戯曲 老子夫人③ 新発見
自分が何を考えているかを誰かに解説してもらうというのは変な話だがその必要を順平は強く感じていた。解説はずいぶん偉い人でないとできないだろう。となるとおシャカさんになるがどうも悟りを開いたあとには夫人をめとらなかったようなので、やむを得ないここは孔孟老荘にお願いするより他ないだろう。しかし孔孟は先ほどの三井高利の奥さんみたいなのに出てこられて高飛車の説教されてこちらがさらにへこんでしまうことになりかねない。老荘の方は何しろ無為を唱えるほうだから夫人は居ないだろう。
いったんもう何もかもあきらめようとしたが、老荘より下の世代の偉い人を知らなかった。そこで、多分出てこないだろうと思いつつ、老子夫人にお願いしてみようと考えた。少なくとも説教はされないであろう。もっともいない可能性の方が高いけどである。
順平:(印を結んで呪文を唱える)
夫人:(中年のキビキビ働きそうな小柄な女性である)誰です。
順平:えっ、老子さんに夫人が居られたんですか。
夫人:当たり前です。現に私ども夫婦の数代あとの子孫に高名な将軍が生まれています。それより何の用です。
順平:(自信なさげにもじもじしながら)私、仕事する気が一切しないのです。なぜする気が起きないかを旦那さんに説明してもらいたくて。説明してもらえれば少しは気分が晴れるかと思いまして。
夫人:(大笑いして)そう言えばあの旦那も仕事する気のない男だったわね。もともとは軍隊の進退の作戦を司る大事な仕事をする家の子供よ。それが仕事する気がなくなって、何もしないのが良いことであるという理屈を吹いて回るようになったのよ。これに賛同する人がかなり多かった。それで、私が国王に言いつけてやった。こんなことでは国が滅びますよって。
順平:じゃあ私も言いつけられるということか。何もする気がないことはいけないことなのか。
夫人:もちろんよ。旦那は、国王によって西方の国へ左遷されたわ。もちろん帰ってこなかった。オオカミに食われちゃったといううわさよ。その赴任の途中に書いたのが老子道徳教というあれね。
順平:えっ 立派な人だと思っていたんだが。
夫人:何言ってんのよ。思想家が立派な人であるはずがない。立派な振りをして誰かに思想を売り込んでそれで一生安楽に暮らしていきたいと考えている怠け者よ。
順平:怠け者の私の上前を刎ねようというさらなる怠け者が居るのか。世の中は凄い構造だな。
夫人:いやあれは売り込みに手間がかかるからうちの旦那は怠け者とは言えないかも。あんたは真正の怠け者だけどね。自分が何考えているかさえヒトに尋ねるとは相当の怠け者よ。
順平:確かに。しかしそれではますます頭の中が混乱してしまう。何とかして下さいよ。
夫人:あんたみたいな人がうちの旦那のいいカモにされるってことね。ああだんだんわかってきた。あんたみたいな人がいるから、「思想家」という商売が成り立つのかもね。あれは需要と供給の関係にあるのよ。お茶づけや餃子のようにその場その場でお金を出して売り買いしないからわかりづらいけど、あんたが需要者うちの旦那が供給者ってことね。旦那は「無為の思想」というのを売って、対価としておカネではなく売れたという自分の心の満足を得るということね。思想の内容と行為とが一致してないと思うけど。
順平:なるほど、「思想」というのは仕入れの代金があるわけではないから対価にお金をもらわなくてもいいわけだ。これは不思議な商品だな。しかし、私はどうしても自分を説明する理屈が欲しいんだが。
夫人:まあそれは、ご自分で何とかして頂戴。それよりも早く帰ってあのソクラテス夫人のクサンチッペさんとお茶でも飲みながらこの新発見を語り合わないといけない。私たち二人はなんで旦那があんなしょうむないことに時間を費やして日々の仕事をしないのか不思議で仕方なかったが、今日不思議が解けた。あれは他人に説得するときの喜びがあったためだ。または他人を支配する喜びがあったためだ。おカネが介在しないから見落としていたけど巨大なマーケットがここにあったんだ。これはマルクスやケインズの奥さんにも教えてやらないといけないな。ああ今日は呼んでくれて本当にありがとう。帰りますからね。
そのあと静かになった部屋で、雨漏りの天井染みを見ながら順平の気分はかなりよくなった。しかし残念ながら仕事をする気は起きなかった。
その後、順平が印を結び呪文を唱えることはなかったということである。