小説 古本
昭和が平成になろうかというある残暑厳しい昼下がりである。安井祥太郎は東京出張の仕事が思ったより早く済んだので、帰りの新幹線の時間待ちのため神田の古本街にやってきた。安井は常日頃もう仕事が嫌で嫌で仕方なかった。自分のことばっかり考えている上司や同僚、他人の迷惑を顧みない顧客は思い出すだけでも命が縮まる。一日でも早く退職して自宅を改装して小さな古書店を開くのを夢見ていた。お客はなるたけ来ないほうがいい、自分はその分レジの前で商品である本を静かに読むことができる。しかし安井は自分の両親や妻子さらには妻の両親の顔を思い浮かべるとそれはとてもかなわぬことであると自分に言い聞かせていた。
ある古本屋の前にワゴンがおかれ少し斜めになった夏日にさらされている。これはいくら何でも本が日に焼けるではないか商品管理がよくないと手に取ってみると司馬遼太郎の全集であった。全巻揃いではないが10冊以上はあるであろう。各巻の最終ページには鉛筆で100と書き込まれている。司馬の作品は大阪を舞台にしたものが多いし、大阪弁で書かれたものも多いので東京では人気が無く気の毒にワゴンに積まれることになっているようである。まだ紙も新しいし箱入りで傷みも少ないから大阪では一冊500円にはなるはずである。安井は司馬の全集は古本屋で全巻揃えたのでもう持っている。しかしそれでも安井は大あわてでそれを全部レジに持ち込んだ。
店の主人は無口でごく穏やかな感じのヒトで安井の理想とする人間のタイプであることも気に入った。全部で1200円であるという。紙袋を要求するとそばにあった段ボール箱を顎でしゃくって10円だという。さらに宅送もできると言ったがそれでは利益が出ないかもしれないのでお断りをした。
安井は東西の物価の差を利用して担ぎ屋をやろうとしたのである。当時大阪の船場には、韓国や中国の広州から担ぎ屋のおばさんがワンピースやブラウスを持ち込んでいた。おばさんは日本語のできない人が多かったので船場の店員は夜になると、韓国語や広東語を習いに行く。そういう塾が船場には一杯あったころの話である。商品は古本である。安井は、新幹線の足元に置いた段ボールを見ながら、次の出張は大きなリュックをもっていこうと考えていた。そしてこう暗算した。これを懇意の丸石書店に持ち込めば売値500円として悪くても250円で買ってくれるだろうから全部で1800円の利益になる、おいしいランチが2回分タダになるようなものである。安井はシルクロードを行くキャラバンの隊長になったような気分であった。これから自分の才能だけで、あの鬱陶しい上司同僚顧客の顔を見ることなく1800円儲けるのである。
司馬遷の史記に「お金儲けのコツは安いときに買って高い時に売ることである。」と書いてあることを思い出した。どこで安いのか高いのかの具体例が書いていなかったので役に立たん本だなと思っていた。しかし意外に簡単じゃないかひょっとして俺は司馬遷並みに賢い人間かもしれんと新幹線の中では得意な気分になって久しぶりに嬉しかった。
次の土曜日の朝、安井は丁寧に各巻の最終ページにある鉛筆書きの100の字を消して丸石書店に持ち込んだ。同じことをしていると似てくるのであろう、丸石の主人も神田の書店の主人と似た感じのヒトである。丸石の主人は書き込みがないか全巻調べた挙句大きな電卓に数字を打ち込んで安井の方に向けた。そこには1200と打ち込まれていた。安井はうなずくより他なかった。この間すべて無言である。重い箱を持って歩き、10冊消しゴムで消してなお10円の持ち出しであった。安井はこの丸石屋の主人みたいになることが長い間夢であったが、この時この夢が急速にしぼみ始めた。
その後安井が自宅を改造して古本屋を出したという話は聞かない。もちろん自宅以外に古本屋を出したという話も聞かない。