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シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

改革派と守旧派の争いはどの時代にも

2010年11月17日 | アート/書籍/食事
写真は映画『加賀騒動』、フルシチョフなど。
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加賀騒動を題材にしたこの映画は見ておりませんが、この中心人物の名は時々聞きますね。 海音寺 潮五郎の本「悪人列伝 四」(文春文庫 280ページ) 冒頭に、"大槻 伝蔵" (おおつきでんぞう 40ページ) が載っています。

悪人説を引用後、でっち上げだとして擁護説を取り上げているのですが、どちらの話の分量が多いかというと、圧倒的に悪人説 (30ページ) なのです。 これは、一般に流布しているのが悪人説の講談なのと、擁護する逸話が徹底的に消されているからなのだそうです。 残り 10ページほどで三田村 鳶魚 (えんぎょ) が調べた大槻援護説を紹介しています。
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ウィキペディアから__ 大槻 伝蔵 (1703~48) は、加賀藩第6代藩主・前田吉徳 (よしのり) に仕えた重臣。 通称は、内蔵允 (くらのじょう) とも。_ ※追加1へ

加賀騒動は、江戸時代に加賀藩を舞台に起こったお家騒動で、伊達騒動 黒田騒動とともに "三大お家騒動" と呼ばれる (※追加2へ)。

映画『加賀騒動』(1953年 東映) 監督:佐伯清 主演:大友柳太朗__村上元三原作 橋本忍脚本のこの作品では、流布している講談とは異なり 大槻伝蔵は藩政改革に命を捧げたストイックなヒーローということになっている。 真如院との仲も極めてプラトニックに描かれている。

チャンバラワールドから__『加賀騒動』(1953年 東映) _ ※追加3へ

ウィキペディアから__ ニキータ・フルシチョフ (1894~1971) は、ソビエト連邦の政治家、同国の第4代最高指導者 (※追加4へ)。

守旧派 (Old Guard) とは、何らかの改革・革新 (Reform) の動きに対して、現状維持を望む勢力およびの従来の考えの側の勢力のことをさす (※追加5へ)。
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そういえば、旧ソ連時代に スターリン後に政権を握り華々しく西側にデビューしたフルシチョフが失脚した記憶も重なってきます。 スターリンは1922~53年の間 30年以上も政権を握っていたのですから、その間にスターリン派が多数形成されたのは間違いなく、それを一気に突き崩そうとした最高権力者のフルシチョフでも多くのスターリン派の抵抗には勝てなかったのでしょう。

長い政権は利権を生み、そこにぶら下がるというか 甘い汁を吸う人達が多数派を占めるのは、ある意味 各国共通の自然な現象だと思います。 何やら 現代の日本の官僚と仕分け人政治家とのせめぎ合いを見る思いがしますね。

戦後の日本は、半世紀以上も自民党と官僚が支配していたといってもいい過ぎではないでしょう。 その間に、官僚は予算を確保し、予算を年度内に使い切り、更に翌年は前年以上の予算を要求する、そんな体制ががっちりと半世紀以上もかけて形成されてきましたから、城郭の石にこびり付いた "コケというか染み" のように出来上がっていて、生半可なことではなかなか落ちません (映画ポスターの石には緑のコケがびっしりと張り付いているようにも見えますが … 着色ポスターかな?)。

昨年 ポッと出来た民主党政権の仕分け人が、威勢良く削ぎ落とそうとしても、表面が削れても内部まではとてもとても落ちません。

石川県 (加賀) の人は 100万石 の大藩というのが自慢らしく、学生時代 ある教授が「生まれは加賀 100万石 だぁ」といっていたのが記憶に残っています。 生まれの地と本人は本来 無関係なんですが、"忠臣" 前田直躬 (なおみ) の気分だったのでしょうか?

