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東日本のヒトのための奈良市観光案内㉓ 飛火野

2024-09-13 17:37:58 | 日記

東日本のヒトのための奈良市観光案内㉓ 飛火野

 春日大社の参道の入り口には池がある。その池のさらに南側には広い芝生の公園があって、植木が少ないので見通しが良いが夏暑く冬寒いからシカさえも数少ない。このあたり一帯を飛火野という。昔、若草山の山焼きの火が飛び移ってこのあたりを焼き払ってしまったという。

 わたしはこの説明を強く疑っている。山焼きの場所はこの場所からかなり遠い。もし燃え移るならその前に春日大社も東大寺も南大門も燃えているはずなのに燃えていない。わたしは、興福寺廃仏毀釈の際に焼き討ちにあったのではないかと疑っている。

 昔の神社仏閣は、お賽銭その他で日銭が入るのにお堂の修理は何十年に一回である。その間現金を寝かすことになる。たんに寝かすだけでは芸がない、少しでも利息を取らねばと思うのはお坊さんも俗人も同じことで、お寺は金貸し業を裏稼業として始めた。その取り立てが厳しかったので恨みを買っていたのではないかと想像する。なにもなければ、いかに新政府が廃仏毀釈の号令を発しても庶民が寺を焼き討ちするとは考えられない、あそこに俺の借金の証文がある焼いてしまえというエネルギーがあることで起こることだと考えられる。

 本堂の方が狙われなかったのは、この飛火野にあった建物(多分何とか院というような名前がついていたと思われるが)に証文があったためではないのか。なぜ新政府に出仕していた藤原の子孫はその事態を防がなかったのか不思議である。近衛文麿のおじいさんか曽おじいさんくらいのヒトがぼんやりしていたのだろうか。

 不思議に思うのは、京江戸ならいくらもあっただろうが当時の奈良にはそのくらい大きな資本を必要とする産業がなかったはずなのに金貸しが成り立ったことである。奈良には南都七大寺、七つの大きな寺がある。それがみな金貸ししたら、銀行ばっかりが乱立して工場もお店もないようなものだから供給ばっかりで需要がないことになってしまう。ここが不思議なところである。

 この焼き討ち事件のあと、興福寺は蔵をひらいて創立者の娘(光明皇后)の遺してくれた美術品を展示することでやって行こうとなったようで、業種転換してまだ日が浅い。私の記憶する今から五十年前の頃まだ観光客も少なかったから寺の経営は苦しかったはずである。

 



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