goo blog サービス終了のお知らせ 

シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

"独断と偏見" で世相・経済からコミックまで 読んで楽しい 面白い内容を目指します。 

クレンペラーを見直した

2013年07月07日 | 楽聖様は偉大です
ジャケットは一連のベートーヴェン交響曲のもの。 右はスイトナーの9番。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
実家にあったクレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団とのベートーヴェン交響曲全集 CD (6枚セット) を持ち帰って聴いてみました。 保有していた父が亡くなった後は、誰も聴かずに ほっておかれたのです。

期待していませんでしたが、意外と聴ける演奏・録音でした。 残された彼の無骨な写真から想像すると、面白みのない演奏じゃないかと思っていましたが、意外や意外 案外にいい演奏でした。

ただし 緊迫感が持続しない演奏で、時々 緊張が緩む感じもしましたが、それを差し引いても いい演奏だと評価したいです。 彼は、晩年になってから録音が増えた まれな指揮者です。 なぜかというと (うがった見方ですが) カラヤンが抜けた EMI での “後がま” 的な存在になったからです。

それにつけても EMI のジャケットは野暮ったいデザインが多い。 5番なんて、まるで (以前購入した右写真スイトナーの9番もそうですが 日本コロンビアの洋楽ものによくあるみたいな) ジャケット・センスのかけらもないベートーヴェン像だけの写真 (冒頭左下) じゃないですか。 演奏時間は38分もあり、緊張感に乏しいものでした。

1番・7番 (左上) もベートーヴェン像の左右対称の色違い写真で、これでは内容を期待させない作りだといってもいいほどです。 3番 (右上) も同じベートーヴェン像写真で色合い違いの一枚もの。 “EMI のデザインが昔から良くないのは定評がある” のを証明したようなものです。

音質は、あの EMI の 57〜60年の録音にしては、いい録音です。 源録音がよかったのか デジタル・リマスターと書いてあり復刻は成功で、カラヤンの61年 DG 録音と並ぶ好録音です。

第9 (右下) の独唱者は、レーヴベリ (S)、ルートヴィヒ (A)、クメント (T)、ホッター (B) とフィルハーモニア合唱団 (ウイルヘルム・ピッツ指揮) で、テノール歌手はカラヤンの61年録音でも歌っています。 ホッターは発音が不明瞭なのが少し不満です。

ただ やはり売れる CD じゃないだろうと思いますね。 この無骨な写真、デザインでは … 因に ウィキペディアのエピソード紹介に、クレンペラーは女癖が悪かったとあるのが信じられません、あのムスッとした面白くもないような顔で。
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
ウィキペディアから__オットー・クレンペラー (Otto Klemperer, 1885~1973) は、現ポーランド (当時ドイツ領) に生まれたユダヤ系ドイツ人指揮者・作曲家である。 20世紀を代表する指揮者の一人とされる。_※追加1へ
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
今日はここまでです。


※追加1_ ドイツ圏の古典派・ロマン派から20世紀の音楽まで幅広いレパートリーを持つ。晩年の録音で聴くことができるように、アンサンブルや音色・情緒的表現など表面的な美しさよりも、遅く厳格なテンポにより楽曲の形式感・構築性を強調するスタイルでよく知られている。 1950年代初頭ごろまでの録音には、逆に新即物主義的快速テンポによる同様のアプローチが見られる。

従兄弟には『第三帝国の言語「LTI」』(1974) の著者である作家のヴィクトール・クレンペラー (1881~1960) がいる。 息子は俳優のヴェルナー・クレンペラー (1920~2000年) である。

少年期__ ポーランドのヴロツワフ(当時はドイツ領ブレスラウ)に生まれる。 4歳の時にハンブルクに移り、同地で少年時代を過ごす。 音楽教育はハンブルク移住後、母親にピアノの手ほどきを受けたことに始まり、その後進学したフランクフルトのホッホ音楽院で、その後ベルリンに移り、作曲、指揮とピアノを専攻、ハンス・プフィッツナーに師事する。

ドイツ時代__22歳でグスタフ・マーラーの推挙を受け、プラハのドイツ歌劇場の指揮者になる。 以後 ハンブルク、ストラスブール、ケルン、ヴィースバーデンの歌劇場で指揮者を務める。 1919年にはケルン歌劇場の歌手であるヨハンナ・ガイスラーと結婚。 1921年にはベルリン・フィルハーモニー管弦楽団にデビュー、じきにベルリンでも好評を博するようになり、1927年にはウンター・デン・リンデン国立歌劇場に付属するクロル歌劇場の監督に就任する。 その革新的な試みは大きな話題となるが、ドイツ経済の急速な悪化とナチスに代表されるドイツ復古主義の台頭もあり、1931年には劇場は閉鎖される。 48歳の時 (1933年)、ナチス・ドイツ政権樹立に伴い、スイスを経由しアメリカ合衆国へ亡命する。

アメリカ時代__亡命後、クレンペラーはロサンジェルス・フィルハーモニックの指揮者となり、オーケストラの水準を大きく向上させる。 また 各地のオーケストラに客演し、ピッツバーグ交響楽団の再建にも関与する。 ところが 1939年に脳腫瘍に倒れたクレンペラーは、言語障害や身体の麻痺といった後遺症との戦いを余儀なくされ、ロサンジェルス・フィルの音楽監督の座も失うことになる。 この病をきっかけに元来患っていた躁鬱病も悪化、奇行が目立つようになり、以後アメリカでのキャリアは完全に断たれる。

第二次大戦後・晩年__第二次大戦後はヨーロッパに帰還を果たし、62歳 (1947年) でブダペストのハンガリー国立歌劇場の監督に就任。 すぐさま劇場を充実したものとするが、3年後には社会主義リアリズムを振りかざす共産党政権と衝突して辞任する。 その間、北米ヴォックス・レコードとのレコーディングを重ね、また世界各地のオーケストラにも客演する。 やがてロンドンでの客演が英国 EMI のプロデューサーであるウォルター・レッグに感銘を与え、1952年に EMI とレコード契約を交わすことになる。

アメリカの音楽団体による活動の制限、アメリカ市民権継続の問題などからしばらく北米に留まることとなるが、やがてヨーロッパへ脱出し、ドイツの市民権を回復する。 こうして、1954年 (69歳) からフィルハーモニア管弦楽団とレコーディングを開始したクレンペラーは、EMI から多くのレコードをリリース。 これにより、忘れられていた彼の名は広く知れ渡り、巨匠として世界的な名声を得ることになる。 そして1959年8月に、クレンペラーはレッグと終身のレコード録音契約を結ぶと共に同楽団初の常任指揮者の座に就いた。

クレンペラーとフィルハーモニア管弦楽団の関係は、楽団が1964年にニュー・フィルハーモニア管弦楽団として新しいスタートを切った後も変わることなく続いた。 晩年は体の衰え (聴覚も) が著しくなり、1972年1月に公開の演奏活動から引退を表明、同年末にはレコーディング活動からも引退する。 翌年にスイス・チューリッヒの自宅で亡くなった。

以上

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。