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映画ベネデッタを見る。④ 魔女裁判で論理が磨かれた。

2023-03-01 15:03:57 | 日記

映画ベネデッタを見る。④ 魔女裁判で論理が磨かれた。 

 この映画の一番の眼目は中世の魔女裁判を写し取ることにあるだろう。(もちろん私はそれにあまり興味を覚えないし、日本の観客はほとんどがそうであろう。しかし映画館はかなりの客入りである。)裁判では論証がすべてになっている。神様は存在するという前提は揺るがない真実とされている。そのうえで奇跡がおこることが真実かどうかが論理によって修道院長と裁判官役であろう教皇大使との間で争われる。(ここの論争は両者なかなか格好がいい)東洋人が見ると先に神さんが本当に居るかどうかが論争されるべきじゃないかと思うが、だれもそんな失礼なことは発言しない。この論争はさすが頭のいい人が良く勉強したという応酬が続く。(教皇大使のような頭のいい人がこんなあほらしい論争しているのは才能の浪費であるとその秀麗な顔を見ながら感じた。)

 やっとわかった、西洋の論争術はこのような魔女裁判で磨かれた。日本人が西洋人と論争してまず勝てないのは、肉を食うせいだとばかり思っていたが違うようだ。彼らは何百年もこの能力をこうやって磨き続けてきた。

 さらにこの根性悪の底意地の悪そうな暗い表情の修道院長(今でも学校の校長には結構な数居てそうである。)の顔を見ながら突然思い出した。中学校で習ったユークリッドの平面幾何では、5つの公理は証明なしに認めましょうになっている。(当時はいろいろ忙しかったこともあって疑問を挟まなかったが、公理成り立たなければあの頃に解いた問題皆片っ端から嘘と言うことになるんじゃないか。)どうやら西洋では、神の存在がこの5公理の扱いになっているようである。神の存在は証明不要であるとされているようだ。この機微がこの映画でわかったことは大きい収穫だった。

 ところで、我が日本では自分が属している集団に殉ずる気分がいまだに強い。これが西洋のヒトには理解できないサービス残業とか過労死までをひきおこしている。これは我々が「世間様」という神さんを証明なしで存在しているという前提を持っているからである。我々は神への奉仕とかましてや殉教は理解しがたいが、サービス残業とか過労死はなんとなく理解してしまうのである。この映画では「第二のルネッサンス」の到来を予言するかのようである。ならば我々の方も負けずに同じように「世間様」への信仰に関して「ルネッサンス」を準備してはどうかと思う。


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