東日本のヒトのための奈良市観光案内㉑ 郡山城
ここまで観光においでになることはないと思うし、京都の二条城のように襖絵があるわけでもないし姫路城のように城が特に美しくできているわけでもない。しかし折角だからお話として知っておいていただきたい。異なる市だからひどく遠いように思うかもしれないが、お城から興福寺の五重塔は見える。
秀吉の弟秀長がここの城主であったのは、奈良の寺社勢力を抑えるためであったとされている。僧兵を抱えていて何かあると神罰仏罰が下るぞと神輿を担ぐ勢力ではあるが、秀吉さんくらいの軍事力があれば、一気に攻め滅ぼせばいいのにとおもうがそうもいかなかったのだろう。多分秀長さんは、南都の仏教勢力の間を巧みにお互いに喧嘩するようにしむける作戦をとったと考えられる。ちょうど少し前のイギリスが上手く立ち回って大陸国家がお互いに喧嘩するようにしむけたと同じようにである。
ために秀長さんは、仏教勢力に毒殺されたとのうわさが残っている。イタリアの田舎の城を見に行ってここで何某が何某によって暗殺されましたとの説明を受けるよりも、もっとリアリティを感じる。何度も肖像画を見たことのある人物の弟さんである、しかもずいぶん実務のできる人物とのお話も残っているから親近感が湧く。
十八世紀中ごろには、柳沢吉保の藩の家老の子柳沢き園(きは、サンズイに其)が甲府から移ってきた。この人は絵画その他に巧みだっただけではない。郡山に金魚養殖の産業をひらいた。どの藩でも米以外の特産品を作るのに必死だった時代に、木綿とかロウソクではなく金魚とは風流である。しかし水と一緒に売り歩かねばならないからどうやって運んだんだろう。産業としてなり立ったのかがやや疑問である。大阪堺まで大和川の川船で運んだんだろうか。大坂の淀屋さんが、金魚を飼っていたというから運ぶことは運んだと思う。淀屋さんは金魚を飼っているのが贅沢だとして闕所になったという話である。言いがかりのネタにされるほど贅沢なものであった。
柳沢き園さんは郡山に遊郭がないのはいかんとして、大きなのを拵えたらしい。いかに江戸時代がさばけた時代であったとしてもこういう施設は、幕府や藩が目こぼししてやっと成り立つものではないのか。それを家老自らが率先して作ったという。しかもどういうところかを「ひとりね」という随筆にぬけぬけと書いている。き園さんの絵画は、奈良学園前にある大和文華館に時々展示されるから興味があればどうぞ。
この人官僚としても大出世したひとだからすごい人だと思う。何かというと新井白石みたいに努力して出世した人ばかり取り上げるのはどうもいけない。歴史教科書にき園さんも載せるべきだと思う。どうもガッコウのセンセイは、努力のヒトを好んでスイスイとやるヒトを好まない傾向がある。苦労はできればしないほうがよいと教えないといけない。
白石の拵えた正徳小判はデフレを起こしてはなはだ迷惑なものであったが、き園の拵えた金魚は今も栄えている。
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