以上


※追加1_ 1723年 前田綱紀 (つなのり) が隠居してその子・吉徳が藩主となった。 この頃、加賀藩は綱紀の藩政改革で藩政が安定し、前田氏の家格も上昇したが、100万石 の大藩となると何事も出費が著しく、そのために財政は悪化していた。 吉徳は財政を再建するため、譜代の門閥層などを全て排除して茶坊主上がりで男色相手の大槻伝蔵を重用し、財政改革を行なうようになる。

伝蔵は財政改革のため、倹約令と新税の制定、米相場投機の改革などに尽力した。 確かにこれにより、加賀藩の財政は完全とまではいかないが ある程度は持ち直した。 しかし、この功績によって伝蔵はいよいよ吉徳の寵愛を受けるようになり、ほぼ毎年にわたって吉徳から加増を受けるようになる。

しかし、それも1745年 吉徳が病死するまでであった。 伝蔵はいわゆる成り上がり者であったため、藩内の保守派や門閥層が伝蔵の出世に嫉妬。 さらには厳しい倹約令によって それまであった既得権を奪われるなど、保守派に伝蔵は彼らに憎まれていた。 そして、1746年 保守派の讒訴によって越中国の五箇山に配流となる。

ところが、1748年 突如としてある風聞が加賀藩に流れ出す。 吉徳には愛妾・真如院との間に前田利和 (としかず) という息子がいたが、真如院が伝蔵と不義密通して産んだ子で、実は吉徳の子ではない。 そして、伝蔵と真如院が利和を密かに藩主に擁立しようとしている、というものである。 このため、伝蔵は自殺して果て、真如院らも厳しい処罰を受けることとなったのである。

しかし、伝蔵は吉徳が病に倒れたとき、寝食を忘れて吉徳の看病に当たっていたため、これには疑わしいところがある。 恐らくは、保守派の陰謀だったのであろう。 この一連の騒動は、加賀騒動と呼ばれ 1754年まで続くこととなった。
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※追加2_ ● 背景 ●
加賀藩 (前田氏) は 百万石 以上の外様の大大名であり、そのため江戸幕府はその力を削ぐことに力を注いできた。 その一つが目付役としての本多家の存在であった。 藩主は背後に幕府の威光を背負った本多家の意向を尊重せざるを得ず、藩の運営は本多家をはじめとする年寄衆を含む重臣会議で決定されることになっていた。 第5代藩主となった前田綱紀は藩主独裁体制をめざし、藩政改革を進めた。

一方、加賀藩の財政は元禄期以降、百万石の家格を維持するための出費の増大、領内の金銀山の不振により悪化する一方であった。

● 藩政改革 ●
1723年 藩主綱紀が隠居し、その子の吉徳が藩主の座に着く。 吉徳はより強固な藩主独裁をめざし、側近として足軽の三男で御居間坊主にすぎなかった大槻伝蔵を抜擢する。 

吉徳・大槻コンビは、藩主独裁体制を目指す一方で藩の財政改革にも着手する。 大槻は、米相場を用いた投機/新税の設置/公費削減/倹約奨励を行った。 また倹約を徹底させるためにスパイを使ったともいわれる。 これらにより財政の悪化は止まったものの、回復には至らなかった。

悪化を食い止めたことをよしとした吉徳が大槻を厚遇したのに対し、身分制度を破壊し既得権を奪われた門閥派の重臣や倹約奨励により様々な制限を課された保守的な家臣たちの不満はますます募っていた。

● 挫折 ●
1745年 大槻を支え続けた藩主吉徳が亡くなる。 翌年、吉徳の一周忌を待って大槻は閉門蟄居を命ぜられ、さらにその翌年 (1747年) 禄を没収され 五箇山に配流となる。

● 醜聞 ●
吉徳逝去の後、子の前田宗辰 (むねとき) が第7代藩主となるが、わずか1年半で宗辰も亡くなり、異母弟の前田重煕 (しげひろ) が藩主の座を継ぐ。

1748年 藩主重熙と前の藩主宗辰の生母で現藩主重熙の養育も務める浄珠院の毒殺未遂事件が発覚する。 捜査の結果、吉徳の娘 楊姫付きの女中であった中臈浅尾の犯行と判明。  さらに取り調べの結果、主犯は吉徳の側室 真如院 (お貞の方) であることが判明した。  実子 前田利和 (としかず) を藩主につけることを狙った暗殺未遂であった。

