店の主人は無口でごく穏やかな感じのヒトで安井の理想とする人間のタイプであることも気に入った。全部で1200円であるという。紙袋を要求するとそばにあった段ボール箱を顎でしゃくって10円だという。さらに宅送もできると言ったがそれでは利益が出ないかもしれないのでお断りをした。

 安井は東西の物価の差を利用して担ぎ屋をやろうとしたのである。当時大阪の船場には、韓国や中国の広州から担ぎ屋のおばさんがワンピースやブラウスを持ち込んでいた。おばさんは日本語のできない人が多かったので船場の店員は夜になると、韓国語や広東語を習いに行く。そういう塾が船場には一杯あったころの話である。商品は古本である。安井は、新幹線の足元に置いた段ボールを見ながら、次の出張は大きなリュックをもっていこうと考えていた。そしてこう暗算した。これを懇意の丸石書店に持ち込めば売値500円として悪くても250円で買ってくれるだろうから全部で1800円の利益になる、おいしいランチが2回分タダになるようなものである。安井はシルクロードを行くキャラバンの隊長になったような気分であった。これから自分の才能だけで、あの鬱陶しい上司同僚顧客の顔を見ることなく1800円儲けるのである。

 司馬遷の史記に「お金儲けのコツは安いときに買って高い時に売ることである。」と書いてあることを思い出した。どこで安いのか高いのかの具体例が書いていなかったので役に立たん本だなと思っていた。しかし意外に簡単じゃないかひょっとして俺は司馬遷並みに賢い人間かもしれんと新幹線の中では得意な気分になって久しぶりに嬉しかった。

 次の土曜日の朝、安井は丁寧に各巻の最終ページにある鉛筆書きの100の字を消して丸石書店に持ち込んだ。同じことをしていると似てくるのであろう、丸石の主人も神田の書店の主人と似た感じのヒトである。丸石の主人は書き込みがないか全巻調べた挙句大きな電卓に数字を打ち込んで安井の方に向けた。そこには1200と打ち込まれていた。安井はうなずくより他なかった。この間すべて無言である。重い箱を持って歩き、10冊消しゴムで消してなお10円の持ち出しであった。安井はこの丸石屋の主人みたいになることが長い間夢であったが、この時この夢が急速にしぼみ始めた。

 

 その後安井が自宅を改造して古本屋を出したという話は聞かない。もちろん自宅以外に古本屋を出したという話も聞かない。


映画ベネデッタを見る。④ 魔女裁判で論理が磨かれた。

2023-03-01 15:03:57 | 日記

映画ベネデッタを見る。④ 魔女裁判で論理が磨かれた。 

 この映画の一番の眼目は中世の魔女裁判を写し取ることにあるだろう。(もちろん私はそれにあまり興味を覚えないし、日本の観客はほとんどがそうであろう。しかし映画館はかなりの客入りである。)裁判では論証がすべてになっている。神様は存在するという前提は揺るがない真実とされている。そのうえで奇跡がおこることが真実かどうかが論理によって修道院長と裁判官役であろう教皇大使との間で争われる。(ここの論争は両者なかなか格好がいい)東洋人が見ると先に神さんが本当に居るかどうかが論争されるべきじゃないかと思うが、だれもそんな失礼なことは発言しない。この論争はさすが頭のいい人が良く勉強したという応酬が続く。(教皇大使のような頭のいい人がこんなあほらしい論争しているのは才能の浪費であるとその秀麗な顔を見ながら感じた。)

 やっとわかった、西洋の論争術はこのような魔女裁判で磨かれた。日本人が西洋人と論争してまず勝てないのは、肉を食うせいだとばかり思っていたが違うようだ。彼らは何百年もこの能力をこうやって磨き続けてきた。

 さらにこの根性悪の底意地の悪そうな暗い表情の修道院長(今でも学校の校長には結構な数居てそうである。)の顔を見ながら突然思い出した。中学校で習ったユークリッドの平面幾何では、5つの公理は証明なしに認めましょうになっている。(当時はいろいろ忙しかったこともあって疑問を挟まなかったが、公理成り立たなければあの頃に解いた問題皆片っ端から嘘と言うことになるんじゃないか。)どうやら西洋では、神の存在がこの5公理の扱いになっているようである。神の存在は証明不要であるとされているようだ。この機微がこの映画でわかったことは大きい収穫だった。

 ところで、我が日本では自分が属している集団に殉ずる気分がいまだに強い。これが西洋のヒトには理解できないサービス残業とか過労死までをひきおこしている。これは我々が「世間様」という神さんを証明なしで存在しているという前提を持っているからである。我々は神への奉仕とかましてや殉教は理解しがたいが、サービス残業とか過労死はなんとなく理解してしまうのである。この映画では「第二のルネッサンス」の到来を予言するかのようである。ならば我々の方も負けずに同じように「世間様」への信仰に関して「ルネッサンス」を準備してはどうかと思う。