これを承けて真如院の居室を捜索したところ大槻からの手紙が見つかり、不義密通の証拠として取り上げられるにいたり一大スキャンダルとなる。 こうした詮議が進む中、1748年 大槻は五箇山の配所で自害した。 浅尾は死罪、真如院と利和は閉門となった。 大槻一派に対する粛正は1754年まで続いた。

● 講談「加賀騒動」●
加賀騒動の顛末は、幕府の介入がなく守旧派が勝利したため客観的事実を示す証拠が乏しい。 真相は闇のまま、そのスキャンダラスな表層が強調されて、事件は講談に仕立てられ流布してゆく。

講談によれば、利和は大槻伝蔵と真如院との密通により生まれた子であり、伝蔵は主家簒奪を企図して吉徳、宗辰と藩主を二代にわたって殺害した後 さらに重熙と浄珠院をも殺害しようとしたところで事件が発覚したもので、これを阻止して 百万石 を救った忠臣として前田直躬 (なおみ) を描いている。

また浅尾に対する刑の執行は、数百匹 の毒蛇を入れた穴蔵に裸にして押し込めたとされ、ショッキングでグロテスクな内容の物語となっている。

しかし事実は、真如院が主犯であったことを裏付ける証拠もなければ、真如院の居室で見つかったとされる大槻の手紙の内容もわかっていない。

毒殺未遂事件当時、大槻は既に五箇山に流されて厳しい監視下にあって毒殺の指示は不可能である。 吉徳殺害に至っては、最大の庇護者を失った後のシナリオが大槻に読めないはずはなく、あり得ない話である。 現在では、吉徳と宗辰の死に事件性はなく、重熙・浄珠院毒殺未遂事件は守旧派の中心人物であった前田直躬による 大槻派一掃のための狂言犯罪であったと考えられている。

なお、旧石川県庁前に大槻の屋敷から移植したといわれるシイの巨木があり「堂形のシイ」と呼ばれているが、この木を伐ろうとすると祟りがあるといい習わされている。
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※追加3_ (物 語) 加賀藩の大槻伝蔵は、小禄であったが 火事場での藩お抱えの加賀鳶と旗本火消との衝突を見事に捌き、藩主・吉徳の面目をほどこす。

吉徳は伝蔵を重用し、伝蔵もその期待に応えたため、江戸屋敷での彼の地位は急激にあがる。 伝蔵は火事場で知合ったお貞と所帯を持つつもりだったが、藩主の名代として国許へ赴くことになる。 お貞は伝蔵に会いたい思いで、かつての友だちで今は吉徳の側室となっているお民の方の腰元になる。

国許では軽輩伝蔵の名代を怒った国家老の前田土佐 (直躬) の命で、伝蔵は謹慎処分となる。 伝蔵は、吉徳直々の手で罪は解かれ加増もあったが、武家社会に懐疑を抱く。 この懐疑は、お貞が吉徳の目にとまって側室になったことから一転し、伝蔵を栄達のためなら すべてを犠牲にして顧みぬエゴイストにした。

伝蔵は、吉徳の相談役として家老職にまで昇るが 吉徳が病に倒れる。 嫡男・宗辰の相続が決まり、大奥でのお貞の身を案じた伝蔵は、お浅に大奥の局になってくれるように頼む。 伝蔵が軽輩だった頃、お浅と伝蔵は隣同士で、その時からずっと伝蔵を想い続けていたお浅は承諾する。

やがて、吉徳が死に 情勢が一変する。 新藩主・宗辰により、伝蔵はお貞の子である庶嗣・勢之佐の襲跡を企てる御家乗っ取り犯として切腹を命じられるが、逆臣の名を拒んで斬り死にする。
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※追加4_ ヨシフ・スターリンの死後、スターリン批判によってその独裁と恐怖政治を世界に暴露し、非スターリン化に基づく、自由化の諸潮流をもたらした。 対外的には、アメリカ合衆国を中心とする西側陣営と平和共存を図り、核実験を抑制しようとした。 一方、キューバ危機においては戦争勃発寸前に至るほどにアメリカと対立した。

■ 失脚 ■
フルシチョフによる集団指導体制を無視した自らへの権力の集中 (第一書記と首相の兼任)、さらには前述のように同志に対する叱責や暴言や外国での粗野な振る舞いを繰り返したため、ひそかにニコライ・イグナトフ/アレクサンドル・シェレーピン/ウラジーミル・セミチャストヌイ/レオニード・ブレジネフらが中心となった反フルシチョフ・グループがフルシチョフの追い落としを着実に準備していった。 ブレジネフはフルシチョフの毒殺や専用機の爆破をもたくらんだともいわれている。

宮廷クーデターの噂はひそかに広がっていて、一部のフルシチョフ信奉者はその情報をフルシチョフ本人に届けようとして、息子セルゲイや娘ラーダに接触した。 セルゲイは父と相談するものの、フルシチョフ本人は馬鹿げた話だとして取り合わなかった。

1964年10月 黒海沿岸のピツンダで休暇中のフルシチョフとアナスタス・ミコヤンは、ミハイル・スースロフ (一説ではブレジネフ) からの突然の電話で「火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会」のためにモスクワに呼び戻された。 10月13日および14日に開かれた臨時の中央委員会総会で、ミコヤンを除く幹部会員全員がフルシチョフの更迭を要求した。 ミコヤンはフルシチョフの第一書記からの解任と閣僚会議議長への留任を提案したが、この提案は否決された上、ミコヤンは多くの中央委員から強い非難を受けた。

孤立無援となったフルシチョフは、年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長の両方を辞任することに同意した。 後任にはブレジネフとアレクセイ・コスイギンがそれぞれ選ばれたが、これは、第二書記であったブレジネフと閣僚会議

第一副議長であったコスイギンがそれぞれ昇格した暫定的な意味合いの濃い人事であった。

フルシチョフ追放の黒幕であったシェレーピンとセミチャストヌイは、権力に対する野心があまりに露骨であったために疎まれ、党指導部から外された。 イグナトフは小者だったので無視された。 フルシチョフと親しかったミコヤンも指導部から排除された。 その結果、ブレジネフ/コスイギン/ニコライ・ポドゴルヌイのトロイカ体制による長い停滞の時代が始まることになる。

フルシチョフが用いた「第一書記」という肩書きはブレジネフの時代でも継続して用いられたが、呼び名に対する党幹部による不満が表出した。 1966年の第23回党大会にて、初期の用語である「第一書記」から「書記長」に復帰した。
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※追加5_ 特に、改革派が反対勢力に対して、「既得権益を有し保身を行なうもの」という偏見をもって言うことが多い。このことから、「保守派」と異なって「守旧派」が自称されることはまずない。

● 最近の政治における守旧派 ●
主に、政治や歴史で使われることが多いが、最近では特にこの事例で「守旧派」が使われた。

・ 宮沢喜一改造内閣の際に不遇となった「羽田派」の一人 小沢一郎が、当時の主流派「小渕派」や政治改革に反対し中選挙区制維持を訴えていた派閥に対して使った。

また、解散後の総選挙時にも小沢自身が自民党を離党して結成した新生党を「改革派」と称し、それに対する自民党を指す言葉として用いた。 もっとも、小沢自身も自ら批判する「古い自民党」の象徴的人物である金丸信の側近であった。

・ また、2000年10月の長野県知事選挙やそれ以降の田中康夫 (当選後は長野県知事) とは対極に位置する県議会や役人を示す言葉としても使われていた。

以上

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